第7代 孝靈天皇(片丘馬坂陵)・奈良県北葛城郡王寺町本町




第7代 孝靈天皇(片丘馬坂陵)・奈良県北葛城郡王寺町本町

奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目

第7代 孝靈天皇(こうれいてんのう)「日本書紀では大日本根子彦太瓊天皇」

片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)

日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子

母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)

兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。

欠史八代の一人で実在性については諸説あり。

孝安天皇の第1皇子、第7代孝霊天皇が祀られています。前帝が崩御されてから都を今の御所市室から磯城郡田原本町黒田に遷され、黒田の地で崩御された天皇がなぜ王寺町の片丘馬坂の地に葬られたかは不明です。王寺町では唯一の天皇陵として今日まで大切に守られてきました。 王寺町観光協会

第7代 孝靈天皇

諱  大日本根子彦太瓊天皇・大倭根子日子賦斗邇命

誕生 孝安天皇51年

崩御 孝霊天皇76年2月8日 128歳

在位 孝霊天皇元年1月12日 – 孝霊天皇76年2月8日

続柄 (父)孝安天皇(母)押媛

「日本書紀」によれば、孝安天皇の崩御後の翌年に即位して、都を黒田廬戸宮に移した。
磯城県主大目の娘細媛命を皇后とした。
皇妃には倭国香媛がおり、その皇妃との間によく卑弥呼に比定される倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)がいる。
孝霊天皇についても系譜のみ伝わり、その事績は伝わっていないので不明である。

皇室系譜に第7代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)。孝安(こうあん)天皇の皇子で、母は押媛(おしひめ)。都を黒田(くろだ)(奈良県磯城(しき)郡田原本(たわらもと)町)の廬戸宮(いおとのみや)に遷(うつ)して孝霊元年に即位、同2年に磯城県主大目(しきのあがたぬしおおめ)の女細媛命(むすめほそひめのみこと)を皇后とし、同76年に没して片丘馬坂陵(かたおかのうまのさかのみさざき)に葬られたという。『古事記』は、母を忍鹿比売(おしかひめ)命、皇后を十市(とおち)県主の祖大目の女とし、106歳で没したと伝える。

欠史八代の一人。

第七代天皇。第六代・孝安天皇の皇子。 母は『古事記』では姪忍鹿比売命、 『日本書紀』では姪押媛。

黒田の廬戸宮にて統治された。

『古事記』では、孝霊天皇は十市県主の祖・大目の娘、細比売命を娶って、 大倭根子日子国玖琉命(のちの第八代天皇・孝元天皇)をもうけた。
また、春日の千々速真若比売を娶って、千々速比売を生んだ。
また、意富夜麻登玖邇阿礼比売命を娶って、夜麻登登母々曾毘売命、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)、倭飛羽矢若屋比売を生んだ。
また、阿礼比売命の妹・蠅伊呂杼を娶って、日子寤間命、若日子建吉備津日子命を生んだ。
大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。
日子寤間命は針間(播磨)の牛鹿臣の祖。日子刺肩別命は高志(越)の利波臣、豊国の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖。

『日本書紀』では、孝霊天皇は細媛命を皇后として、 大日本根子彦国牽天皇(のちの第八代天皇・孝元天皇)をもうけた。
また、倭国香媛を妃として、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命を生んだ。
また、絚某弟を妃として、彦狭島命、稚武彦命を生んだ。稚武彦命は吉備臣の祖。

御陵は、『古事記』では片岡の馬坂の上。 『日本書紀』では片丘馬坂陵。

孝靈天皇(片丘馬坂陵)

代数
第7代
天皇名
孝靈天皇(こうれいてんのう)
御父
孝安天皇
御母
皇后押媛命
御陵名

片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)
陵形
山形
所在地
奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目

御陵より 信貴山方面

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