小牧山(85.9m) 小牧城・愛知県小牧市堀の内




小牧山(85.9m) 小牧城・愛知県小牧市堀の内

小牧山 – Wikipedia

濃尾平野の北東部、小牧市の市街地にある小牧山

愛知130の山の中で紹介されている一番標高の低い標高85.9mの山です。

永禄六年に天下統一を目指す織田信長がこの山に城を築きましたが、

四年後には岐阜城へ移り廃城

その後 尾張・長久手の合戦で徳川家康の本陣が小牧山に築かれました

今残っている土塁や堀などの遺構はこの時のものが多いそうです。

小牧歴史資料館(小牧城)は見応えもあり、四階展望台からは絶景が望めます

小牧山 (こまきやま)

標高 85.9m 登山日 2019年2月9日
織田信長が築城し小牧長久手の戦いの舞台となった山
所在地 愛知県小牧市堀の内

難易度      オススメ ★★ 登山口(ナビ検索) 小牧山北駐車場
スタート(14:28)→小牧山(14:32)→ゴール(15:07) 所要時間 39分 高低差 69m 累積標高 102m / 100m 距離 2.2m
■小牧山は市街地の西に位置する標高85.9mの小山です。
永禄6年(1563)織田信長が小牧山に築城し、清須から居城を移しました。 4年後、信長は岐阜へ移り廃城となりましたが、後に徳川家康と豊臣秀吉の「小牧・長久手の戦い」において家康の陣となりました。
■小牧山北駐車場(2時間無料)が利用できる。現在、山には緑地や遊歩道があり、春には桜やツツジの花が咲き、市民の憩いの場となっています。
■かつての小牧山城の様子を探るべく、小牧山各所で行われている発掘調査では、最近3段に渡る石垣が出現し、日本最古の「石垣で造った城」である可能性がでてきました。
■ー

愛知県には高い山が無く、最高峰の茶臼山でも標高1415m程度です。そのため、厳冬期・春 秋のハイキングなど自分のスタイルに合わせて楽しめるのも魅力。登山初心者やファミリーに最適で魅力的な山が多いのも特徴です。

史跡 小牧山
昭和2年10月26日 国指定

市街地の西に位置し、標高85.9㍍、総面積約21㌶の小牧山は、尾張平野の中に孤高する眺望の地である。
永禄6年(1563)、小牧山に初めて城を築いた織田信長は、清須から居城を移し、南麓に計画的な城下町を計画した。
しかし、永禄10年に美濃の斎藤氏を攻略した信長は、稲葉山城(岐阜城)へ移ったため、小牧山城は在城わずか4年で廃城となった。
その後本能寺の変で没した信長の後継者争いに起因する小牧・長久手の合戦では、羽柴秀吉軍に対する織田信雄・徳川家康連合軍の主陣地が置かれ、信長の城跡に大規模な改修を加え、陣城とした。
江戸時代には、尾張徳川家の管理下で一般の入山禁止など保護がなされたため、遺構の保存状態は良好で、昭和2年には国の史跡に指定された。
東麓にあった小牧中学校の移転に伴い、平成10年から発掘調査が始められ、織田信長の城であった当時は、堀で区画された武家屋敷が立ち並んでいたこと、小牧・長久手の合戦時には、これらの屋敷跡を一部踏襲して堀や二重の土塁で囲まれた帯曲輪を築造したほか、深い堀を配した虎口(こぐち)を設けるなど、厳重な防御がなされていたことが明らかになった。
これらの成果をもとに、平成13年から遺構復元等の史跡整備が進められ、平成16年4月から史跡公園として公開されている。

