第25代 武烈天皇(傍丘磐坏丘北陵)・奈良県香芝市今泉




第25代 武烈天皇(傍丘磐坏丘北陵)・奈良県香芝市今泉

奈良県香芝市今泉

第25代 武烈天皇(ぶれつてんのう)

傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)

日本書紀によると極悪非道の天皇ということになっていますが、

次代の継体天皇の即位を正当化するための作り話であったとも言われています。

JR志都美駅から徒歩で11分0.9Km程

御陵前に駐車スペースがありますが、周辺道路が狭いので注意が必要です。

第25代 武烈天皇

諱  小泊瀬稚鷦鷯尊・小長谷若雀命

誕生 生年不詳

崩御 没年不詳

在位 仁賢天皇11年12月 – 武烈天皇8年12月8日

続柄 (父)仁賢天皇(母)春日大娘皇女

父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女の春日大娘皇女で、仁賢天皇7年に立太子したとされている。
仁賢天皇の崩御後に高御倉(たかみくら)を泊瀬列城宮に設けて即位した。
皇后には春日娘子をたてた。
武烈天皇にはいろいろな説話があり、その説話は大連の物部麁鹿火の娘の影媛と大臣の平群真鳥臣の子の鮪との間に入り横恋慕して嫉妬し、大伴金村に命じて兵を興し平群邸を囲い火を放って焼き殺した。
また、妊婦の腹を裂いて胎児を見たとか、生爪を剥して山芋を掘らせたとかの残虐性を強調したものとなっている。
武烈天皇の名は小泊瀬稚鷦鷯尊であるが、小泊瀬は大泊瀬、すなわち雄略天皇の悪行に対する乱行をあらわし、稚鷦鷯は仁徳天皇の名の大鷦鷯に対応し、旭日に対する落日をあらわしているとの説もある。
いずれにしても、応神大王家は武烈天皇で絶えたということの証左とみるべきなのであろう。

生没年不詳。記紀によれば第25代の天皇。在位は5世紀末から6世紀初めころ。小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)天皇ともいう。仁賢(にんけん)天皇の皇子。母は春日大娘(かすがのおおいらつめ)。泊瀬列城(はつせなみき)宮(奈良県桜井市初瀬)に都した。春日娘子(いらつめ)を皇后としたが太子がなかったので、御子代(みこしろ)として小長谷部(おはせべ)を定めた。『日本書紀』には、この天皇はもろもろの悪いことをして、一つも善いことをしなかったので人民は皆恐れたとして、その凶暴ぶりを記している。はらんだ女の腹を割いて胎児を見たり、人の生爪(なまづめ)を抜いて山いもを掘らせた。人の頭髪を抜いて樹(き)に登らせ、樹を切り倒して殺したり、弓で射落とした。人を池の樋(とい)に入れて流し、矛(ほこ)をもって刺し殺すのを楽しみとしたという。こうした行為の記述は、武烈天皇を国を滅ぼした暴君とするため、百済(くだら)の末多(まつた)王や中国の暴君の桀(けつ)王、紂(ちゅう)王の記事から造作したという説があり、王朝交替論の有力な根拠となっている。治世8年で没し、傍丘磐杯丘(かたおかのいわつきのおか)陵(奈良県香芝(かしば)市)に葬る。

武烈天皇(傍丘磐坏丘北陵)

代数
第25代
天皇名
武烈天皇(ぶれつてんのう)
御父
仁賢天皇
御母
皇后春日大娘皇女
御陵名

傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)
陵形
山形
所在地
奈良県香芝市今泉

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