第51代 平城天皇(楊梅陵)・奈良県奈良市佐紀町




第51代 平城天皇(楊梅陵)・奈良県奈良市佐紀町

奈良県奈良市佐紀町

第51代 平城天皇(へいぜいてんのう)

楊梅陵(やまもものみささぎ)

遺跡名は「市庭古墳」

かつては全国最大の円墳と考えられてきたが、発掘調査により

前方部が平城京築造の際取り壊された前方後円墳だったことが判明した、

このため平城天皇の墓とするのは無理があるとも言われている。

桓武天皇の第1皇子。参議制を廃止して観察使を置いたとされる。

在位3年で同母弟の嵯峨天皇に譲位するが、

平城京にうつり対立、その間「二所朝廷」と呼ばれた。

藤原薬子とその兄 藤原仲成の重祚の企て「薬子の変」にのって失敗し仏門にはいった。

第51代 平城天皇

諱  小殿(おて)、後に安殿(あて)

別名 日本根子天推国高彦天皇

誕生 774年9月25日(宝亀5年8月15日)

崩御 824年8月5日(弘仁15年7月7日)

在位 806年4月9日 – 809年5月18日

延暦25年3月17日 – 大同4年4月1日

続柄 (父)桓武天皇(母)藤原乙牟漏

名を安殿親王といい、桓武天皇の第一皇子。
母は藤原乙牟漏。
785年廃太子の早良親王に代わり立太子した。
806年父桓武天皇の崩御によって即位した。
生来病弱であったといい、藤原帯子の母である藤原薬子らの内部抗争で翻弄されたという。
また度重なる遷都や征夷軍の派遣で疲弊していた財政を引き締めるため、官僚組織の統廃合や地方行政の円滑化を行った。
病身を理由に同母弟、神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり旧都の平城京へ隠棲した。
しかし健康が回復すると国政に関心が戻り、平城遷都の詔を発するなど「二所朝廷」と称される分裂状態となった。
藤原薬子や藤原仲成らの甘言により重祚を望んで挙兵の準備を始めたが、嵯峨天皇が先手を打って藤原仲成を捕らえ(後射殺)し、藤原薬子へ与えた官位を剥奪し(後自殺する)てそれを阻止した。
上皇は東国へ逃れようとしたが坂上田村麻呂の兵により阻止され平城に戻り髪を剃って仏門に入った(「薬子の変」という)。
上皇は824年に崩御し、陵は奈良市佐紀町にある楊梅陵と治定されている。

平安前期の天皇。桓武天皇と皇后藤原乙牟漏(良継の娘)の第1子。奈良帝とも。小殿のちに安殿に改名。延暦4(785)年,藤原種継暗殺事件の嫌疑を受けて廃太子された早良親王にかわって立太子,大同1(806)年5月に即位した。生まれつき「風病(一種のノイローゼ)」気味であったが,即位当初は政治に意欲的に取り組み,観察使を諸道に派遣して平安京造営事業後の地方情勢を視察させたり,官司の統廃合を行うなど,政治経済の立て直しを推し進めている。しかし同4年4月,病気の悪化を理由に在位3年で弟神野親王(のちの嵯峨天皇)に譲位し,同12月平城旧都に移っている。皇太子時代から寵愛した藤原薬子やその兄仲成の介入で「二所朝廷」を現出,翌年9月平安京にいる貴族官人たちに平城京への還都を呼びかけたが,嵯峨側に機先を制せられ,東国に逃れようとして大和国添上郡越田村(奈良市)で捕らえられ,平城宮に連れ戻されて落髪入道した(薬子の変)。服毒自殺をとげた薬子亡きあと女性には心を開かず,ひとり平城旧宮で余生を送った。遺骸は平城京のすぐ北,楊梅陵に葬られ,その心をくんで平城と諡された。『凌雲集』『古今集』などに漢詩,和歌を収める。

平城天皇(楊梅陵)

代数
第51代
天皇名
平城天皇(へいぜいてんのう)
御父
桓武天皇
御母
皇后天之高藤廣宗照媛之尊
御陵名

楊梅陵(やまもものみささぎ)
陵形
円丘
所在地
奈良県奈良市佐紀町

  • このエントリーをはてなブックマークに追加