刃熊山(668.12m) 大日山(881m) 菰張山(614.35m)・かわせみ湖より
未踏の「刃熊山(ナタクマヤマ)」へ
かわせみ湖から大日山経由で周回、ついでに菰張山を登って来ました。
刃熊山(なたくまやま)
標高 668.12m | 登山日 2024年3月9日 |
三等三角点(亀久保村) | |
所在地 静岡県周智郡森町嵯塚 |
大日山(だいにちさん)
標高 881m | 登山日 2024年3月9日 |
静岡の百山 大日山金剛院 | |
所在地 静岡県周智郡森町三倉 |
菰張山(だいにちさん)
標高 614.85m | 登山日 2024年3月9日 |
二等三角点(菰張山) | |
所在地 静岡県周智郡森町三倉 |
難易度 ★ オススメ ★ | 登山口(ナビ検索) かわせみ湖 |
かわせみ湖(08:28)→刃熊山(09:23)→大日山登山口(10:28)→大日山金剛院(10:35)→前谷(10:41)→大日山金剛院(10:53)→大日山登山口(10:58)→大日山(11:21)→菰張山三角点(13:22)→菰張山(13:22)→かわせみ湖(14:03) 所要時間 5時間34分 累積標高 1497m / 1496m 距離 20.1km | |
■ー |
かわせみ湖より
かわせみ橋を渡り、正面に見える刃熊山を目指します。
太田川はこれから向かう大日山に源を発しています。
途中で支川の三倉川や原野谷川を合流し、遠州灘に注いでいます。
流域面積488平方キロメートル、流路延長44キロメートルです。
太田川ダムとかわせみ湖
太田川ダム
昭和49年の七夕豪雨を機会に治水と安定した水源確保を目的に作られた多目的ダムです。平成21年に完成したこのダムは堤頂長290m、高さ 70m、総貯水量1160立法メートルの重力式コンクリートダムです。周辺には休憩所や気軽に歩ける散策コースが整備されています。また、パノラマビューの展望台「彩り岬」や江戸時代から信仰されてきた大まる様がある「片吹の郷」などがあります。
太田川ダムはダム湖の周辺が道路として整備されていて、散策コースにもなっています。
刃熊山取付き
「杉沢橋」を渡った所から取付きます。
鉄塔まで急登を登り、P515から林道へ、 尾根沿いに通る林道から山頂へ向かいます。
ここまで踏み跡も明確で、よく歩かれている印象です。
刃熊山(668.12)
刃熊山「 ナタクマヤマ」と読むそうです。
山頂の南にある刃熊集落(廃村)より名付けられたのだと思います。
マイナーな山ですが、設置されたばかりの山標がありました。
三等三角点(亀久保村)
金剛院に続く林道西谷線までは、尾根直下を通る林道で向かいます。
特にこの放置重機がある後半は崩落箇所も多く悪路です。
林道西谷線に合流
大日山分岐を遣り過して、金剛院に立ち寄ります。
繁昌坊大権現
境内の奥には遠州七天狗に数えられる
大日山金剛院の鎮守「繁昌坊(はんじょうぼう)」を祀るお堂があります。
天狗の繁昌坊に関し詳しいことは解っていませんが、
繁昌坊大権現がこの山に棲むようになったのは開創後間もなかったと伝わります。
大日山 金剛院
真言宗御室派「大日山 金剛院」は養老2年(718)、
行基菩薩作の大日如来を本尊として創建されたと伝わります。
金剛院 客殿
金剛院の由緒については、
江戸初期の寛文年間(1661〜1672)に、大日山の中興の祖「専盛法印」が誌したといわれる
「大日山御縁起」という書物が残されています。
それによると、行基によって大日如来を安置し開創をみた点は一致していますが、
江戸初期に榛原郡大日村(榛原郡吉田町大幡)の沖において
一人の漁師が漁網にかかった一体の大日如来を発見し、大日山に安置したとあるそうです。
