青龍山 満光寺(まんこうじ) 愛知県新城市 曹洞宗




青龍山 満光寺(まんこうじ) 愛知県新城市 曹洞宗

青龍山 満光寺 | キラッと奥三河観光ナビ
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愛知県新城市、道の駅「鳳来三河三石」の裏に

曹洞宗の寺院 青龍山 満光寺(まんこうじ)へ

徳川家康の窮地を救い、のちに三石を賜った

ニワトリの逸話が残る寺院です。

青龍山 満光寺

庭園
愛知県指定文化財

小堀遠州流で、鶴亀蓬莱式の回遊林泉庭園。
東庭200平方m、北庭800平方m。
高くそびえる裏庭の斜面を利用し、書院に迫るように築かれている。

(1)築山
サツキの刈り込みが沢山使われ、開花時(5月下旬)は最も美しい。
夏はスイレンと百合。秋は紅葉。冬は南天や万両の赤い実が、
また雪景色は特別の美しさを作る。
(2)石組み
全体として山岳の姿、自然の景観を石組みで表現している。
築山、滝と流れなど石組みや、庭の中心をなす正面中腹の三尊石の石組みは見事。
三尊石の両脇に大小の滝を配し、左手に大滝の石組みを作り最大の景観をみせる。
日本全国より石工さんが見学に訪れています。
(3)池泉
書院の前に細長い心字池を掘り、東西の両端に出島を張り出し、
中央に中之島を配し、その手前に礼拝石を据えている。

青龍山満光寺の略史

0860年(貞観2年)
平安時代に天台宗の寺として創建される。
1500年頃
室町時代末期、戦国時代の戦乱に焼かれ、廃墟となる。
1532年(天文元年)
この一帯の領主鈴木長門守によって、
曹洞宗の寺として現在地に再建される。
1668年(寛文8年)
に客殿と衆寮が
1680年(天和3年)
に大庫裏。
1685年頃
薬師堂、土蔵、車屋、馬屋、大門塀が建てられ盛大になる。
1707年(宝永4年)
現存する3門が建てられた。
1782年(天明2年)
火災によって、諸堂が焼けてしまい、山門だけが残った。
1784年(天明4年)
伽藍が再復興されたが、かっての面影はなく、今は本堂と山門だけが残っている。

明治政府の敬神尊皇の政策によって、排仏の動きが高まり、多くの仏像や寺が失われた。
満光寺も多くの末寺が廃寺にされたが、田沢村の檀家に守られて、廃寺を免れた。
現在、本堂と書院の間の座敷を田沢寮と名ずけて記念している。

仏像
十一面観世音菩薩は本尊。
薬師如来は延暦寺3世慈覚大師の真作。
釈迦座像は末寺だった金光寺(満光寺より創建は古い)が、
明治時代に廃寺にされ、村人が守っていたもので、後に満光寺に移された。

交通
151号線鳳来町役場を257号線に入り、浜松方向に走行7km、左側の街道沿い。
〒441-16 愛知県南設楽郡鳳来町下吉田字田中140
電話: (05363)4-0116

家康公の危機を救った満光寺とニワトリ」

元亀年間家康が若い頃、甲斐の武田信玄に敗れ、
山の吉田まで落ち延びて来た。
夕方のことで疲れも激しく途方に暮れていたところ
ちょうど満光寺という寺が目に止まった。
そこで住職に一夜の宿を頼んだ。
住職は家康たちを一目見て戦乱の常とはいいながら大変気の毒に思い、
快よく泊めることにした。
家康は大変喜んで住職にお礼を述べ更に
「ご住職誠に相済まぬが、私どもに故あって明朝早立したいと思う。
よって一番鶏が鳴いたら必ず起こして戴きたい。」と頼んで寝についた。
そして真夜中になった頃であった。
不思議なことにその夜に限って、寺の鶏が真夜中に刻を告げた。
住職は随分早く鳴いたものだ、と思いながらも約束のことを思い、
早速家康たちを起した。
家康たちは厚く住職にお礼を言って大急ぎで闇の中を出発して行った。
ところが家康たちが去って間もなく、武田の一隊が家康討伐のために寺を包囲したが、
家康一行は一瞬の差で危機を脱することができたと伝えられている。
後天下を統一した家康は、満光寺の鶏によって危うく命を救われたことを思い
寺領三石を与えて恩に報いたという。
その後、慶安二年(一六四九)三代将軍家光から寺領二十石が与えられた。
「山の吉田の満光寺さまの、とりになりたや にはとりに」
と今でも民謡として唄いつがれている。」


山門

江戸時代には石高 寺領二十石と繁栄した満光寺

江戸期より現存する山門が当時の姿を偲ばせます。

NHK 大河ドラマ「おんな城主 直虎」ゆかりの地として紹介され

訪れる人が増えているそうです。


本堂

満光寺柿本城と井伊家

満光寺をおこし柿本城を築いた鈴木長門守重の娘が
真満の妻となり直親が生まれ、直盛の子の直虎(次郎法師)と
許嫁となっていたが、他の娘を娶り、直政を儲けるが、
幼いため、成長するその間、直虎は次郎法師として
虎松(直政)の後見人となり領主となって井伊家を守ったのだった。

本堂横から、無料で拝観することができます。


本尊

本尊の十一面観世音菩薩

こうして御本尊の前まで上がることができるはすごく嬉しい。

ご住職の奥さんが奥の書院まで通してくれた。

大河効果か、やはり以前よりも参拝者が増えたそう、

庭園の説明(カセットテープ)を流すからゆっくりしていってくれとのこと。

書院は色々な絵が飾られておりさながら美術館のよう

直虎関係のものも多かったが、好みな色合いの作風が多く

なによりアットホームで落ち着く。


満光寺 庭園

小堀遠州は二条城や金地院の庭園も手がけた茶人

これだけ素晴らしい庭園、江戸期はさぞかし凄い寺院だったのだろう。

小堀遠州 作と伝わるが、確証は無く正確には小堀遠州風の

回遊林泉庭園です。

庭園は広くはないものの目の前にそびえ立つ

急斜面に巧みに配置された石組みの庭園には圧巻です。

庭園の池の鯉に餌をあげながら、

色々話を伺がう、猫も集まって来てきました。

かなり和みます。


宗基堂

山に面した崖 小堀遠州の庭園がある本堂の裏に基堂があります。

こうして横から庭園を眺めると、

斜面が書院に迫るように高くそびえていることがよく解ります。

満光寺の裏、小高い山は柿本城跡になっている。

遠江井伊谷の井伊家被官だった鈴木長門守重勝が築城した城。

また当時衰退していた満光寺も再興させました。

柿本城跡 (かきもとじょうあと) おんな城主 直虎 ゆかりの地 井伊谷三人衆の記事

御朱印

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