平城宮跡(平城京跡) 世界遺産・奈良県奈良市二条大路南
平城宮跡と朱雀門
和銅3年(710年)元明天皇によって都が、飛鳥の藤原京から奈良の平城京に移され、
その後、8代の天皇74年の間、都として栄えました。
その平城京の大内裏(中心)であった平城宮(へいじょうきゅう)の宮跡で、
1998年(平成10年)には「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして、
世界遺産に登録されました。
長期間にわたって調査や復原整備が進められており、
東西1.3km、南北1kmの広大な敷地には「第一次大極殿」や「東院庭園」、
「朝堂院」や平城京遷都1,300年の記念事業の一環として復原された「朱雀門」など、
数多くの復元施設が全域にわたって点在します。
2018年(平成30年)には5つの複合施設を含む「朱雀門ひろば」がオープンし、
平城宮跡歴史公園(正式には「国営飛鳥・平城宮跡歴史公園 平城宮跡区域」)となりました。
その他、平城宮の昔から今までを総合的に案内してくれる「平城宮いざない館」や
観光拠点施設「天平みはらし館」、レストランやカフェ併設の「天平うまし館」、
観光情報を集約した「天平みつき館」などの施設も充実しています。
また、「平城宮跡資料館」、「遺構展示館」、「復原事業情報館」では、
多数の出土品の展示、復元模型、遺構なども公開されています。
四季の移り変わりを感じられる自然の風景や、
1年を通じて行われる多彩なイベントも見どころの一つです。
遣唐使船とせんとくん
復原遣唐使船(ふくげんけんとうしせん)は、平成30年春に開業した平城宮跡歴史公園「朱雀門ひろば」の一角、遣唐使についての解説コーナーなどが設けられた「天平うまし館」に隣接する位置に設けられている巨大な「船」であり、かつて「遣唐使」を中国に運んだ「遣唐使船」を精巧に復原したものとなっています。
「遣唐使」とは、奈良時代がはじまる前(飛鳥時代)から平安時代初頭にかけて当時の中国(唐が支配)に、日本から貴族や僧侶らを使節として派遣し中国の高度な文化・技術、また仏教の経典などを持ち帰ることを目的として行われていたもので、回数としては約250年間の間に20回程度実施されたものと考えられています。
有名な派遣者としては阿倍仲麻呂・ 吉備真備・太安万侶・山上憶良・最澄・空海といった人物が知られていますが、随行者は医師や留学生、技術者や船の操舵を行う船員らなど含まれるものであり、奈良時代には1隻100人を越え、更に数隻の船団を組んで東シナ海を渡るという比較的壮大なスケールで行われていたとも考えられています。
平城京いざない館
朱雀門ひろばにある5つの館のうちの1つで、
奈良時代の平城宮を体感しながら平城宮跡全体の歴史や概要を知ることができる
ガイダンス施設。平城宮全域の復原模型(1/200)や大型映像、平城宮一日絵巻など、
往時の平城宮に入り込んだような空間の中で、奈良時代の雅な世界や人々の暮らしを
分かりやすく学ぶことができます。
平城宮跡内で発掘された出土品や資料の展示、
第一次大極殿復原にあたり製作された構造模型(1/5)も見応えがあります。
- 平城京いざない館
- 開館時間
10:00~18:00(入館は17:30まで)
夏期 6月~9月 10:00~18:30(入館は18:00まで)料金 無料
休館日
2月・4月・7月・11月の第2月曜日(祝日の場合は翌日休)、年末年始
問い合わせ
平城宮跡管理センター
〒630-8012 奈良県奈良市二条大路南3-5-1
TEL 0742-36-8780
ホームページ
https://www.heijo-park.go.jp/area/suzakumon/izanaikan/
朱雀大路と朱雀門
朱雀門から羅城門を結ぶ朱雀大路は幅74m、長さ3,700mに及ぶ壮大な道路でした。
朱雀門は平城宮への正門で、1998年に復原されました。
奈良時代、天皇や外国からの賓客など位の高い人々の送迎を行ったり、
南の広場では大勢の人びとが集まり歌垣なども行われました。
朱雀門
朱雀門
