甲斐國一宮 浅間神社(あさまじんじゃ)・山梨県笛吹市一宮町一ノ宮




甲斐國一宮 浅間神社(あさまじんじゃ)・山梨県笛吹市一宮町一ノ宮

山梨県笛吹市一宮町一ノ宮に鎮座する甲斐国一宮 浅間神社(あさまじんじゃ)

平安時代編纂の『延喜式神名帳』にも記載がある古社で、

通称 一宮浅間神社と呼ばれています。

周辺は古代から甲斐国(山梨県)の中心地で、付近には甲斐国分寺の跡や、

甲斐国分尼寺の跡もあります。

御祭神は、富士山信仰木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)で、

社伝によれば、古代にここから東南に約3キロ離れた神山(こうやま)の麓

(現・境外摂社の山宮神社が鎮座)に創建され、

貞観7年(865年)に現在地に遷座したと伝わります。

富士山は、貞観6年(864年)〜貞観8年(866年)には、

西湖と精進湖、青木ヶ原樹海を生み出した貞観大噴火が起こっていますが、

当時駿河国側には「富士山本宮浅間大社」がすでにあったため、

甲斐国側にも浅間神社を建立して両方向から富士山を鎮めようと、朝廷から命を受け、

富士山鎮護の神様である「木花開耶姫命」をこの地に遷してお祀りしたとも云われています。

またこの神社は噴火の被害をを避けるため富士山が見えない場所に位置し、

さらに神様が正面から被害を受けないように本殿が富士山に対して90度横を向いている

という特徴があります。

二の鳥居

国道20号沿いには、大きな一の鳥居、

浅間神社の正門には二の鳥居と、旧国幣中社時代の社号標が建つ。

随身門は明治四十二年(1909)の再建

随身(近衛府の官人)の姿の守護神像を左右に安置した神社の門。

この二神は閽神(かどもりのかみ)あるいは看督長(かどおさ)といわれ、

俗に矢大臣・左大臣と称されます。

社号標の揮毫は鹿島神宮や香取神宮と同様に東郷平八郎によるもの。

随神門

浅間神社

浅間神社(あさまじんじゃ)は、山梨県笛吹市一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)論社、甲斐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国にある浅間神社の1つ。甲斐国一宮であることから「一宮浅間神社」と通称され、「一宮さん」とも呼ばれている。

祭神

木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

富士山を神格化した神。もと山宮神社に祀られていた3柱のうちの1柱で、木花開耶姫命のみ遷座したという。

歴史

社伝では垂仁天皇8年正月に神山の麓(現 摂社山宮神社)で創建され、貞観7年(865年)旧暦12月9日現在地に遷座したという。一帯は古代甲斐国の中心地で、付近には甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡が残っている。

『延喜式神名帳』で名神大社に列格する「甲斐国八代郡 浅間神社」の論社の一社である。また、平安時代末期より甲斐国一宮とされたとしている。ただし、当社の鎮座地は旧山梨郡であることや、他に甲斐国一宮を称する神社もあることから、名神大社および甲斐国一宮は当社ではないとする説もある。『日本三代実録』によれば、貞観6年(864年)の富士山の大噴火を受けて甲斐国でも浅間神を祀ることになり、翌貞観7年(865年)12月9日(旧暦)に甲斐国八代郡に浅間神社を建てて官社としたとある。その後、山梨郡にも同様に浅間神社を建てたとも記す。このことから、当社は「後に山梨郡に建てられた浅間神社」であるとする説が有力であるが、創建時は当地が八代郡内で「最初に八代郡に建てられた浅間神社」である可能性もある(詳細は「浅間神社#甲斐国」を参照)。摂社・山宮は元は神山を祭祀する神社であったと見て、甲府盆地の開発が進むとともに里宮に移り、のち浅間神(木花開耶姫命)の神格が与えられたとする考えもある

当社は武田氏からの崇敬が篤く、関係文書も多く伝わっている。その頃以降、当社を一宮とする史料や当地にあった「一宮庄」の記載のある文書も見られ、一般に甲斐一宮として崇敬された。江戸時代に入ってからも江戸幕府から所領を安堵されるなど保護された。

1871年(明治4年)旧暦5月14日に近代社格制度において国幣中社に列し、戦後は別表神社となった。

神道では神に日本酒を「御神酒(おみき)」として奉納するが、一宮浅間神社では戦後の1965年(昭和40年)から山梨県で産出されたワインを御神酒として奉納することが行われている

