第20代 安康天皇(菅原伏見西陵)・奈良県奈良市宝来
奈良県奈良市宝来4丁目
第20代 安康天皇(あんこうてんのう)「日本書紀では穴穂天皇」
菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
宋書倭国伝の倭の五王のうちの「興」にあてる説があり、
暗殺されたと明確に記された最初の天皇である。
遺跡名は「宝来城跡」に治定されている。
「古城1号墳」とも称されるが古墳ではないとする見方が強く、
近年の調査結果でも古墳時代の遺物は発見されていない。
城跡としては堀をめぐらした方形館の東側に馬出を付けた中世の平城である。
第20代 安康天皇
諱 穴穂
別名 穴穂天皇
誕生 生年不詳
崩御 没年不詳
在位 允恭天皇42年12月14日 – 安康天皇3年8月9日
続柄 (父)允恭天皇(母)忍坂大中姫
安康天皇は皇位継承争いを行った天皇として知られる。
允恭天皇の崩御後、太子の木梨軽皇子と穴穂皇子との間に皇位を巡り兵力を結集して争いが起きた。
しかし、木梨軽皇子が不倫の恋で人望を失い、人々は木梨軽皇子から離れた。
この後木梨軽皇子は物部大前宿禰の屋敷で自殺した。
穴穂皇子は即位して宮を大和の石上穴穂宮に移した。
しかし、安康天皇は根使主の偽計により大草香皇子を殺したためその子眉輪王の恨みを買い殺された。
安康天皇は「宋書倭国伝」のいわゆる「倭の五王」のうちの「興」にあてる説がある。第20代天皇。穴穂天皇(あなほのすめらみこと)ともいう。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王(わおう)の興(こう)にあたるとされている。父は允恭(いんぎょう)天皇。母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)。允恭天皇の太子軽(かる)皇子を殺して即位し、大和(やまと)の石上(いそのかみ)穴穂宮(天理市田町付近)に都した。元年2月、坂本臣(さかもとのおみ)の祖根使主(ねのおみ)の讒言(ざんげん)を信じて叔父の大草香(おおくさか)皇子を殺し、その妻中蒂(なかし)姫を宮中に入れて皇后とし、はなはだ寵愛(ちょうあい)した。3年8月、皇后の膝枕(ひざまくら)で昼寝中に、中蒂姫と大草香皇子の間に生まれた7歳の眉輪(まよわ)王に刺殺された。ときに56歳。3年ののち菅原伏見(すがわらのふしみ)陵(奈良市宝来町)に葬られた。
安康天皇(菅原伏見西陵)
代数
第20代
天皇名
安康天皇(あんこうてんのう)
御父
允恭天皇
御母
皇后忍坂大中姫命
御陵名菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)
陵形
方丘
所在地
奈良県奈良市宝来4丁目
掘りの跡が残り「宝来城跡」との見方も強い