網掛山(1133m)・長野県下伊那郡阿智村




網掛山(1133m)・長野県下伊那郡阿智村

東山道・園原ビジターセンターはゝき木館

長野県下伊那郡阿智村、昼神温泉の南にそびえる網掛山

古代の五畿七道の一つ「東山道」が山中を通る歴史ロマン溢れるコースです

網掛山(あみかけやま)

標高 1132.7m 登山日 2019年8月10日
網掛トンネルで名が知られる 古代東山道が通る山
所在地  長野県下伊那郡阿智村智里

難易度      オススメ ★★ 登山口(ナビ検索) 古代東山道祭祀遺跡碑
スタート地点(11:23)→網掛峠(11:54)→網掛山(12:19)→東展望台(12:30~12:51)→ゴール地点(13:19) 所要時間 1時間54分 高低差 407m 累積標高 425m / 430m 距離 4.0tm
■昼神温泉郷の南に位置する山。現在は中央自動車道の網掛トンネルでその名が知られる。古代東山道が通る山で、神坂峠から下って園原の集落を抜け、この山の肩にある網掛峠を通り、飯田の方に抜ける。麓の阿智村では、阿智村内にある、恵那山、富士見台高原、網掛山、南沢山、高鳥屋山、大川入山、蛇峠山の7つのピークを「阿智セブンサミット」と命名し、登山道の整備と登頂記念イベントを進めている。
■古代東山道は、神坂峠から一旦下って園原の集落を抜け、再びこの山の網掛峠を通り、飯田の方に抜けていった。現在は中央自動車道の網掛トンネルでその名が知られる。
昼神温泉郷の南に位置する山で、昼神温泉からの入山がよい。東側の展望台からは南アルプスや昼神温泉が見渡せる。
■ー
■ー

長野県下伊那郡阿智村にある代表格の7つの頂、恵那山・富士見台高原・大川入山・南沢山・蛇峠山・網掛山・高鳥屋山が「阿智セブンサミット」と名付けられました。駐車場や登山道などの環境も整備され、いずれも登山初心者やトレッキングの方にも安全に登ることができ、季節ごと色を変える豊かな自然を満喫できるコースです。

古代東山道祭祀遺跡碑

この石碑の後ろにある駐車スペース(3台程度)より

東山道と神坂峠

7世紀初頭、朝廷が地方支配のために整備した東への幹線道のうち、海側を走る道を「東海道(とうかいどう)」と呼んだのに対し、山をつないだ道は「東山道(とうさんどう)」と呼ばれた。海側は河川が広く、大雨などでは渡れず、天候に左右されたのに対し、険しいながらも安定して移動できたのが東山道で、橋や船の技術がない時代から拓かれ、人と物が行き交っていたという。

陸奥国(今の宮城県)まで伸びた東山道の中で、もっとも標高が高く、難所とされたのが、阿智村にある「神坂峠(標高1536m)」だ。その険しさゆえに人々の印象にも残り、古事記、日本書紀、万葉集、源氏物語、今昔物語などの書物にも記されている。

古代東山道祭祀遺跡碑

とおく奈良・平安時代の昔、この地を東山道という官道が通っていた。この道すじはすでに古墳時代からの要路で、当時の都から美濃・信濃を経て遠く陸奥に延びる政治。租税・課役・軍事などのためのの幹線であったが、中でも神坂峠と網掛峠を合わせた山地はいわゆる「信濃坂」と呼ばれたこのルート最大の難所で、その東の麓がこの地である。

古事記・日本書紀には日本武尊がこの信濃坂の神をことむけて信濃国に下ったことが記されており、万葉集には天平勝宝七年(七五五)に徴集されて九州北辺の守備に赴いた信濃国の防人の歌に