御祭神・御由緒 

第11代 垂仁天皇八年(約2千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。第56代 清和天皇の貞観7年富士山大噴火の翌年(865年)12月9日、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国一宮であって延喜の制に於ける明神大社である。明治4年5月14日国幣中社に列格。
御祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は富士の神である。
本 殿 入母屋向拝造銅板葺
拝 殿 入母屋唐破風向拝造銅板葺
境 内 3,395坪(1ヘクタール余)
御神徳
御祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、大山祇神の御女でまた御名を吾田鹿葦津姫命(あだかあしつひめのみこと)又、桜大刀自命(さくらおおとじのみこと)と申し上げる。天孫瓊々杵命の妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神である。
大神は、木の花(桜花)の咲き映ゆる如く艶麗優美の御容姿でしかも考順、謙譲の美徳をもって天孫にお仕えして貞節、至純、国土経営に尽くされた内助の功も極めて大きく、今日の日本の基礎を築かれたご功徳は永く日本女性の規範と仰がれている。
古来山火鎮護、農業、酒造の守護神、又婚姻、子授安産の霊徳神として崇敬をあつめている。

甲斐国一宮 浅間神社

地域の産業とともに

甲斐国一の年に位置し、ご祭神の木花開耶姫命は富士山鎮護のみならず、農業、酒造、子宝安産の神様として崇拝されてきたことから、富士山が鎮まってからは、米、養蚕、果樹といった産業を守る神様として地域に根ざしていきました。明治時代から始まった桃・葡萄の栽培は日本一の生産量を誇るまでになり、現在もフルーツ王国やまなしをけん引する地域として発展を続けています。中でも明治時代に日本で初めて手がけたワイン鋳造は、この地域の主要産業となりました。昭和40年頃から3月の山宮神幸祭には峡東地域のワイナリーからワインの新酒が奉納されています。そのほとんどが一升瓶のワインです。通常、御神酒は日本酒ですが、浅間神社では奉納されたワインを神様にお供えした後に御神酒としています。また古くは薬として用いられたワインの効能にちなんで、御神酒を封入した「葡萄酒守」もあり、ご神徳は「無病息災」「身体健全」「葡萄酒豊穣」であることも、葡萄畑が広がる日本ワイン発祥の地である峡東地域にふさわしいものです。さらに近年、使用済みワインコルクをお焚き上げして自然にかえす「ワインコルク感謝祭(コルク供養)」も3月に行われるようになりました。地域の産業を神様が守り、人々とともに歩んできた長い歴史と由緒のある神社として、この地域に育まれた文化を未来につなげていくことも大切にしています。

浅間神社の歴史

「木花開耶姫命」をご祭神とし、古代甲斐国の中心地に鎮座

垂仁天皇8年(前22)に、ここから東南に約3キロ離れた神山(こうやま)の麓に祀られたのが始まりといわれています。山宮神社と称するその摂社から、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地に遷座し、浅間神社が創建されたのは貞観7(865)年12月9日のこと。富士山の「貞観の大噴火(864~866)」を鎮めるものでした。当時駿河国側には「富士山本宮浅間大社」がすでにあったため、甲斐国側にも浅間神社を建立して両方向から富士山を鎮めようと、朝廷から命を受け、富士山鎮護の神様である「木花開耶姫命」をこの地に遷してお祀りしたのです。この神社は噴火の被害をを避けるため富士山が見えない場所に位置し、さらに神様が正面から被害を受けないように本殿が富士山に対して90度横を向いている特徴があります。また当時この地域は国府が近く国分寺もあるなど、甲斐国の中心地であったことも鎮座地になった理由であり、そのため噴火が静まって以降も、甲斐国の神社の中で最も古い歴史を有する伝統的な神社として尊敬を集め続け、現在に至っています。

例大祭「大神幸祭」

甲斐国一番の大祭といわれ、1100年以上昔から行われているとされています。当時釜無川の氾濫により甲府盆地では頻繁に作物が被害を受けていました。そこで富士山噴火という自然災害を鎮めた浅間神社の神様をお連れしたのが祭の発端です。神様が移動することを神幸(みゆき)といい、その中でも最大規模なので大神幸祭となり、やがて「おみゆきさん」と呼ばれるようになりました。毎年4月15日に甲斐市竜王の三社神社まで片道約6里(24km)に及ぶ長い行程を神幸の上、釜無川の氾濫を鎮めるための水防願祭を執り行っています。神輿が行く途中では、古くからその時代の国の長がお参りする風習があり、武田信玄公も館から降りてきて陣を張りお参りしたといわれています。現在では葡萄畑に囲まれた沿道でワインがふるまわれるなど、今も地域の人々に親しまれ続けている大切な祭事です。

浅間神社の文化財

浅間神社(あさまじんじゃ)