これによって、それまで「霊是山」であった山号を「大日山」に改めたとあります。
金剛院を中興した専盛法印という修験者は、三倉家の五代久右衛門貞命の弟市郎兵衛で、
この人は信仰に生きようと高野山に入山して修行ののちに大日山に入ったそうです。
大日山に入ったのは慶長年間の末と考えられ、
天和元年(一六一五)から三ヵ年の歳月 を要して堂を建立、
在山六〇年のちの延宝三年(一六七五)に示寂したと伝わります。
遠江古跡図絵より
江戸時代末に書かれた、遠州の名勝・史跡のガイドブック的な書物「遠江古跡図絵」には、
焼失前の諸堂が描かれています。
遠江古跡図絵を記した兵藤庄右衛門が享和3年(1803)に描いたもので、
これらの建物は明治に焼失しています。
現在の伽藍はその後の再建で、客殿が明治45年(1912)、本堂は大正12年(1923)、
六角堂は昭和37年の再建です。
本堂と六角堂
参道傍に四等三角点(前谷)661.3m
参道より望む富士山と桜
石垣が見事な参道です
金剛院 山門
明治40年(1907)春、火災のため遠江古跡図絵にあった諸堂伽藍は
ことごとく焼失してしまいましたが、この山門だけは火災を免れました。
案内板によると、この山門は、天保8年(1837)の築造で、
御免大工 黒川喜平の自信作なのだそうです。
大日山 金剛院 山門
明治45年(1912年)の火災を免れた山門は、天保8年(1837年)、菅山村の御免大工 黒川喜平が築造したと伝えられています。 この山門を造った大工はたいそう腕のあった男らしく、天井を張らず小屋組みの美しさを見せたり、軒先の勾配にも妙手が施されるなど、幾つかの個所に技巧が凝らされています。 (案内板より)
大日山(881m)
金剛院を後にして大日山へ
金剛院に大日如来が安置されたことから大日山の名がつけられました。
開創当初の寺院は山頂にあったそうですが、兵火によって伽藍や本尊は失われ、
室町時代未には廃寺同様の衰退をみました。
大日山から南に伸びる尾根を使い、再びかわせみ湖まで下って来ました
ここから対岸の菰張山まで登り返します
途中の林道からは、森町〜遠州灘までの展望がありました
菰張山(614.35m) 二等三角点(菰張山)
菰張山の三角点峰の手前には菰張山に関する案内板、最高点(629m)は少し先にあります。
山名は、武田軍との戦いに敗れた家康を逃がすため、菰を四方に張り陣に見せかけ、
しんがり戦を行なったことに由来します。
菰張山 (こもはりやま)
標高六一四mの菰張山には徳川家康にまつわる民話があります。
武田信玄との戦いに敗れて逃げてきた家康は、この山頂でひと休みしていました。
この間に、ちりぢりになった家来たちが集まってきました。
やがてその中の一人の武将が進み出て、「殿は、ここからただちにお逃げください。
敵は近くにおります。それがしはしんがりをつとめます。」といい、家康を逃がすと、
付近の村から「こも」を集めてきて、四方に張り巡らし、名のある大将の陣営のように見せかけ敵を迎え撃ちました。
数日後、村人達が、戦いで死んだ武士達を哀れみ、敵・味方の別なくうめて、ねんごろに弔いました。
こもを張り巡らして戦ったことから、この山は「菰張山(こもはりやま)」と名付けられました。
大日堂 (大まる様)・西宮天王八幡神社
菰張山から北へ下ってみると、 「片吹の郷」と称された一劃に出ました。
太田川ダムの建設に伴って水没地(片吹集落)より移設された
建造物や石造物などが置かれています。
道路沿いには、大日堂(大まる様)・七人立ちの大蛇に関する案内板があります。
西宮八幡神社
当社殿の造立に関する棟札が三枚残っている。
・慶長八年(一六〇三)の年紀を有し「奉造立遠州周智郡飯田庄天方郷方向村天王両社塔一宇処」とある。
