吉野山 吉水神社(よしみずじんじゃ)・世界遺産




吉野山 吉水神社(よしみずじんじゃ)

奈良県 吉野山観光協会H.P
http://www.yoshinoyama-sakura.jp

東南院を過ぎるとすぐ、吉水神社の鳥居が見える。

吉野山 東南院(とうなんいん)の記事


鳥居

鳥居からは急な下り坂になっている。


世界遺産 南朝皇居 吉水神社


参道


参道 社


参道の門

開門は九時からです。

とりあえず一通り回ってから戻ってくることにしました。

南朝皇居 吉水神社

元は吉水院といい、天武天皇の白鳳年間に役の行者が創建したものと伝えられ
格式の高い僧坊であったものが、明治8年寺号を廃して吉水神社と改め、
後醍醐天皇・楠正成・吉水院宗信法印を合祀しています。
当社は吉野の歴史を代表する殿堂で文治元年(1185)源義経が兄頼朝の迫害を逃れて
最愛静御前・弁慶らと共にここに身を隠されて世にその純愛物語を伝えています。
また延元元年(1336)後醍醐天皇が京の花山院を逃れて吉水院宗信の援護のもとに
当社を行宮とされ血涙の歴史を記された南朝の大舞台でもあります。
降っては文禄3年(1594)豊太閤が当社を本陣として大花見の盛宴を催し、
天下にその権勢を示したのは有名です。
この神社を有名にしたのはその由緒もさることながら実は現存する書院であって、
我が国書院建築史の第一頁に位する本格派の建物で初期書院造の代表的な傑作である。
なお書院内には「義経潜居の間」「弁慶思案の間」「豊太閤花見の間」などが残されています。


門前 社


境内入口の門


社務所

参道門と境内門の中間にある社務所


恵比寿神社


手水舎

手前に見えるのが弁慶力釘

弁慶の力釘

弁慶の力釘の石は、弁慶が力試しに二本の釘を親指で石へ押し込んだもの、
と伝えられている。
のちに「豊臣秀吉」(太閤さん)も吉野の花見の際に、
この「弁慶力釘」に「力をもらいたい…力を!」といって触れた、と伝えられている。

源義経と静御前が最後にあった潜居の間、

弁慶の七つ道具や鎧兜等ゆかりの品。

後醍醐天皇の玉間や太閤秀吉の花見ゆかりの品々など見所満載です。

本殿

吉水神社(よしみずじんじゃ)

エリア  中千本
住所   〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山579
TEL   0746-32-3024
拝観料  400円
拝観時間 9時~17時(年中無休)
駐車場  専用駐車場あり
アクセス ロープウェイ吉野山駅下車 徒歩約35分
ホームページ http://www.yoshimizu-shrine.com/

吉水院庭園

1594年(文禄3年)に太閤秀吉が、五千人の家来と吉野の大花見をしました。
その時、吉水神社(旧吉水院)は花見の本陣となりました。
この花見に際して、豊臣秀吉が自ら基本設計を行った庭園です。
この庭園は安土桃山時代の華やかな雰囲気を今日に伝える「桃山様式の日本庭園」です。

吉水院書院
(重要文化財)

日本住宅建築史上最古の建築として、ユネスコより世界遺産として登録された書院であり、
現在の日本住宅の源流をなす実例として数々の珍しい手法が見られる。
義経・後醍醐天皇・豊太閤それぞれの時代の遺品や宝物が書院内に展示されている。

吉水院庭園から蔵王堂を望む。


北闕門

吉水神社(北闕門)

この北闕門は、後醍醐天皇が南朝の皇居をかりそめの行殿とされ、
いつの日か、北闕(京都)に凱旋できる時を待たれていたが悲しくも夢なかばにして
南朝の皇居で崩御された。
「玉骨は、たとえ南山(吉野山)の苔に埋むるとも、
魂魄は常に北闕(京都)の天を望まんと思う」
と悲痛な哀悼の御言葉を遺された吉野一山挙げて哀愁悲嘆の雲に掩われたが、
後醍醐天皇の忠臣達が、ここで号泣したと伝えられる。

北闕門は(邪気祓い所)でもあります。

後醍醐天皇も朝夕必ずこの北闕門に立たれ、

京都の空を仰ぎながら「九字」を切られたそうです。

「九字真法」による邪気払いの作法は、

門の手前で45度の角度でお辞儀をし、次に北闕門前に進み、15度で頭を下げます。

そして下の石、五芒星に上がり手を刀の形にして胸の前で気持ちを整える。

そして九字切り(下の写真右下)へ移動し、左手は刀の鞘の形で腰に当て、

右手の刀印で右から左、次に上から下へ順番伊切ながら、

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」と大きな声を出し九字を切ります。

再び手を刀の形にして「セーマン・ドーマン」と三回唱えます。

始めとは逆に15度、45度のお辞儀をし終わります。


御朱印

吉水神社では勝手神社の御朱印も頂けます。

正確には吉水の吉の字は「土に口」と書くそうです。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加