平城京の入口の羅生門から、74mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北にのび、その4km先には平城宮の正門である朱雀門がありました。 いまある朱雀門は、長年の調査と研究により、平成10年(1998年)、平城宮跡(世界遺産)に復原されたもので、東西約25m、南北約10m、高さ約20m、朱色に塗られた入母屋二層構造です。
平成30年3月に、この朱雀門前に、奈良県の観光・交流拠点として「朱雀門ひろば」が誕生しました。
中央区 朝堂院
朝堂院とは大内裏の正庁で、本来は八省の官人が政務を執り、
天皇が臨御して親裁する朝政の場であったが、次第に即位、朝賀など、
国儀大礼を行なうだけとなりました。
第一次大極殿 南門
南門は、第一次大極殿院の正門で、儀式の際には、天皇が出御することもありました。
入母屋造の二重門に復原され、間口約22.1m、奥行約8.8m、高さ約20.0mと、
朱雀門よりやや小さな礎石立ちの建物です。
第二次大極殿 基壇
平城宮の大極殿は二つありました。
ひとつは現在復原されている第一次大極殿で、朱雀門から一直線上に続く真北にあります。
第二次大極殿はその東側、天皇の住居である「内裏」があった南側にあります。
第一次大極殿は、恭仁京へ遷都の時(740年)に移築されました。
その後、難波宮、紫香楽宮、へと移った都が、再び平城宮へ戻った時(745年)に、
もとの第一次大極殿の東側に新設されたのが第二次大極殿となります。
東区にはもともと天皇が日常の政務をおこなう大安殿という建物があり、
国家的な儀式をおこなう第一次大極殿と使い分けられていたようです。
大安殿の大極殿への建て替えにより、二つの機能を統合した
新しい形の大極殿が誕生したとみられています。
現在、第二次大極殿は石の基壇のみが復原され建物が一切ない状況となっていますが、
周辺の遺跡や復原基壇と合わせると、広々とした平城京跡の中で
遺跡らしい風情を感じられるスポットとして散策を楽しむ人の憩いの場ともなっています。
東区朝堂院跡と幡立て
若草山 東大寺方面
基壇の上に登ると若草山や春日山の、東大寺方面や、
生駒山から連なる金剛山、葛城山への山並みも見渡すことができます。
また秋には平城京跡一面に生えるススキや、冬には雪景色を楽しむのにもよく、
ちょっとした平城京跡内の「展望スポット」となっています。
宮内省の復原建物
内裏東側のこの一画で見つかった建物群は、天皇家のための仕事をする宮内省関係の役所とみられている。 築地塀(ついじべい)で囲まれた東西約50m、南北約90mの区画の中には、瓦葺の正殿(せいでん)を中心に檜皮葺(ひわだぶき)の脇殿や倉庫など6棟の建物があった。 ここでは、発掘調査の成果をもとに、現在残っている奈良時代の建物の姿かたちを参考に、門、築地塀、建物を復原している。 復原にあたっては、できるだけ当時の工法を用いた。
復原された宮内省の建物
役所での仕事
内裏東方のこの一画で発掘された建物群は、天皇家の財政と生活を支えた仕事を担当した宮内省の遺構と推定されています。 宮内省に限らず平城宮の役所では、土間に机と椅子を置いて仕事をしていたようです。 復原建物の中に置かれている机は、正倉院宝物の 「多足几;たそくき」 を参考に製作しました。
役人の道具
紙が貴重であったために奈良時代には、日常の業務には木簡(もっかん;文字を画く薄い板) を大量に使用しました。 木簡は表面を削り直せば何度でも使えます。 そこで、木簡を削るための小刀が、筆とあわせて役人の必需品となりました。このために役人は 「刀筆の吏;とうひつのり」 とも呼ばれています。
内裏と井戸
内裏(だいり) と井戸
内裏は、天皇が日常的に生活をおくり、政治や儀式をおこなうところ。 ときには貴族を招き入れて宴会を開くこともあった。 また、内裏の中には、女官たちの役所もあった。 ここ内裏東端部で見つかった井戸は、直径1.7mのスギの木をくり抜いた井筒をすえ、まわりに切石や玉石をしきつめた立派なもので、天皇のために用いられた。 この実物大模型は、本物の井戸を土でおおった上に、新しい材料を使って再現したものである。
第一次大極殿
第一次大極殿は平成22年4月24日に復原されました。