ちはやふる神のみ坂にぬさまつり斎ふいのちは母父がため

主帳埴科郡神人部子振忍男

とこの山地での儀礼と離郷の心情が切実に歌われている。

古代の人々には峠の神の荒ぶる心をやわらげるために「ぬさ」を手向けて通る風習があった。国指定史跡の神坂峠からは千数百点の鏡・剣・玉をかたどった石製のぬさ(石製模造品)が出土しているが、この山麓の大垣外(碑の南西方百メートル・熊谷氏宅地及びその前方耕地)からも四百点余りに及ぶ剣形を主とした石製模造品や当時の祭器が出土しており、山道にさしかかる地点でも古墳時代以降、峠神への祭祀儀礼が行われてきたことを物語っている。

この碑は、大垣外の祭祀儀礼遺跡跡を発見した熊谷鋭三郎翁が提唱し、地域の人々の協力により昭和五十四年四月建立した。揮耄は郷土史の先覚宮下先生である。

この地に立って網掛山を見上げ、さらに東方はるか伊那谷と赤石の山なみに目を転ずるとき、古代人の旅と、その道の神への祈りの心がしのばれるのである。

阿智村教育委員会

古代東山道

大宝元年(七〇一)、朝廷は近江国(滋賀県)を拠点に「東山道」という道路をつくりました。

道は美濃の国(岐阜県)を経て、上毛野(群馬県)、下毛野(栃木県)より陸奥、出羽国(東北地方)へ通じていました。

長さ約千キロの長い道のりでした。

東山道は大和政権が地方を服従させるための「支配・軍事の道」であったのと同時に九州北辺の防備に徴用された「防人の道」、さらには信濃の国で生産された馬を都に運ぶ「貢馬の道」として利用されていました。

東山道の中でも、美濃・信濃両国は険しい山道が多く、特に最大の難関は御坂峠越えでした。都でも通行困難な場所として知られ、古事記・日本書紀をはじめとして多くの古文学(歌・漢文・物語)に地名や歌枕として、とりあげられてきました。

中平集落

諏訪社

登山口近くに鎮座する諏訪社

北澤大明神と書いてある木には以下の一文

北澤大明神

古代東山道の道筋に歴史文化が根づき、この北澤大明神もこの一つである。時代と共にその信仰の対象が変わり現代では失せ物が多く見つかるという事である。家内安全・商売繁盛・で祈願に訪れる人も多い。

網掛山 登山入口

山頂まで標高差400m程度

沢沿いの登山道を登る

網掛峠

網掛峠

この網掛峠は、標高九七一メートル、古代の官道「東山道」の経路にあたり、当時は神坂峠(国史跡)と一括して「信濃坂」といわれた難所であったが、同時に都から信濃国へ入る玄関口でもあった。

この峠を越えて通った古代人の中には日本武尊、信濃及び東国の防人、伝教大師、坂上田村麻呂が古典に記されていて、中央から公の使や地方官、文物などもこの峠を越えて入来し、東山道諸国からの租税や微用人馬もすべてこの峠を越えて往来した。

この峠には「蛇瘤杉」という杉の大木があって峠の象徴となっていたが、昭和二十八年十月老衰を理由に伐り倒された。丸剤もその切り株と「蛇瘤杉」の石碑が残っているが、この杉には次の伝説がある。

近江の国琵琶湖畔の村の若い男女が、村人のねたみから村を追い出され。旅をかさねてこの峠まで来たとき、疲れと飢えのために産んだばかりの赤児とともに絶命した。

村人は哀れんで三人をここに葬り、墓じるしに杉の木を植えたところ、杉の木はたちまちに成長して幹が三つにわかれ数個の瘤をもつ大樹となった。

そのころ琵琶湖に杉の木の影がうつり、湖が荒れて魚がとれなくなった。占ってもらうと信州路の山深い峠で恨み死んだ三人のたたりであるといわれ、そこでこの地を尋ねて来て三人の霊を祀ったところ、湖はもとの静けさをとりもどしたという。

