慈昌院(石橋城址)・愛知県新城市作手清岳寺屋敷
愛知県新城市作手清岳寺屋敷にある臨済宗の寺院「石橋山慈昌院」
その境内は「石橋城址(弾正屋敷)」でもあります。
戦国時代の氏族「奥平氏」は、当初川尻城に本拠を置いていましたが、
応永31(1424)年には亀山城を築き移りました。
亀山城は慶長7(1602)年に信昌の四男の松平忠明が1万七千石にて入封しますが、
慶長15(1610)年に伊勢の亀山城に移封され、元和年間に廃城となります。
石橋城は奥平二代目貞久の二男、弾正久勝が最初の城主で
久勝の子、石橋弾正繁昌は天文6年(1537)9月、主君への謀反が露見し、
4代目奥平貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められて敗北し、
郎党40人余が討死にしました。
その後、徳岩明和尚が繁昌と一族の死を哀れみ
亀山城主貞勝に願い出、石橋城跡に「石橋山慈昌院」を建立しました。
慈昌院 山門
国道301号と県道37号の交差点に道の駅「つくで手作り村」があり、
道の駅の国道を挟んだ正面に「慈昌院」があります。
慈昌院 本堂
慈昌院 大鐘(梵鐘)
現在、稲荷大明神と延命地蔵の裏に土塁の遺構がみられ、
その一画には並び立つ墓塔群がある。
石橋弾正を祀る石祠はその中央に据えられている。
石橋城址(弾正屋敷)
石橋城は、奥平二代貞久の次男、弾正久勝が最初の城主で、近辺の地名「石橋」を称し、三代貞昌の家臣となった。久勝の子、弾正繁昌は、天文6(1537)年9月、主君への謀反が露見し、四代貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。
死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも西方土塁の腰に石祠を確認することができる。後年になり、当山の第二世徳岩明和尚が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主貞勝に願い出、弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。