奥殿陣屋(おくとのじんや)・愛知県岡崎市奥殿町
奥殿陣屋はその昔、持統上皇が命名されたと伝えられる花ぞの山(村積山)の麓、
徳川家氏の発祥地松平郷に程近いところに座します。
1万6千石の親藩として奥殿藩の歴史と文化が静かに眠ります。
春の山桜、バラ・あじさい・もみじ・つばきなど
四季折々に美しく咲きほこる花園の里でもあり、いつ訪れても美しい景観に出会えます。
陣屋の文字が遠くからでも目立ちます
2万石以下なのでお城ではなく陣屋
資料展示室
江戸時代末期の幕臣「永井尚之」や
最後の藩主、日本赤十字社の父「大給恒」、
近代茶道の祖「茶道裏千家代十一世玄々斎宗室」など
奥殿藩出身者の資料を展示しています。
明徳館跡
明徳館跡
陣屋の敷地内、書院にほどちかいところに立看板のみ残る。
「第10代藩主乗利が弘化3年(1843)藩校明徳館として創立され、
13年後 第11代藩主乗謨(のりかた)が学問所として改称し、教育内容の充実を図りました。
漢学、書道の他に関流算法、珠算、地理、天文、暦学までにおよぶ
高度な内容が教えられました。」
書院
もともと奥殿陣屋に建物はありましたが、
本拠地を田野口(旧臼田市、現佐久市)に移した頃、桑原町の龍渓院に移築されたそうです。
現在の書院は、1985年に龍渓院の庫裡として使用されていたものを
奥殿陣屋に再移築し再整備したものです。
奥殿陣屋
築城年代は定かではないが正徳元年(1711年)以前に
(大給)松平乗真によって築かれたと云われる。
大給松平氏は寛永4年(1627年)大坂の陣の功によって
大給松平真乗の次男真次が三千石の知行を奥殿の地に願い出て認められ、
更に足助に四千石の加増を受けた。
貞享元年(1684年)乗次の時に河内・摂津・丹波に所領を得て諸侯に列し、
乗真の時、河内・摂津・丹波の所領一万二千石が、信濃国佐久郡と三河国加茂・額田に移され、
これによって正徳元年(1711年)奥殿に陣屋を移した。
文久3年(1863年)乗謨の時に陣屋が手狭となり、
所領の大半を占める信濃国佐久郡の田野口に龍岡城を築いて移った。現在奥殿陣屋跡には古地図を元に書院風の茶処、冠木門などが建てられ、
庭園も整備されるなど観光地として賑わっている。
また、陣屋の一画には無料の資料展示室が設けられている。
陣屋の遺構としては、冠木門付近の石垣と、
奥の山にある歴代藩主の墓所通じる道の途中に土塁が残っている。
花火資料室
奥殿陣屋内に岡崎市で唯一の花火の資料館があります。
花火の発祥は、一説に三河と言われているそうで
徳川家康の鉄砲隊が故郷に戻り、火薬の平和利用に腐心したためだそうだとか
この地方には、稲富流を元祖として、
一光流、武田流、荻野流、熊野流など数々の煙火流派が伝承されています。
金鳳亭 庭園
大手門周辺
かつての配置図によると大手門はこのあたりにあったそうです
七神宮(七つの宮)
土塁
土塁
陣屋の南と東(山側に)約200メートルにわたって土塁が築かれれ
陣屋の境界を示すと共に防御の役割を果たしていた、
また大雨の時には村積山から流れ出る水から
陣屋を守るのにも欠かせないものとなっていた。
奥殿藩歴代藩主廟所
徳川家康の祖、松平家の親藩として
初代真次から代々の藩主や奥方をまつる壮大な墓塔が立ち並ぶ廟所(お墓ではない)
幼少期に亡くなった8代、と最後の11代藩主は田野口へ本拠地を移したためありません
年1回地元の保存会による、廟所法要が行われます。
奥殿陣屋から村積山や熊野神社へのハイキングコースが整備されています。