若者夫婦の持ってきた網が木に掛けられていたことから網掛峠といわれるようになり、ここに祀られてあった網掛三社権現社は大正四年伏谷社境内に移された。

この峠は、神坂峠と同じように古代の旅人は旅の平安を祈る峠神祭祀の場所であったと思われ、ナギ鎌や灰釉陶器片の出土が伝えられているが、東麓にあたる大垣外からは石製模造品は三百数十個も出土していて、この峠とのかかわりを暗示させている。

なお、この峠から西方約四〇〇ヘクタールの広大な山地は「オオサンドウ」といわれ、古代東山道のルートを伝承する地名として注目されている。    阿智村教育委員会

蛇瘤杉之碑

蛇瘤杉(じゃこぶすぎ)

西展望台

峠のすぐ近くには西展望台

山頂下の巨木

古代文字「ヲシテ文字」 アミカケヤマ と書いてあるそう

網掛山(1132.7m)山頂 三等三角点

アミカケヤマ 標高一一三二.七米

1966年の夏に大量のオシテ文字による古文書が滋賀県で発見され解読された。

それ迄一千数百年にもわたって日本の歴史は古事記や日本書紀が原点であったが、原文どうしの対比比較の結果、ヲシテ文献が古事記、日本書紀が編纂されたときの原書であることが判明した。

歴史だけに留まらず、日本独自の言霊(ヲシテ文字や数などの一字一字に意味がある)の文化が根底に存在し、漢字文化では表現できない

奥深く、古事記、日本書紀では真相を知ることが出来ないヲシテ文献では、日本(ひのもと)の国(トコヨクニ)の建国は6000年程前、人類のルーツ、長寿、健康法、宇宙観、生死観(生前、死後、再生)、幸福、教育など広範囲にわたって解明されつつある。

この古文書(ヲシテ文献)によると、この地には重大な歴史があったことが明らかになってきた(阿智のルーツ)。

この山は現在網掛山と呼ばれている。

縄文時代は祈座(ノリクラ)であった参道を東に進むと展望台があり、下山していくと頭権現(神戸とは神と民との境)。さらに下る伏谷神社(民が神に伏して祈った所)付近の部落に小野川(川は後に付けた)、中野、大野の三部落があり、後々までも当番で祭事(まつりとは神と人の間を釣り合せること)に参加した。

この三部落の地名を智里と言っている。

智とは神と共にあるもの、かしこい人が住んでいる里からきている(言霊よりの引用)この地のどこを発掘しても遺跡、土器などが出土するのはその裏付であり、東山道もこの時代から国司も利用している。

東展望台

南アルプスを始め街並みが一望できる展望スポット

真下に昼神温泉と中央自動車道

獣避けゲートを超えて中平集落へ

富士石

小野川関所跡

阿智村史跡 小野川関所跡

ここにあった小野川の関所は、戦国時代に武田信玄が伊那谷を勢力下におさめたとき、園原を経由する神坂峠越えの通路の備えとして設置されたもので、当初は下条氏の配下であった昼神の原豊後がこれを守ったという

武田氏滅亡後は一時飯田城主がこれを預かり、徳川氏の治下になると阿島の旗本知久氏の預かりとなって、清内路・浪合などと共に「入り鉄砲、出女」の取り締まりに当たった。

しかし神坂越えの道は江戸時代以前から通行がさびれて廃道に等しく、むしろ野熊山(恵那山)から運び出される材木の取り締まりが主目的であったといわれ、この関所を守る役人も、わずかに軽輩の足軽2人、小物1人、請負いの炊事雑用1人の計4人と記録されている。

明治2年関所は廃止されて関門・建物は入札によって取り払われ、石垣の一部が残されているほかに、50mほど離れた田中氏の墓地の横に「御関所□□」と彫りこまれた直径78cmの石臼が関所の遺物として半ば土に埋もれている。

イギリスの登山家で日本アルプスを世界に紹介した

ウォルター・ウェストンによる南アルプス眺望絶賛の地

このあたりから南アルプスを眺望し、

そのすばらしさを自著のなかにも記した一節があるそうです

  • このエントリーをはてなブックマークに追加