大きさは間口44m、奥行き20m、高さ27mと宮内最大の建物です。
ここにおかれた高御座(たかみくら)に天皇が出御し、即位や元日朝賀の儀式をしたり、
外国使節の謁見などが行われました。
平城宮で最も重要な施設であり、その名は太極星(北極星)からきています。
第一次大極殿 内部
大極殿の概要
第一次大極殿は、奈良時代前半に、平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的建物で、天皇が様々な国家儀式を行う施設でした。「大極」(太極;たいきょく) とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北斗星を意味します。大極殿は和銅8年(715)には完成していたと考えられます。
大極殿の姿
第一次大極殿の姿を直接的に示す資料は残っていない。復原に当たっては、大極殿が移築された恭(く)仁(にの)宮(みや)の大極殿跡の調査成果などを参考に、柱の位置がを推定されている。上部の建物については、現存する法(ほう)隆(りゅう)寺(じ)金(こん)堂(どう)や薬(やく)師(し)寺(じ)東(とう)塔(とう)などの古代建築をはじめ、平安時代の『年(ねん)中(ちゅう)行(ぎょう)事(じ)絵(え)巻(まき)』に描かれた平安宮の大極殿などを参考に調査研究を行ない、当時の姿が復原された。大極殿は、二重構造の入(いり)母(も)屋(や)造りで、前面は扉のない吹放しの建物と考えられている。
高御座
高御座
第一次大極殿の内部には、高(たか)御(み)座(くら)と呼ばれる天皇の玉座が置かれていた。高御座は、皇位を象徴する重要な調度で、天皇は即位式や元日朝賀などの国家儀式の際に、大極殿に出(しゅつ)御(ぎょ)して高御座に着座した。貴族は、大極殿の南に広がる内(ない)庭(てい)に立ち並び、大極殿の天皇を拝した。
高(たか)御(み)座(くら)は、国家儀式の際に天皇が着座した玉座である。奈良時代の高御座の構造や意匠に関する記録はなく、詳細は不明である。ここに展示した高御座の模型は、大極殿の機能や広さを体感できるように、大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、各種文献史料を参照して製作した実物大のイメージ模型である。細部の意匠や文様は、正(しょう)倉(そう)院(いん)宝(ほう)物(もつ)などを参考に創作された。
飛騨産業では、この高御座を復元した。飛騨・世界生活文化センター内に展示している。
第1次平城宮
平城宮の建設
和銅元年(708)から、平城京の建設が本格的に始まった。2月、「まさに今平城の地は、四禽図(しきんず)に叶い、三山鎮をなす、亀筮ならびに従う、よろしく都邑を建べし」という詔が元明女帝から発布される。3月には閣僚の人事異動が発令され、左大臣石上麻呂・右大臣藤原不比等・大納言大伴安麻呂らトップのもとに、造宮として大伴手拍が任命された。9月、多治比池守が造平城京司の長官に併任され、10月になると伊勢大神宮に使者を送って造営の安全を祈願する。11月、平城宮予定地内に住む菅原の農民90余家を移転させ、12月になってようやく平城の宮地で地鎮祭を行なった。
和銅3年(710)3月、平城に遷都。藤原宮の留守役を左大臣石上麻呂とし、遷都の実際的な経営は右大臣藤原不比等の手に委ねられたようだ。<宮門と大垣>
平城宮の範囲は、精度の高い土木技術で設定された京の条坊地割りによって決定された。その平面形は、約1,000メートル四方の正方形の東側に、東西約240メートル、南北約750メートルの長方形区画を付け足した逆L字形をとる。条坊道路と宮城との境には濠(道路の側溝)・壖地(犬走り)があって、その内側に瓦葺きの築地大垣を築いて外囲いとする。土をつき固めて高い塀をつくる築地は、平城宮で初めて採用された新しい技術であった。
大路と条・坊間路に面して宮城門を開く。南面と西面では、それぞれ3門を配置し、南面中央門がもっとも大きく、正門の朱雀門である。東南の入り隅部に1門を開く。東面には2門を想定できるが、南側の門は変則的に藤原不比等の邸宅(のち法華寺)に面して開いたようだ。北面では中央門しか想定できない。