小牧山ガイド

小牧山北駐車場(2時間無料)より

史跡小牧山
昭和2年10月26日 国指定史跡

小牧山は、標高85.9m、面積約21haを測る。
平野の中央に孤立する小山で、山頂からは濃尾平野を一望することができる。
永禄6年(1563)、織田信長によって小牧山城が築かれ、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の舞台となり、歴史にその名を残している。
信長は、永禄6年、美濃攻略のため清洲城から小牧山へ移り、山全体を城域じょういきとし、多数の曲輪くるわを設けた。
要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたという。
また小牧山南麓から西麓に城下町を形成した。
しかし、信長は永禄10年に美濃の斎藤龍興たつおきを攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となった。
本能寺の変の後、信長の後継者争いが起こり、天正12年、豊臣秀吉と信長の二男信雄のぶかつ・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣した。
小牧・長久手の合戦である。
犬山城方面から侵攻し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉軍に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山の東方にも砦を築いて対抗し、持久戦となった。
現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ新たに土塁・堀を築くなどして改修された家康軍の陣城じんじょうの跡である。
小牧山城の縄張りは山麓と中腹の横掘で二重に囲い込まれる。
中腹の横堀は、概して浅いか堀相当の平地の前面に低い土塁を配するものが多い。
山麓の長大な土塁と横堀は家康軍の改修の際に築かれ、秀吉軍と直接向かいあう東から北にかけて、大軍勢を収容する幅広な帯曲輪おびぐるわと北側の「搦手口からめてぐち」などの出撃用の虎口こぐちが築かれたと推定されている。
史跡小牧山は現在でも各所に土塁や堀の跡が見られ、織豊しょくほう期城郭を良好に保存した希少例として貴重な存在である。
なお、山頂に建つ歴史館(小牧城)は、秀吉が京都聚楽第じゅらくだいに建てた飛雲閣ひうんかく(現在、西本願寺内)をモデルに昭和43年に建設されたもので、郷土資料が展示されている。

小牧山城(小牧市歴史資料館)

小牧山の頂上には小牧山城(小牧市歴史資料館)

名古屋市の実業家平松茂氏により、昭和43年に完成し寄付されました。

館内は小牧市の郷土資料が展示され、4階は展望室となっています。

尾張徳川家十九代 徳川義親氏之像

昭和5年に尾張徳川19代当主 徳川義親が小牧市に小牧山を寄贈したそうです。

国指定史跡 小牧山と歴史館のご案内

小牧山
標高85.9m、 面積約21万平方メートル(約6万3千5百坪)
小牧山は、本市のほぼ中央、市街地の西側にあって、濃尾平野に孤立する小さな山で、昭和2年一般に公開、この年国より史跡の指定を受け、その後徳川家から小牧町(当時)へ寄付されました。
この山は古くから桜の名所として親しまれ、今日では4月上旬に「小牧山さくらまつり」が催され、たくさんの見物客でにぎわいます。
歴史館(小牧城)は昭和43年、平松茂翁(故人)が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、鉄筋コンクリート三層四階建て、高さ19.3メートル、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして名古屋工業大学城戸久教授(故人)の設計によって建てられました。
館内は市指定文化財の銅鐸、銅鏡をはじめ考古・民族・歴史資料や小牧・長久手合戦のパノラマなどが展示されて小牧市の歴史を知ることができます。
永禄6年(1563)織田信長が美濃(岐阜)に進出する大志のもとに、地の利を得たこの山に目を付け、清須(洲)城から移ると共に山全体を要塞にするため、山頂から麓まで五段の塁濠を作り、山頂に屋敷、南側に大手道、北側に搦手道をつくりました。
中腹には馬場をつくったり、井戸を掘ったり、また要所に重臣の邸宅を置きました。
当時は、北側は池沼で自然の要害であったため工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事であって、あちこちに堀をつくりましたが、それらは今なお山中にみられます。
その後信長は美濃に攻め入って岐阜稲葉城に移り住んだので、この山は自然廃城となりました。
そして小牧・長久手の戦で再び歴史の舞台に登場してきます。