・明暦元年(一六五五)の棟札によると「奉新造立西宮大明神」とあり約50年後に建て替えられた。
・寛延三年(一七五〇)にも建て替えられている。大工は薄場村に住む「藤原子孫源石衛門」
*現存する社殿はおそらく江戸時代の後期に再建されたものと思われる。
大日堂(大まる様)
大まる様は江戸時代から片吹に祀られている長さ94cm・大きさ12cmの石棒(陽石)です。子授け子供の安らかな成長、手、足、歯、耳、目などの健康、皮膚病、女性の病気の快癒など多様。
婦人がこれをさすれば子供が授かると云われ、特に女性の信仰を集めています。願い事をする時大事な所を少し見せ「願いがかなえられた時は全部お見せします」とお願いすれば何でも成就すると云われています。
肩石
肩石
人の方に似た石で、肩がこっている人がさする(撫でる)と、石が代わりに病んでくれて、肩の痛みがとれるという。先に痛みのある肩をさすってから、肩石に痛みを移すように肩石を撫でること
(肩石を撫でてから、自分の肩をさすると痛みをもらうことになるので要注意)
石仏(馬頭観音と地蔵)
石仏(馬頭観音と地蔵)
片吹に最初に住み、村を開いた人の墓という。
馬頭観音は馬などの息災を祈って建てられたものと考えられる。
山の神様
山の神様
周りを深い山々に囲まれた片吹は、三倉とともに材木の一大産地っとして知られ、シイタケの栽培や炭焼きなど山と大きな関わりをもって生活してきました。村では日々の山仕事は安全に行われるよう祠を築き「山の神様」を祀ってきました。シイタケ栽培をする家では2月7日、山仕事をする家では11月7日を「山の講」といって、ぼた餅と祈りを掛け(女竹を竹筒にして酒を入れ、杉の葉で蓋をしたもの)を祠の両脇にお供えして安全祈願をします。
この度、地元の総意で新しく御神体が奉祀されました。やまの神様は女性といわれています。男の神様「大丸様」と合わせてご参拝いただくと、諸所のお願いが叶うものと思います。なお、山の神様はやきもちを焼くことがありますので、女性は石段の下でお参り願います。
大日堂(大まる様)
森町亀久保
この建物は、特定の宗旨に属さない御堂建築です。通称として親しまれている「大まる様」は「おおまら様」に通じ、その名が示すように懐妊及び安産祈願を目的とする大衆の陽石信仰に伴って維持されてきた建築です。堂内には、一七〇八年(宝永五年)の年紀を有する棟札と一七九七年(寛政九年)の棟札があり、建物の各部材の細部の意匠から現在の建物は寛政九年のものと考えられます。この時の大工は薄場村に住む伊三郎ですが、大工名の傍らに「片吹惣村中」とあるので、村民あげての労働力提供があったことが推測され、このことからも、信仰の広さが窺われます。この建物は片吹地区にあったものを、太田川ダム建設に伴い、現在地に移築されたものです。
七人立ちの大蛇
亀久保片吹地内に「霊是」という所があります。昔は人も寄せ付けない原生林で、行方不明になった人が何人もあったと言われています。いつの時代かはっきりしませんが、片吹地区で炭焼きで生計をたてていた男が、ある日一日休み山芋堀りに出かけて道に迷い、夜更けに大人が七人立てるぐらいの広さのある「七人立ち」の岩までたどり着きました。ここまで来れば帰りの道は分かると安心した男はぐっすりと眠りこんでしまいました。夜の寒さに目を覚ました時、村の年寄りから聞いた七人立ちに住む大蛇のことや山犬のことを思い出して、震えあがりました。怖々振り向くとそこにある洞穴の中に青白く光る二つの玉を見つけました。恐ろしさのあまり、手にふれた竹竿で光の一つをめがけて突き出しました。すると「ギャッ」と苦しそうな声を残して、二つの光は消えてしまったそうです。