宮域を東西に区画する南北方向の基準線は、大路と坊間路の中軸線と同じである。南北に区画する東西方向の基準線は、南面大垣から533メートル(大尺1,500尺)北に位置する第1次大極殿南門、第2次大極殿南門の中心を結んだ線である。この東西の基準線に基づいて、宮内が大小の敷地に区画されるが、基準になる尺度として、大宝令で測地用の尺とされている大尺(小尺×1.2、0.3529メートル)が用いられている。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年第1次大極殿院・朝堂院
平城宮の南面に展開する朱雀大路と、二条大路の交差点は一種の広場であり、平城宮の役人と京の住民とで行なう歌垣のような行事、宮中の大祓いの儀式、あるいは、政府が主催するデモンストレーションの場であった。朱雀門の内側は、天皇・貴族・役人の世界だ。バラス敷きの道路が北上し、朝堂院南門に至る。一般には、これから先が平城宮の中枢部の区画である朝堂院と大極殿院であると考えられている。大極殿は天皇と貴族が中心になって行なう国家儀式の舞台であり、朝堂院は貴族が会合し、政治を論じ、儀式を行なう場所とされている。
朝堂院の区画は、初期には掘立柱塀、後期には築地で囲み、その東西の築地寄りに南北に長い大きな礎石建物をそれぞれ2棟ずつ配置し、中央部は広々とした広場となる。大極殿院は周囲を築地回廊で囲み、壇の表面を塼を積んで化粧し、登壇のため左右の端に斜めの道を造る。壇上には基壇・礎石付きの壮大な大極殿を建て、後方に後殿を置く。
このような平面プランは、平城遷都の710年から恭仁宮へ遷都する天平13年(741)までの姿であり、さらに朝堂院は、大極殿院よりも遅れて715年以降に造営されたことがわかっている。初期平城宮における大極殿院・朝堂院の平面プランは、先に造られた前期難波宮や藤原宮に見られない独特の配置である。
大極殿を高い壇の上に配置し、その前面に広場(朝庭)を設ける方法は、中国の唐大明宮の含元殿に見ることができ、平城宮でそれを模倣したと考えられる。含元殿では、壇下の東西に南面する建物1棟があり、これが東西の朝堂である。平城宮では壇下で建物を発見していないが、大極殿の左右に広い空間地が残り、基壇・礎石付きの建物を想定することができる。つまり、藤原宮のように朝堂12堂・大極殿・内裏の区画を南から北へ向かう一直線上に配置するのをやめて、唐の制度をまねて東西2朝堂に変更したと考えるべきである。強いて言うならば、築地回廊の中に大極殿と朝堂院の機能を集約したのである。
これこそ、藤原不比等が決意した行政改革の狙いではなかったか。<内裏>
壬生門内にも、大宝大尺で区画された地割りがあり、南から朝集殿院・朝堂院・大極殿院、内裏と築地や築地回廊で囲まれた区画が串刺し状に並ぶ。
内裏は東西500大尺(約180メートル)、南北550大尺(約194メートル)の方形に近い平面形をとる。前半期(恭仁宮から平城宮に遷都するまで)はまわりを木塀で囲み、初期には中央に並び堂形式の正殿を置き、前面を広場として後方に数棟の規格的な建物を配置するが、いずれも掘立柱の檜皮葺き建物である。天皇が寝起きする建物を正殿にあてるなら、天皇の生活空間だけに限定されているようだ。一方、初期の大極殿院とは区画がはっきりと区別されていることから、天皇の国家的機能と家政的な機能をはっきりと分離しようとする意図がありありとうかがえ、これも不比等の創案によるのであろう。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年第1次平城京
和銅3年(710)、飛鳥に近い藤原京から、奈良盆地北部のこの地に都が移された。大路小路が碁盤目状に通る平城京の人口は、10万人程度と考えられている。平城京の中央北端に位置する平城宮は南北約1㎞、東西約1.3㎞の大きさで、天皇の住まいである内裏、政治や儀式を執り行なう大極殿と朝堂院、さまざまな役所、宴会の場となる庭園などが設けられていた。しかし、都は延暦3年(784)に長岡京へ、さらにその10年後には平安京へと移り、平城京も宮も次第に土の中に埋もれていった。