天正小牧山合戦
天正10年(1582)の本能寺の変の後、信長の後継者問題で二男信雄と秀吉が対立、秀吉は信雄を懐柔しようとしますが、これに応じずかえって反逆したため北伊勢の居城を攻撃します。
信雄は驚き家康に援助を求めたところ、信長に恩のある家康はこれを引き受け、自ら大軍を率いて清須(洲)城に入り、地の利第一の小牧山に軍を進めました。
一方秀吉は大坂(阪)城を出て犬山に入り、市内の岩崎山を中心にこの付近各地に巾広く砦を築いて、小牧山の家康。信雄軍と対峙しました。
この時の両軍の兵力は十万余と言われます。
しかし、戦いは小ぜり合いを繰り返し、長く膠着状態が続きました。
秀吉は、部下池田輝信の再三の進言によって、家康の居城である岡崎城を攻撃すれば一挙に解決するものと考え、軍の一部を密かに移動させますが家康軍に気付かれ、家康自ら秀吉軍を急進撃します。
これが長久手を舞台に繰り広げられた長久手の戦いで、家康軍の完勝となりました。

御野立聖蹟

御野立聖蹟は、昭和2年の陸軍特別大演習に、昭和天皇が視察に訪れ、

休息されたのを記念して建立されたも。

小牧山(85.9m)山頂 三角点

史跡小牧山主郭地区~織田信長が築いた小牧山城~
巨石石垣の露頭

大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16~21年度にわたり試掘調査及び発掘調査を実施しました。
以前から、曲輪001の北西法面の一部に石垣の巨石群が露頭していることは知られていましたが、この露頭する石垣の両側で実施した法面の調査により、曲輪001の西法面から北西法面、さらに北東法面の一部にかけて、石垣が連続して残ることがわかりました。
これまでに確認した曲輪001法面に残る石垣のうちでは、ここの西法面で使われた石が最も大きく、縦約1.3m、横約1.9mの石が3つ続けて並べられています。
大きな石が使われているためか、西法面から北西法面の露頭石垣までは、他に比べて石垣はよく残っています。
露頭石垣から北側では、所々で積み石が抜け落ちている状況が見られました。
曲輪001の法面の石垣は、その屈折具合や築かれた面の傾斜具合から、山の地形に合わせて築かれた塁線である印象を与えています。

小牧山城主郭周辺案内図

小牧市歴史資料館

小牧市歴史資料館

小牧山の頂上にあり、館内は小牧市の郷土資料が展示され、4階は展望室となっています。
名古屋市の実業家平松茂翁(故人)により、昭和43年に完成し本市に寄付されました。

館内では、江戸時代の甲冑・小刀や、小牧山遺跡出土石器・織田井戸遺跡出土土器などを展示しています。
4階が展望室となっており、標高100mからの眺めをお楽しみいただけます。

◆入館料

大人100円、小人(小学生・中学生)30円
※土・日・祝日は小人の入館無料

小牧山城の発掘調査

正眼寺の誕生仏

国重要文化財 銅像誕生釈迦立像(レプリカ)

小牧長久手合戦図

4階展望台

三国山・猿投山

名古屋市内方面

伊吹山方面

尾張三山 御嶽山 方面

展望台 案内板

小牧山稲荷神社

小牧山(85.9m)の麓に鎮座する小牧山稲荷神社です。吉五郎伝説でも有名な狐をお祀りしています。

吉五郎稲荷社

小牧山稲荷神社

吉五郎伝説  信長・家康、後に控えしは吉五郎大親分

徳川の世の小牧山は人の入れぬ山となり鬱蒼と茂る

原生林の森と化しました。

狐狸の 棲家となるのにそう時間はかかりません。

小牧山の狐と正眼寺の狸が化け比べをしたとか

天気雨の日は狐の嫁入りだとか、芝居見物に狐が現われたとか

噂が飛び交いまし た。

小牧の郷土史家津田応助は「お梅・お初断片」(旧本陣家記録)に

古老の昔話 を交えて、『伝説・老狐小牧山吉五郎』(昭6刊)を

小説風にまとめ、吉五郎伝説とし て世に広めました。

観音洞

観音洞

明応の頃。
乳の出ない妻に食わせようと、子孕み鹿を撃ちに小牧山に登った麓の狩人が、七匹の子鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、子鹿は七つの石に、母鹿は観音像と化した。

狩人はこれを見て殺生を悔い、その地に草庵を結び観音像をねんごろに祭った。後に観音を祭る草庵は間間に乳観音として移転したが、草庵の跡地は観音洞と呼び親しまれ現在に至っている。

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