談山神社 談山(566m) 御破裂山(618m)・奈良県桜井市多武峰




談山神社 談山(566m) 御破裂山(618m)・奈良県桜井市多武峰

奈良県桜井市、多武峰(とうのみね)の山中に鎮座する談山神社(たんざんじんじゃ)

藤原氏の祖 藤原鎌足公の没後、二人の息子(藤原定慧・藤原不比等)が

父の冥福を祈るために十三重の塔を建立したことが発祥で藤原鎌足を祭神とします。

その昔、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、

多武峰に登り「大化改新」の談合を行ったことから、

後にこの山を「談い山(かたらいやま)または 談所ヶ森」と呼び社号の由来となっています。

本殿・拝殿などの華麗な社殿や日本唯一の木造十三重塔とともに境内の自然も豊かで、

春は桜・初夏は新緑・紅葉に染まる秋と季節ごとに素晴しく、

四季通じて楽しめるところです。

特に秋は3000本ものカエデに包まれる情景が美しく、

期間中は紅葉の夜間ライトアップも行われます。

大化の改新にちなんで桜や紅葉と共に春秋に行われる古式ゆかしいけまり祭も有名です。

訪れた日は紅葉のピークも少し過ぎた頃でしたが、

上の駐車場は満車でしたので、散歩がてら「東大門」前より歩き始めました。

東大門

談山神社の「東大門」(東門)です。

大半の参拝客が車やバスでアクセスする山上鎮座の神社ですから、

徒歩で参道を上って行かない限り、なかなか見ることの出来ない門なのかもしれません。

門の横の道脇には、「女人堂道」と彫られた石碑が建っていますが、

これは昔、多武峰が女人禁制だった名残です。

摩尼輪塔

上に笠石、その下の塔身上部に円盤を造り、

密教の胎蔵界「大日如来」の種子アークが刻まれています。

摩尼とは宝珠のこと。

乾元二年(1303年)の銘があり、源順公の建立と伝えられています。

後醍醐天皇寄進の石燈籠

南北朝の動乱期の1331年、後醍醐天皇より寄進の石燈籠。

深い緑と調和する静かな佇まいに歴史の重みを感じます。

談山神社

住所 〒633-0032 桜井市多武峰319

TEL  0744-49-0001

FAX  0744-49-0236

URL  http://www.tanzan.or.jp/

拝観時間

受付時間:8:30~16:30(最終受付)
最終拝観:17時まで

拝観料金

個人
大人(中学生以上)…600円
小学生…300円
小学生未満…無料

団体割引
[20~49名]
大人(中学生以上)…550円
小学生…250円

[50名以上]
大人(中学生以上)…500円
小学生…250円

大鳥居

御祭神 藤原鎌足公(談山神社由緒)

飛鳥・法興寺で行われたまりにおいて出会った中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。
『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作くらつくり(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策をべよと。中臣連、皇子をひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。
多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり「大化改新設合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談山神社」もここからきています。
天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏は、ここから始まります。鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威あい山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。 談山神社H.Pより

談山神社拝殿・ 楼門・東西透廊 重要文化財

室町時代

朱塗舞台造拝殿は永正十七 年(一五二〇)の造営、中央の天井は伽羅香木でつくられている。折れ曲る東西透廊は 本殿を囲む特異な形態をもち、檜皮葺の屋根が美しい。 談山神社H.Pより

鳥居から続く階段を登ったところにある拝殿は、

靴を脱いで自由に出入りすることができます。(料金支払い時に靴入れ用の袋を頂きました)

畳敷きの拝殿内には、飛鳥時代の出来事を描いた絵巻物や、

「百味の御食(おんじき)」と呼ばれる地元の秋の収穫物を盛り付けた

お供え物が展示されているなど、見どころがたくさんあります。

一つひとつ模様の違う吊り灯篭が並ぶ廊下もおすすめの場所です。

拝殿は神社の敷地のなかでも特に高い所にあるため、

目の前の紅葉が美しく、一際開放的な場所です。

談山神社 本殿 重要文化財

飛鳥時代(江戸時代)

藤原鎌足公をまつる旧・別 格官幣社。大宝元年(七〇一) の創建で、聖霊院、多武峯社 とも号す。現在の本殿は嘉永三年(一八五〇)造替の三間 社隅木入春日造、朱塗極彩色 の豪華けんらんたる様式で世 に名高い。 談山神社H.Pより

東宝庫と奥に春日社

菴羅樹(カリンの原種)があるが、これは藤原錄足公長男

定慧和尚が唐の国より持ち帰られた霊木と伝えられているそうです。

東宝庫・西宝庫 重要文化財

江戸時代

本殿に向って左右に位置する同形式の二つの宝庫は、校倉造りで元和五年(一六一九) の造営である。文化財の宝庫として知られる談山神社古来の名宝を収蔵して来た。 談山神社H.Pより

定慧和尚とアンラ(花梨)樹

アンラ樹は、一般に言うカリン(花梨)のことで、原産は中国浙江省、落葉高木で四~五月頃に五弁の愛らしい淡紅色の花を付け、秋には楕円形の果実を結び、黄色く色づいて万香を放つ果実には薬効があり、とくに咳止めの薬として古くから有名な家庭医薬品である。

