第2代 綏靖天皇(皇后媛踏鞴五十鈴媛命)・奈良県橿原市四条町




第2代 綏靖天皇(皇后媛踏鞴五十鈴媛命)・奈良県橿原市四条町

奈良県橿原市四条町

第2代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)「日本書紀では神渟名川耳天皇」

桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)

遺跡名 俗称、塚山・塚根山

宮内庁上の形式は円丘、直径30メートルの円墳と推測さています

欠史八代の一人で実在性については諸説あり。

初代神武天皇陵に北接する円丘で橿原森林遊苑の北の端にあります

第2代綏靖(すいぜい)天皇(在位:前581年~549年)は

葛城(御所市)に高丘宮(たかおかのみや)を置いたとされる。

綏靖天皇は別名を神渟名川耳尊 (かむぬなかわみみのみこと)と言い、

以後9代目の開化天皇までは「欠史八代」と呼ばれています。

これは、これらの天皇は架空の人物で

記紀が出来た時あまりに長い年齢により生じた空白を埋めるため

創造されたとする説に基づいているからです。

綏靖天皇の記述も非常に少なく古事記ではたった3行のみである。

初代神武天皇陵に北接する円丘で橿原森林遊苑の北の端にあります

隣接する奈良県道161号(畝傍御陵前停車場四条線)沿いに

見落としてしまいそうな小さな入り口があります。(駐車場無し)

第2代 綏靖天皇

異称 神渟名川耳天皇・神沼河耳命

誕生 神武天皇29年

崩御 綏靖天皇33年5月10日 84歳

在位 綏靖天皇元年1月8日 – 綏靖天皇33年5月10日

続柄 (父)神武天皇(母)媛蹈鞴五十鈴媛命(伊須気余理比売)

『日本書紀』により第2代と伝えられる天皇。神武天皇の末子。名は神渟名川耳。母は『古事記』では三輪山の神大物主の娘、『日本書紀』では事代主神の娘とする。父の死後,異母兄の手研耳命(タギシミミノミコト)が綏靖の母と結婚し、さらに王位を奪うために弟たちの殺害を企てた。綏靖は兄と共に逆にこれを討つが、このとき兄は手足がふるえタギシミミ殺害を果たせず、綏靖は一矢で仕留めた。その勇猛ぶりにより、弟ではあるが王位に就いたとされる。初代の死後早くも起きた王位をめぐる闘争劇であり、資格ある者のうち力のある者が王位を得るとする思想を語っていよう。葛城高丘(御所市)に宮を営み、桃花鳥田丘上陵(橿原市)に葬られたと伝える。

欠史八代の一人

第二代天皇。初代・神武天皇の第三皇子。

『古事記』によると、神武天皇は即位して伊須気余理比売命と結婚され、 日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三柱の御子をもうけられた。

『日本書紀』には、日子八井命は登場せず、媛蹈鞴五十鈴媛との間に、神八井命、神渟名川耳尊のみが生まれたとある。 『先代旧事本紀』には、日子八井命は弟・神八井耳命の御子とある。

神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄・多芸志美美命を殺し、 その時、神八井耳命は臆したため、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ。

葛城の高岡宮にて統治された。

綏靖天皇は、師木県主の祖・河俣毘売を娶って、師木津日子玉手見命(のちの第三代天皇・安寧天皇)を生む。

御稜は、衝田崗(桃花鳥田丘上陵:橿原市四条町)

綏靖天皇(桃花鳥田丘上陵)

代数
第2代
天皇名
綏靖天皇(すいぜいてんのう)
御父
神武天皇
御母
皇后媛踏鞴五十鈴媛命
御陵名
桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)
陵形
円丘
所在地
奈良県橿原市四条町

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