(御祭神 木花開耶姫命 このはなさくやひめのみこと)

当社は、甲斐国の一宮であり、延喜の制に於ける名神大社です。

御祭神は、木花開耶姫命で、第11代 垂仁天皇8年(約2千年前)正月に東側の神山の麓に祀られました。今ここが浅間神社の摂社 山宮(やまみや)神社となっています。

第56代 清和天皇の貞観7年(865年)12月9日、木花開耶姫命を現在の地に遷し祀られています。

明治4年5月14日、国幣中社に列格。本殿は入母屋向拝造銅板葺、拝殿は、入母屋唐破風向拝造銅板葺です。

境内(けいだい)は、3,395坪(1ヘクタール余)

山宮神幸祭(山宮みゆき)

「山宮」という名前は今の浅間神社を里宮というのに対する呼び方です。そのため神さまは、一年に一回、里宮である浅間神社から山宮神社に帰ります。これが「山宮みゆき」というお祀りです。

大神幸祭(おみゆきさん 川徐祭 かわよけさい)

川徐祭(水防祭)は、一宮(浅間神社)、二宮(美和神社)、三宮(甲府市の玉諸(たまもろ)神社)の三社合同で行われます。
赤やピンクの長襦袢、紅とおしろいで女装した華やかな男衆が交代で神輿)を担ぎ、「そこだい、そこだい」と独特の掛け声を上げながら練り歩きます。神輿は境内から担当地区を通り、石和町の石和八幡神社、甲斐市竜王の信玄堤公園へと移動し、治水を祈願します。
また、参拝客で賑わう浅間神社境内の神楽殿では、お神楽が奉納され、一方では子ども神輿も繰り出し、家から家へと廻っていきます。

県指定工芸 浅間神社所蔵の太刀 二口

太刀 銘 国次
本刀は、武田信玄が奉納したと伝えるもので、長さ104cm、反り4.5cm、鎬造り。地は板目肌鎬地は柾目肌で刃文は中直刃。茎は鑢目鷹の羽で目釘穴1ヶ、国次と2字を切る。銘ぶりは俗に民国次といわれるもので、国構えの中に「民」の字が切られる。寛正、永正頃美濃国に住んだ刀工民国次の作である。民国次の刀工としての位次は高くはないが、本刀は枝両すぐれた作品として県指定を受ける。

太刀 銘 一徳斎助則
本刀は一徳斎助則の作で、長さ115.1cm、反り2cm、鎬造り。地は小板目細かく無地風、刃文は直刃に小互の目交り、足葉入り、刃緑匂で締まり、諸所に沸付きが地にこぼれる。
助則は、一宮町中尾の人で、本名田村義事。文政10(1827)年に生まれ、明治42(1909)年に没した。本刀は明治23(1890)年、64歳の時の作で、浅間神社に奉納されたもの。生地中尾の田村家所蔵のもの(明治22年作)とともに、甲州刀の代表作として県の指定を受ける。 (看板資料より)

紺紙金泥般若心経

紺色の料紙に金泥(金字)で写経を行った般若心経で、後奈良天皇(在位1528~57)の御宸翰(天皇の自筆)による。乱世に在位した天皇は写経の功徳によって万民を救済しようと、諸国一宮に般若心経の奉納を試みた。当初は全国「六十六ヶ国・島国」まで奉納することを目的としていたが、奉納されたと記録されるのは甲斐を含め、三河、周防、肥後、越後、伊豆、安房の七カ国分にすぎない。
紺色の料紙には罫線が引かれ、十八行にわたって般若心経が記された後、一行おいて「甲斐国 国土安穏万民和楽」の祈願文がある。見返しには杏仁型の図柄を一面に配する。罫線・文字・図柄ともに金泥で書かれている。
経典と共に残される包紙には、武田晴信自筆の奉納文と花押が押されている。その内容から、この般若心経は天文19(1550)年、一旦国主である晴信に渡された後、改めて甲斐一宮である浅間神社に奉納されたことがわかる。
(看板資料より)

随神門の先から参道が続きその先に社殿がありますが、

神様が正面から被害を受けないように富士山に対して90度横を向いている

と伝わります。

社務所

甲斐国一宮 浅間神社

所在地

山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684

問い合わせ

TEL:0553-47-0900/FAX:0553-47-3963

駐車場

20台/無料

アクセス

中央自動車道勝沼ICから約3km(車)

JR山梨市駅からタクシーで10分(電車・バス)

