長篠・設楽原の戦い 古戦場跡 史跡 墓所跡・愛知県新城市




長篠・設楽原の戦い 古戦場跡 史跡 墓所跡・愛知県新城市

古戦場を訪れる – 新城市H.P
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/6,3121,118,662,html

愛知県新城市には有名な

織田・徳川連合軍と武田軍との争いが繰り広げられた

長篠・設楽原の戦いに関する古戦場跡や様々な史跡

名だたる戦国武将の墓所が残っています。

現在、新城設楽原歴史資料館を中心にお散歩散策コースとして

整備されています。


設楽原決戦ガイド

首洗い池の横にある設楽原決戦ガイド


新城市設楽原歴史資料館

新城市設楽原歴史資料館よりスタート

新城市設楽原歴史資料館・愛知県新城市の記事


信玄祖師堂跡

保育園の近くにある「信玄祖師堂跡」


牧野文斎の碑

保育園の前の公園には築山がありその上に牧野文斎の碑が建っている。


武田勝頼公 指揮の地

「武田勝頼公 指揮の地」設楽原決戦時、勝頼公はここに建って指揮をとったと伝わる

やがて大敗する眼前の状況を見て引揚貝を吹いたという。


甲州の武将 横田備中守 親子の塚


内藤昌豊の墓所

武田の副将と言われる内藤昌豊の墓が建つ。


甘利信康の墓所


柳田前激戦区

連吾川に架かる橋「柳田橋」

この付近は正面の高松山(家康本陣)の前にあたり、馬防柵が一面に設けられ、

突撃する武田騎馬隊と迎え撃つ織田徳川鉄砲隊との激戦があった場所で、

「柳田前激戦地」と彫られた石碑が建つ。


長篠の戦い 設楽原決戦場

日本三大決戦の一つとされる長篠・設楽原の戦いは、
初めて新兵器鉄砲(火縄銃)を大量に使用し、その威力をまざまざと見せつけ、
後の戦術に一大変革をもたらした日本史に残る著名な戦いです。
設楽原決戦場まつりは、「設楽原をまもる会」が中心となって、
毎年7月に戦死者の供養、鉄砲隊の演武などが行われます。


馬防柵

これは、馬防柵といって、武田騎馬軍団の進撃を阻止する馬防ぎの柵で、
織田・徳川連合軍は陣地の前にこの柵をめぐらし、鉄砲隊を並べて待ち構えました。
馬防柵に押し止められたその上に、3千挺の火縄銃が絶え間なく火を噴き、
武田騎馬軍の惨敗で終わりました。
近代兵器鉄砲が、伝統的な刀と馬の戦法に取って代わった決定的な瞬間でした。


鉄砲構え

馬防柵の石碑「三千挺の鉄砲とゝろく 天正三年五月二十一日 こゝ設楽原」


土屋昌次の墓所

土屋右衛門尉昌次戦死之地。

武田譜代家老で奥近習六人衆(信玄護衛侍大将)の一人でもあった

重臣・土屋昌次が柵に取りつきながら大絶叫を上げて討死したと伝わる場所。


黒畑阿弥陀堂


小幡信貞の墓所

小幡上総介信貞(おばた かずさのすけ のぶさだ)の墓所。

武田二十四将の一人で、甲陽軍鑑によれば武田家中での最大の500騎持ちだったとか。

なお長篠の合戦で戦死したのは信貞とも信貞の甥とも信貞の父とも言われる。


山県昌景の墓所

先の三方ヶ原の戦いで徳川家康を返り討ちにした

武田軍の重鎮「山県昌景」の墓所

長篠の戦いでは武田軍左翼を担い、馬防柵に最初に突撃するも撃退され、

撤退戦の中で討死したとされる。

信長公記では討ち取った諸将の筆頭にあげられており、

織田軍の中でも名が広く知れ渡った武田家の重要人物だったようだ。

部隊の甲冑を赤一色にした「赤備え」が有名。


首洗い池

この池の呼び名はいくつかあり、

戦場考では「血洗池」、江戸時代後期の参河名所絵図(夏目可敬)では「刀洗池」、

東郷村沿革史では現在の「首洗池」と記されています。

いずれも戦いの激しさを思い起こせる名前です。

池のお地蔵様に願いをかければ、願い事が叶うと信じられています。


本田玉発見地

設楽原周辺から出土した鉄砲玉。

発見した人の名を取って、「山田玉」や「熊谷玉」などと呼ばれていそうです。

ここは本田玉発見地の地。

発見された鉄砲玉類は設楽原歴史資料館に展示されている。


閻魔堂

信玄塚の広場の片隅みある「閻魔堂」

1771年に新城市竹広に生まれた空道和尚は設楽原の戦いで散った

両軍戦死者の供養をし、精魂を込めて「閻魔大王像」を造ったと言われています。

像の裏には、優しく微笑む地蔵尊を背負っています。

地蔵尊は閻魔大王の化身であり、設楽原を訪れたあなたを

すべての厄難・病気から守護して、健康長寿と西方極楽浄土に住生する

パスポートを授けてもらえます。

そのほかに、大塚の地蔵石仏、小塚の観音石仏も空道和尚の作と言われています。


信玄塚 大塚


信玄塚 小塚

天正3年(1575年)織田・徳川連合軍と武田軍の間で起こった

「設楽原の戦い」は連合軍側の大勝利に終わりました。

この戦いで両軍合わせて1万6千人もの戦死者があったと言われています。

戦場の片付けに従事した竹広の村人は、この地に戦死者をねんごろに葬り、

塚を築いて弔いました。

当時すでに亡くなっていた信玄の名を冠していることから、

いかに信玄の存在が大きかったのかを知ることができます。

北のほうを大塚、南の方を小塚と呼び、

現在はそれぞれ2代目となる松が植えられています。

また、信玄塚には山梨県の人々によって建てられた供養塔や、

地元の人々によって建てられた400年祭供養塔、閻魔堂などもあります。


信玄塚と火おんどり

毎年8月15日の夜に、竹広の信玄塚で

戦死者の霊を弔う「火おんどり」が行われています。

半月前から各戸で「タイ」と呼ばれる松明づくりが始まります。

当日は、法被 鉢巻 猿股姿で旧家・峯田氏家に集まります。

峯田家主のおこした浄火を「お種」と呼ばれる3本のタイに移し、同家を出発。

火踊坂を登り、途中、武田軍の戦死者・山県三郎兵衛昌景の墓前を通り、

3本のお種は坂上でタイの火を点じて信玄塚に繰り込みます。


原昌胤の墓所

武田信玄の側近、山県昌景と並び称される

原昌胤の墓所

見落としてしまった場所もありますが、

30分ほどでゆっくりと巡ることができます。

■ 新城市内 他の史跡


織田信長陣跡 茶臼山

織田信長が陣を張った茶臼山の記事

頂上付近には珍しい織田信長が詠んだ歌碑も残ります。

茶臼山(134.6m) (織田信長本陣跡)の記事


長篠城跡

日本100名城にも選出されている長篠城跡(ながしのじょうあと)

長篠城跡(ながしのじょうあと)の記事


長篠城址史跡保存館

新城市設楽原歴史資料館と共に巡る人も多い長篠城址史跡保存館

こちらは長篠城跡地にあり、戦いの経緯や鉄砲以外の展示物はこちらの方が充実している。

長篠城址史跡保存館の記事

武田軍が陣を張った裏にそびえる山々

山中には様々な史跡が残っています。

船着山(427.2m) ・常寒山(482m) の記事

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