現在、平城宮跡は国の特別史跡として大切に保存され、奈良文化財研究所が発掘調査を続けている。これまでの調査の結果、平城宮は四角形ではなく東側に張出し部を伴なっていたことや、政治の中心施設である大極殿と朝堂院の区画が東西2ヶ所あったことなどが明らかになっている。こうした成果に基づき、遺跡の復原・表示を行なっている。
※説明板より第1次大極殿
第1次大極殿は、奈良時代前半に、平城京の中軸線上に建てられた平城宮の中心的建物で、天皇が様々な国家儀式を行なう施設であった。「大極」太極とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味する。大極殿は和銅8年(715)には完成していたと考えられる。
第1次大極殿の姿を直接的に示す資料は残っていない。復原に当たっては、大極殿が移築された恭仁宮の大極殿跡の調査成果などを参考に、柱の位置が推定された。上部の建物については、現存する法隆寺金堂や薬師寺東塔)などの古代建築をはじめ、平安時代の『年中行事絵巻』に描かれた平安宮の大極殿などを参考に調査研究を行ない、当時の姿が復原された。
大極殿は、二重構造の入母屋造りで、前面は扉のない吹放しの建物と考えられる。大極殿の仕様
①大極殿の大きさ
東西長さ/約44.0m(9間)
南北長さ/約19.5m(4間)
高さ(棟高)/約27.1m(基壇高さ約3.4mを含む)
初重の柱 直径/約71㎝ 長さ/約5.0m 本数/44本
二重の柱 直径/約59㎝ 長さ/約2.4m 本数/22本②木材
ヒノキ、ケヤキ(吉野・熊野地方を中心とする国内産)③屋根瓦
約10万枚④工期
平成13年/着工 平成22年/完成
※説明板より
第一次大極殿より望む南門
平城京全景図
平城京とは
平城京は、今から1300年ほど前に、現在の奈良市につくられた都です。平城京を中心に、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれています。
平城京ができたのは西暦710年。元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、新しい大規模な都をつくりました。平城京のモデルとしたのは、その頃もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安という都でした。
東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形の東側に、東西約1.6km、南北約2.1kmの外京を加えた総面積は約2,500ヘクタール。都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐにのびるメインストリート・朱雀大路は幅約74m。道路というより広場と呼びたくなる広さです。この朱雀大路の西側を右京、東側を左京といいます。碁盤の目のように整然と区画されたスケールの大きな都には10万人以上の人が暮らしていたといわれています。
平城宮の中心は、政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇のすまいである内裏、役所の日常的業務を行う官衙や宴会を行う庭園など、都を治める官公庁が集まった平城宮でした。東西・南北ともに1 kmの東側に、東西250m,南北750mの張り出し部を持つ平城宮の周りには大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれました。平城宮に入ることができたのは、皇族や貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々でした。
現在、特別史跡として、世界遺産を構成するひとつとして、だれもが自由に散策を楽しめる平城宮跡。奈良時代の姿を思い浮かべながら、歴史のロマンを感じ取ってください。
奈良時代前半の平城宮
奈良時代後半の平城宮
ふたつの大極殿
大極殿は、天皇の即位などの大切な儀式がおこなわれていた場所です。平城宮にはこの大極殿の跡が2つも残っています。なぜでしょう?
