第35代 皇極天皇 第37代 齊明天皇(越智崗上陵)・奈良県高市郡高取町大字車木




第35代 皇極天皇 第37代 齊明天皇(越智崗上陵)・奈良県高市郡高取町大字車木

奈良県高市郡高取町大字車木

第35代 皇極天皇(こうぎょくてんのう)が重祚、第37代 齊明天皇(さいめいてんのう)

越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)

遺跡名は「車木ケンノウ古墳」で、直径約45メートルの円墳。

近年研究者の間では明日香村の牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されており、

そのほか同村の岩屋山古墳、橿原市の小谷古墳も候補としてあげられている。

推古天皇に次ぐ女帝、茅渟王の皇女で母は吉備姫王。

初め高向王に嫁ぎ、その後に舒明天皇との間に天智天皇、天武天皇を生みました。

大化の改新後、蝦夷征討軍を派遣。百済救援のため自ら九州に赴きその地で病没しています。

重祚(ちょうそ)再即位をした初めての天皇。

中腹には、天智天皇の皇女で、その弟 天武天皇の妃、

そして斉明天皇の孫にあたる「大田皇女

「天武天皇皇妃 太田皇女 越智崗上墓」があります。

華厳寺

御陵は奈良県道35号線から車木の集落に入った「華厳寺」の前から

石段を上った先にあります。(駐車場有り)

地蔵堂 庚申

石段を登り始めて直ぐのところに八幡神社が鎮座。

八幡神社

天武天皇皇妃 太田皇女 越智崗上墓

斉明天皇陵への中腹には孫の天武天皇妃 大田皇女陵

大田皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の姉。大津皇子の母にあたる。

大田皇女

大田皇女(おおたのひめみこ)は、天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘。同母妹に鸕野讚良皇女(持統天皇)。同母弟に建皇子がいる。

同母妹・鸕野讚良皇女とともに大海人皇子(天武天皇)の妃となり、大伯皇女・大津皇子を生むが、夫の即位前に薨去。薨去当時の大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。祖母・斉明天皇、叔母・間人皇女(天智の妹。孝徳天皇皇后)とともに葬られた。

同母妹・鸕野讚良皇女がのちに皇后となったことからみても、長生きしていれば天武の皇后となったかもしれない妃であった。大津皇子にとってこの母を早くに亡くしたことは、皇后所生の草壁皇子との後の対立を含め、人生に大きな影響を与えたと思われる。

2010年(平成22年)、奈良県明日香村の牽牛子塚古墳のそばから新たに石室が出土し、越塚御門古墳と命名された。『日本書紀』に記述されている斉明天皇の墓との位置関係から、一部では大田皇女の墓であることが決定的であると報じられた。 Wikipedia

齊明天皇は孫の建王(たけるのみこ)と一緒に葬られていると伝わる。

斉明天皇4年(658)の5月、建王は8才で薨じており、

特にかわいがっていた孫の死に、天皇は号泣したと日本書記にある。

また自分が死んだら必ず建王と一緒に葬るようにと命じてもいる。

第48代 稱德天皇  (第46代 孝謙天皇が重祚)

諱  寶(宝)

別名 天豊財重日足姫天皇

誕生 西暦594年

崩御 661年8月24日

在位

皇極天皇:642年2月19日 – 645年7月12日

皇極天皇元年1月15日 – 皇極天皇4年6月14日

斉明天皇:655年2月14日 – 661年8月24日

斉明天皇元年1月3日 – 斉明天皇7年7月24日

続柄 (父)茅渟王(母)吉備姫王

斉明天皇は、用明天皇の孫にあたる高向王に嫁いだが、その後舒明天皇に再嫁してのちの天智天皇、天武天皇らを生んだ。
645年「乙巳の変(いっしのへん)」で孝徳天皇に譲位したが、654年に孝徳天皇が崩御すると翌655年に飛鳥板蓋宮で即位して天皇の位についた(重祚という)。
この天皇は工事好きで知られ飛鳥岡本宮などを造営して民衆に「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」などと呼ばれた。
天皇が病を得て紀州に湯治に行ったとき、蘇我赤兄に謀られた有馬皇子が謀反を企てた。
だが発覚して紀州の藤白坂で処刑されるという事件があった。
660年朝鮮半島の百済から唐・新羅連合軍の侵攻を受けているとの報があり救援を求めてきた。
斉明天皇はこの救援要請を受け、軍を発向し熟田津を経由して博多へ入りさらに朝倉橘広庭宮へ移った。
この後天災が起きて天皇が病に倒れそのまま帰らぬ人となった。
百済の救援はその後天智天皇に引き継がれる。

女帝。第35代とされる皇極(こうぎょく)天皇(在位642~645)が重祚(ちょうそ)して第37代とされる斉明天皇(在位655~661)と諡(おくりな)される。名は宝(たから)。和風諡号(しごう)は天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇。茅渟(ちぬ)王の皇女。母は吉備(きび)姫王で、孝徳(こうとく)天皇の同母姉。初め高向(たかむこ)王(用明(ようめい)天皇の孫)との間に漢(あや)皇子を生み、その後に田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)との間に葛城(かずらき)皇子(天智(てんじ)天皇)、間人(はしひと)皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)を生んだ。舒明天皇の即位とともにその皇后にたち、天皇の死のあと即位した(皇極天皇)が、645年(大化1)6月の蘇我(そが)本宗家滅亡事件によって譲位。第36代孝徳天皇の没後、皇祖母尊として在(あ)った飛鳥(あすか)でふたたび即位し、飛鳥川原宮、ついで後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)に移った。その後も大土木事業をおこしたが、とくに石上山(いそのかみやま)に通じる大水渠(すいきょ)を、時人は狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)といったという。斉明女帝の政治は、皇太子中大兄(なかのおおえ)の輔(たす)けを受けて進められたが、有間(ありま)皇子の謀殺事件、東北や粛慎(みしはせ)の蝦夷(えみし)征討をはじめ国内政局は安定せず、国際的には朝鮮関係のうち、とくに対新羅(しらぎ)関係が緊迫した。そして、唐・新羅連合の圧力に苦しむ百済(くだら)の救援要請を受け、660年(斉明天皇6)から百済救援軍派遣の準備を進め、翌年には自身も筑紫(つくし)に出陣し朝倉宮を本営とした。しかし、ここで病となり、7月に没した。陵墓は奈良県高市(たかいち)郡の越智崗上(おちのおかのうえ)陵。

齊明天皇 (皇極天皇が重祚)(越智崗上陵)

代数
第35代・第37代
天皇名
皇極天皇(こうぎょくてんのう)・齊明天皇(さいめいてんのう)
御父
茅渟王
御母
妃吉備姫王
御陵名

越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)
陵形
円丘
所在地
奈良県高市郡高取町大字車木

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