ホームページ

http://asamajinja.jp

授与所

手水舎

拝殿

江戸時代、寛文12年(1672年)造営の拝殿は

桁行7間・梁間3間の一重入母屋造唐破風向拝付で銅板葺と一之宮の格式を感じさせる造り。

笛吹市の文化財にも指定されています。

社額

富士山を祀る神社であるが、境内からは御坂山地の陰に隠れて富士山は見えず、

本殿も富士山とは関係ない方角、祭神が降臨したという神山の方向を向いている。

拝殿に掲げられた扁額の額面には「浅間神社」ではなく「第一宮」とあり、

延寶2(1674)年、佐々木玄龍の筆による揮毫が元。

御祭神・御由緒

第十一代 垂仁天皇八年(約2千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。第五十六代 清和天皇の貞観7年富士山大噴火の翌年(865年)12月9日、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国一宮であって延喜の制に於ける明神大社である。明治4年5月14日国幣中社に列格。

御祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は富士の神である。

本 殿 入母屋向拝造銅板葺拝

殿 入母屋唐破風向拝造銅板葺

境 内 3,395坪(1ヘクタール余)

御神徳

御祭神、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、大山祇神の御女でまた御名を吾田鹿葦津姫命(あだかあしつひめのみこと)又、桜大刀自命(さくらおおとじのみこと)と申し上げる。天孫瓊々杵命の妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神である。
大神は、木の花(桜花)の咲き映ゆる如く艶麗優美の御容姿でしかも考順、謙譲の美徳をもって天孫にお仕えして貞節、至純、国土経営に尽くされた内助の功も極めて大きく、今日の日本の基礎を築かれたご功徳は永く日本女性の規範と仰がれている。
古来山火鎮護、農業、酒造の守護神、又婚姻、子授安産の霊徳神として崇敬をあつめている。

夫婦梅(県指定天然記念物)

本殿に近い樹齢200年と言われる御神木に実をつける夫婦梅。
夫婦梅は、ひとつの花から二つの実を結ぶ。
そのため、古来より祭神・木花開耶姫命のご神徳により子授の霊験があると伝えられ、御利益を得ようと参拝祈願者が多く訪れるそうです。
梅枝折神事として毎年旧暦4月の第2亥の日に収穫し、神前に供え、子授祈願祭を執り行う。

本殿

神楽殿

参道の突き当りには神楽殿と左隣りは神楽庫。

今でも現役で使われており、舞台で神楽が奉納されている。

神輿庫

昭和五十年(1975)の改築

神興4基を納め、宝物庫の役割も果たしています。

護国社

昭和四十年(1965)代の建立

当地(一宮町)の英霊458柱を祀る。

七社

七社には、元々7体の神様が祭られていましたが、稲荷社は別の所に祀られており、

現在では6体の神様が祭られています。

祭神「雨降大神(あめふらすだいじん)道祖神(どうそじん)

金比羅大神(こんぴらだいじん)六所大神(ろくしょだいじん)

加賀土大神(かがどだいじん)天満宮(てんまんぐう)」

祓門

まだ新しい社殿右手のエリアには、珍しい人型に繰り抜かれた石の祓門がある。

その先には十二支の石像が並んでおり、十二支参りとして干支に準じて

参るようになっている。

十二支参り像

富士石

拝殿の裏手には、富士山の形をモチーフにした富士山石があります。

『御祭神木花開耶姫命は富士山の神なり』と刻まれています。

成就石

こちらの参拝方法ですが、この石前に立ち浅間大神の本殿に向きて唯一心に祈る

『祓へ給へ 清め給へ 守り給へ 幸へ給へ』と三回。次に願いごとをします。

そして、成就石の上で二拝・二拍手・一拝と刻まれています。

境内末社 稲荷社

境内末社 稲荷社 由緒

この稲荷神社社殿は、昭和59年8月、日本の高度成長期に、例大祭(おみゆきさん)とご縁のある竜王町(現在の甲斐市)に創業された日立制作所甲府工場の中に祀られていた、日立浅間神社(のちのルネサス浅間神社)境内にあったものを、移築したものです。(横にある古い看板は、その境内に建てられていたものです)県内最大の企業内神社としての歴史を留めると同時に、企業発展、商売繁盛を祈念して、末社七社神社内の稲荷大神から御分霊を頂き、新たに稲荷社としてここに祀られました。参道の朱塗りの鳥居は、参拝の皆様から御奉納を頂き増やしてまいります。希望の方は、社務所までお申し出しください。

御祭神である木花咲耶姫命は子授け・安産・育児の神として広く信仰されているため、

この神社には子授けや安産にまつわる石(陰陽石)も多くあります。

大黒天

境内には児童公園もあり、一之宮でありながら、

こうした村の鎮守的な雰囲気ある神社でもありました。

浅間神社 御朱印

山宮神社 御朱印

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