瑞泉寺(ずいせんじ)臨済宗円覚寺派 鎌倉




瑞泉寺(ずいせんじ)臨済宗円覚寺派 鎌倉

臨済宗円覚寺派 鎌倉 瑞泉寺H.P
http://www.kamakura-zuisenji.or.jp

天園ハイキングコースは鎌倉アルプスの尾根を

建長寺とここ瑞泉寺まで結ぶ道。

建長寺からのルートは拝観料を支払い境内からになります。

拝観時間前だったので、ここ瑞泉寺まで足を延ばしハイキングコースを巡りましたが、

どうしても瑞泉寺に立ち寄りたく、ここまで戻ってきました。

早朝、瑞泉寺に立ち寄った際には拝観時間の2時間弱前、

もうすでに女性が一人待っていました。

鎌倉の道は苔生しています。

新緑の時期、緑のコントラストが綺麗です。

明治維新の指導者の一人吉田松陰は1854年(安政元年)、

下田で密航を企てる直前に、

瑞泉寺の住職であった伯父の竹院和尚に会いにきたといわれる。

企ては失敗。松蔭は獄中で瑞泉寺を訪れた詩を詠じたいう。

「山の青々とした竹の光が窓から射し込んでくる。

方丈は奥深く、錦屏山の懐に抱かれて物静かである。

いま私は囚われの身となって獄中にあり、

むなしく苦しみを味わっている。ある夜夢に瑞泉寺を訪ねた」

瑞泉寺山門の前の石碑は、1929年(昭和4年)に建立されたもので、

徳富蘇峰の筆によるもの。

瑞泉寺(ずいせんじ)

由来
この寺は臨済宗円覚寺派。
夢想疎石がここを禅院相応の勝地として選び嘉暦二年(1327)に建立した寺。
山号の錦屏山は、紅葉谷を囲む三方の山が秋になると山が紅葉し、
寺の背後に錦の屏風のように広がることから名付けられた。
初代鎌倉公方・足利基氏(足利尊氏の4男)が中興した。
足利基氏は夢想疎石に帰依し、瑞泉寺は基氏以降、
鎌倉公方代々の菩提寺となり、
鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇った寺であった。
仏殿の背後には後醍醐天皇や足利尊氏に帰依された
夢想疎石の作と伝えられる岩盤を削って池を配した簡素な庭園がある。
夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺の庭園も、後に作っている。
庭は、中腹の鎌倉石の岩盤に庭の約束事である滝、池、
中島等の全てを巧みにえぐって橋をかけ、
さらに水を貯めて滝として流す貯水池までも刻んだ
岩庭と呼ぶに相応しい庭園である。
鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されている。
また花の寺としても親しまれている。
本尊は釈迦牟尼仏

瑞泉寺(ずいせんじ)

宗派
臨済宗円覚寺派
山号寺号
錦屏山(きんぺいざん)瑞泉寺
建立
嘉暦2年(1327年)
開山
夢窓国師(夢窓疎石)
中興開基 足利基氏

瑞泉寺は鎌倉公方(鎌倉府の長)の菩提寺(ぼだいじ)として、
鎌倉五山に次ぐ関東十刹(かんとうじゅっさつ)に列せられた格式のある寺院です。
山号の錦屏山(きんぺいざん)は、寺を囲む山々の紅葉が錦(にしき)の屏風のように
美しいことから名付けられました。
また境内は、四季を通して様々な花を楽しむことが出来ます。
山の夢窓国師(むそうこくし)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)や
足利尊氏(あしかがたかうじ)も深く帰依(きえ)し、
鎌倉〜南北朝期に臨済宗(りんざいしゅう)で重きをなした僧です。
作庭にも才を発揮し、昭和45年に発掘、復元された仏殿背後の庭園は、
夢窓国師の作として、国の名勝に指定されています。

瑞泉寺の庭園は大変素晴らしい。

今日巡った寺院の中でも自分が最も好みの庭です。

山門を右奥へ進むと寺務所

御朱印はこちらで頂きました。


本堂

本尊である釈迦如来坐像を祀る。

建物は1975年に再建されたもので、

堂内には南北朝時代に作成されたと伝わる木造夢窓国師坐像(重文)、

徳川光圀寄贈の木造千手観音菩薩坐像も安置されている。

本堂の脇には、鎌倉市の指定天然記念物である黄梅と冬桜が植わっている。


どこもく地蔵堂

地蔵堂に安置されている鎌倉時代後期作の木造地蔵菩薩立像。

夢にこの地蔵が現れ「どこもく、どこもく(どこも苦しいのは同じ)」と語りかけた』

という逸話が残っており、この逸話が由来となり「どこもく地蔵」と呼ばれるようになった。


瑞泉寺庭園

開山の夢窓国師によって鎌倉時代に作庭された池泉回遊式庭園


鐘楼

御朱印

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