なぜ定慧は「アンラ樹」を持ち帰ってきたのでしょう。病気がちの父「鎌足公」の為に定慧は薬品として中国から持ち帰りました。境内地にはアンラ樹が二本あります。一本は手水舎の裏、もう一本は東宝庫の横に根付いています。秋の季節落ちている果実を参拝の思い出として持ち帰られてはいかがでしょうか。因みに赤坂御用地にも香淳皇后がお手植えなされたアンラ樹があります。

十三重塔(重要文化財)

藤原鎌足を弔うために建立した談山神社のシンボル的存在の塔です。

現存している建物は室町時代に再建されたもので、木造十三重塔としては世界唯一です。

十三重塔 重要文化財

飛鳥時代(室町時代再建)

藤原鎌足公長子・定慧和尚が、父の供養のために白鳳七年(六七八)に創建した塔婆で、現存のものは享禄五年 (一五三二)の再建である。
木造十三重塔としては現存世界唯一の貴重な建造物である。談山神社H.Pより

権殿 重要文化財

平安時代(室町時代再建)

天禄元年(九七〇)摂政右大臣藤原伊尹の立願によって創建され、実弟の如覚―多武峰少将藤原高光―が阿弥陀像を安置した元の常行堂。ここで室町の頃盛行した芸能「延年舞」は有名 である。現存のものは室町後期の再建。

権殿は、建立以来、五〇〇年の時を経て、大修理を終え、この平成の世に再生しました。
当殿内では、室町時代より延年 舞やお能が演じられ、「伝統と革新」の芸能をきそいあってきました。 古典芸能・現代舞踊・音楽・絵画・写真・彫刻・陶芸・映画・ 演劇・歌謡・落語・漫才・文学・詩などにたずさわる人たちの守り神として、また、芸能上達 をいのる「祈りの場」として、「集いの聖地」としてご崇敬下さい。 談山神社H.Pより

飛鳥時代、現在の奈良県明日香村にある法興寺(後の飛鳥寺)

で行われた蹴鞠会(けまりえ)で初めて出会ったという中大兄皇子と中臣鎌足。

談山神社では、その故事にちなんだ「けまり祭」が、

毎年春と秋(4月29日・11月3日)に行われます。

神廟拝所 (旧・講堂) 重要文化財

飛鳥時代(江戸時代再建)

定慧和尚が白鳳八年(六七九)父・鎌足公供養のため創建した妙楽寺の講堂で、塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色をもち、内部壁面には羅漢と天女の像が描かれている。現存のものは寛文八年(一六六八)の再建である。談山神社H.Pより

末社・総社拝殿 重要文化財

江戸時代

寛文八年(一六六八)の造営。談山神社拝殿を縮少し簡略化した様式で、正面・背面ともに唐破風をもつ美麗な建造物である。
内外部小壁には狩野永納筆の壁画が残り、「山静」の落款も見られる。

談山神社H.Pより

末社・総社本殿 重要文化財

平安時代(江戸時代再建)

延長四年(九二六)の勧請 で、天神地祇・八百万神をま つり日本最古の総社といわれている。「現在の本殿は、寛文八年(一六六八)造替の談山神社本殿を、寛保二年(一七四二)に移築したものである。 談山神社H.Pより

末社 比叡神社本殿の(右)に末社 山神神社、祭神は大山津見命

(左)に末社 稲荷神社、祭神は宇賀之魂神

末社・比叡神社本殿 重要文化財

江戸時代

寛永四年(一六二七)造営 の一間社流造、千鳥破風およ び軒唐破風付、桧皮葺の小社ながら豪華な様式をもつ。もと飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築し明治維新までは山王宮と呼ばれた。

(右)末社 神明神社、祭神は天照皇大御神・(中央)末社 杉山神社、祭神は久々能智神

ここから談山まで290m(徒歩10分)・御破裂まで510m(徒歩20分)

談い山(談山)(大化の改新相談所)

中大兄皇子と藤原鎌足が、蘇我入鹿を暗殺する秘策をねった場所とされており、

「談所の森(だんじょのもり)」とも呼ばれています。

大化の改新への足がかりとなった乙巳の変では、

中大兄皇子が母・皇極天皇の目の前で、蘇我入鹿を斬りつけて殺害。

入鹿の父・蝦夷(えみし)は自害し、蘇我氏は滅亡しました。

中大兄皇子は皇太子に立てられ、「大化の改新」と呼ばれる改革を進めました。

談山(かたらいやま) 標高566m

談山神社の裏山にあたり古くから「談所の森」と名づけられ中大兄皇子と藤原鎌足公が大化の改新の秘策をねられたところとされています。

御破裂山(鎌足公墓所)

山頂には藤原鎌足のお墓があり、古くから国家に不祥事があると

「神山が鳴動」したという記録が残っているそうです。

御破裂山(鎌足公墓) 標高618m

山頂に藤原鎌足公のお墓があり、古くから国家に不祥事がある時に「神山が鳴動く」した記録が多く残っています。またこの付近に自生する樹木は植物学上大変貴重な存在とされています。

御朱印

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