聖武天皇は740年から745年まで、現在の京都、大阪、滋賀と、都を転々と移し替えたのですが、その際それまであった大極殿をあわせて解体、移築しました。745年には再び平城京を都としましたが、このときには以前の大極殿があった東側に新しい大極殿を建てたのです。
現在の平城宮跡にみられる「第一次大極殿」は元明天皇が建てた大極殿、「第二次大極殿」は聖武天皇が建てた大極殿です。
平城宮
平城宮(へいじょうきゅう、へいぜいきゅう)は、平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。
歴史
平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏すなわち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙のいわゆる外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りした。東端には東院庭園がおかれ、宴等が催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。
ただし、平城京に都が置かれていた70年余りに間に何度か大規模な改築が実施されており、その間に平城宮内部の構造も変化している部分もあったが、そのことが後世の研究家に認識されることは少なく、実際に本格的な発掘が実施されるまで誤った推定が行われる遠因となった。
784年(延暦3年)に長岡京に遷都され、その後平城上皇が大極殿(第一次)跡地に新しい宮(平城西宮)を造営して居住したこともあったが、やがて平安京が都としての地位を確定すると放置され、しだいに農地となっていった。
1852年(嘉永5年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。明治時代に建築史家、関野貞が田圃の中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇である事を発見、1907年(明治40年)に『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。ただし、関野の研究は大極殿(第一次)の恭仁京への移転を含む平城宮の度重なる改築の事実を認識できず大極殿(第一次)を内裏の遺構と誤認したこと、中宮(中宮院とも、聖武・淳仁天皇の御在所)を無条件で内裏の別称と解したこと、内裏位置の誤認のために実際の内裏区域に対してはほとんど関心を払わなかったことなど、今日からみれば問題となる部分を含んでいた。
この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年(大正10年)には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、「平城宮跡」は1922年(大正11年)に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。この時、上田三吉を中心として発掘作業が実施されて大極殿(第二次)の北方(すなわち実際の内裏区域)にも遺構があることを確認した。ただし、上田もこれが内裏の一部であるとする認識には至らなかった。1928年(昭和3年)にも岸熊吉の発掘調査で今日内裏の東大溝として知られている部分を発見しているが、岸も内裏との関連性に気付くことはなかった。
大規模な発掘調査はその後、1953年(昭和28年)・1955年(昭和30年)に実施したが、内裏に関する関野説の誤りを指摘して正確な内裏の跡地の推定をしたのは、1960年(昭和35年)の奈良国立文化財研究所の発掘調査に参加した工藤圭章であった。戦後に「址」(し・あと)が常用漢字外であるため「平城宮跡」と書かれるようになる。1960年代に近鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動が起こった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。
なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。
また2015年度(平成27年度)には、平安京大内裏の豊楽院での発掘調査によって豊楽殿(豊楽院中心施設)の規模が平城宮第2次大極殿と一致することが判明しており、第2次大極殿は平安京へ移築されたとする説が生じている。
Wikipedia
平城京を貫く近鉄奈良線は移設へ