宇津山城跡(うつやまじょうあと)宇津山(49.5m)・静岡県湖西市入出
宇津山城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/宇津山城
静岡県湖西市入出、浜名湖に突きだした岬(正太寺鼻)
にある宇津山(49.5m)に築かれた宇津山城跡です。
往時、城への出入りは対岸から船を利用したもいわれています。
正太寺脇から車で山頂まで行くこともできますが、
正太寺の境内から散策コースが整備されています。
コース内は正太寺の八十八ケ所霊場になっていて
起伏に富んだ地形の境内の各所に仏像が配されています。
応仁元年(1467)創建の正太寺、宇津山城跡 建設時に
すでにあった寺院です。
宇津山城跡
宇津山城は、永正三年(一五○六)から大永七年(一五二七)頃にかけて
今川氏のよって、正太寺の裏山を利用して築城されたとされる。
宇津山城は、三河国への侵攻をはかる今川氏が、浜名湖を利用した
船運の支配と三河国と遠江国との国境を見張る目的で築いた城である。
永禄三年(一五六〇)、今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にすると、
反今川を明らかにした徳川家康の遠江国への侵攻を防ぐために
改修が行われ、高山に物見ができる簡単な曲輪が造られた。
その後、宇津山城をめぐって今川方と徳川方の攻防が繰り広げられる中で
今川方の最前線基地としして整備されるが、永禄十二年(一五六九)、
徳川方の酒井忠次の攻撃によって落城した。
そして今川氏の滅亡によって三河・遠江国境の押さえとしての意味合いが薄れ、
宇津山城の戦略的地位は低下した。
ところが、元亀2年(一五七一)武田信玄と徳川家康との対立が表面化すると、
再び宇津山城跡の戦略的地位が注目された。
国境北部から侵入する武田軍に備えるため、西に偏った防御ライン深く
彫り込まれた堀切、湖岸線まで達する竪堀など、
宇津山城最後の備えが整備されたのである。
しかし、天正三年(一五七五)の長篠の戦いで武田軍が敗れると、
宇津山城の戦略的意味合いも失われ、宇津山城の歴史は閉じられた。
山頂から南北に連なる曲輪群は北側部分に石積の土塁が西から北、
そして東側を巡った曲輪がありこの城の最大の見所です。
この土塁の東側に虎口が開き小郭を経て南北に長い曲輪に至る。
土塁の外側は石積された段が中腹まで続いている。
遠江 宇津山城跡
所在地
静岡県湖西市入出字正太寺鼻
遺 構
曲輪・空堀・石垣・土塁
形 式
山城
築城者
今川氏親
築城年代
大永4年頃
北から東にかけての曲輪群の石積の土塁が
かなりしっかりとした形で残る。
現在、西の城一帯は正太寺の霊園となっています。
ここからのながめる浜名湖の風景は一見の価値ありです。