賤機山城(しずはたやまじょう) 静岡県静岡市葵区大岩
賤機山 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/賤機山
賤機山 頂上より少し進んだ所に
賤機山城(しずはたやまじょう)の碑が残ります。
南北朝時代、北朝方の今川氏が、南朝方の狩野氏に備えて築き
戦国時代は今川氏の詰城とされました。
供養塔のある賤機山頂上
静岡市街が一望できる最高の立地です。
賤機山城(シズハタヤマ)
別称
龍鼻砦
所在地
静岡県静岡市葵区大岩・昭府町
築城年代
応永十七年(1410)
築城者
今川範政
形式
山城
遺構
曲輪・土塁・堀切
規模
500m×50m、標高180m、比高150m
賤機山城
賤機山城は静岡市街地の西側外縁の稜線上、
同市大岩の臨済寺裏山で、旧駿河国府中の町々がその山麓に広がる。
本城は駿河府中(駿府)に本拠地を置き、
数代にわたり駿・遠・三の三州に君臨した
今川氏の居館「府中館」の詰城として存在した。
ところで、武田氏時代籠鼻砦と呼ばれ、その位置については諸説があり、
同市井宮町の井宮神社境内ともいわれ、
また浅間神社裏山(賤機山の南)に一条の空掘が見られるが
これ以南賤機山古墳を含む一帯とも考えられる。
しかし地勢が変形して城郭遺構はない。
いずれにせよ籠鼻砦とは賤機山城の別名と考えられる。
また賤機山の北3.5㎞、賤機山稜の北端を示す標高222mの山頂には
福成稲荷神社が祀られているが、山頂一帯は広い平坦地で、
賤機山城から死角となる安倍川上流部に対する押さえの地勢であり
、賤機山城の出城的存在であったのではないかと考えられるが、
それに関係する裏付けはない。
賤機山城が築かれた年次は、今川氏四代範忠の在世時、
すなわち応永17-18(1410-11)年頃と想われる。
今川氏時代における賤機山城の在番将兵の名は伝わらず、
わずかに『今川分限帳』によって石橋兵部少補の名が見られるだけである。
永禄11(1568)年12月、駿府に侵入、その城下町を焦土とした武田勢は、
翌年1月、今川氏の援軍と称して駿河東部に進駐した北条軍に
甲州への帰路を遮断される危険があるため一時帰国した。
その後、北条氏の援助をうけて駿河に残存する今川家旧臣の人々によって
賤機山城の修築(あるいは府中館ともいう)が行なわれた(『有渡巡村記』)。
もっとも、『甲陽軍鑑』品第37、永禄13年9月の条に
「駿州へ御馬を入られ駿河中(府中か)城之半造作なるを
御普請可(レ点)被(レ点)仰」とあることは、
賤機山城のことをいっているとも考えられる。
武田軍は永禄13(元亀元、1570)年、再び駿河に侵入、
府中に籠もる今川勢を降し、ついで同国西部に残存している今川氏の属城を攻略、
そして元亀3年には駿河の留守居として武田上野介信友を在駐させた。
これ以後、駿河における武田氏の動きは見られず、
賤機山城の廃城年月も明らかではない。
(日本城郭大系より)
賤機山城(しずはたやまじょう)
賤機山城は、南北朝の動乱期(14世紀)に、北朝方の今川氏が、
安倍川西岸の安倍城に本拠を構える南朝方の狩野氏に備えて築き、
南北朝期以後は今川館の詰城としての役割を果たしていたと考えられている。
永禄11(1568)年には武田信玄の駿府進攻によってその支配に降り、
さらに天正10(1582)年の徳川家康の駿府入りにより廃城となった。
城は南北に続く賤機山の主尾根上及びそこから派生する支尾根上に築かれており、
その範囲は東西約400m、南北約600m以上にわたる。
要所には尾根を横切るかたちで大小の堀切が設けられ、敵の容易な侵入を防いでいる。
城の中心部分は今川氏歴代の菩提寺である臨済寺をほぼ真下に見下ろす尾根上にあり、
三つの主要曲輪から構成されている。
この曲輪部分は城のなかで最も標高が高い尾根上にあり(最高約173m)、
静岡平野を一望に見渡せる好所にある。