箱根神社(九頭龍神社)・神奈川県足柄下郡箱根町元箱根




箱根神社(九頭龍神社)・神奈川県足柄下郡箱根町元箱根

神奈川県足柄下郡箱根町元箱根、

芦ノ湖湖畔に鎮座する箱根神社

古来関東総鎮守箱根大権現と称された関東屈指の神社です

ご祭神の箱根大神は、「瓊瓊杵尊」「木花咲耶姫命」「彦火火出見尊」の三柱で、

交通安全、心願成就、開運厄除けのご神徳が高い運開きの神様です。

また、箱根神社の大元である元宮は、駒ヶ岳山頂に鎮座し奥宮とされています。

駒ヶ岳(天津磐境)から拝する神山(天津神籬)を御神体としてお祀りされ、

関東の山岳信仰の霊場となりました。

萬巻上人(まんがんしょうにん)が夢でご神託をうけて箱根三所権現を奉斎。

麓の芦ノ湖畔にたてたのが、現在の箱根神社です。

門前町の奥に建つ第二鳥居

第二鳥居

第二鳥居の横にもバス専用と乗用車それぞれの参拝者駐車場があります。 鳥居の持つ意味清浄な神霊の鎮まります聖地と、日常の生活をする俗世間とを区別する境界にあり、神域を示すものです。箱根神社の鳥居の形式は、明神(みょうじん)鳥居ですが、湖上に建つ平和の鳥居だけは、両部(りょうぶ)鳥居です。

芦ノ湖と駒ヶ岳

平和の鳥居

平和の鳥居

湖上の鳥居は、今上陛下の立太子礼と日本の独立(講和条約締結)を記念して昭和27年に建立されました。
昭和39年に至り、御鎮座1200年と東京オリンピック開催を奉祝記念し、「平和」の扁額が掲げられました。
揮毫は、講和条約の全権特命大使として調印した吉田茂元首相の真筆になるもので、それ以来「平和の鳥居」と親しまれています。

手水舎

手水舎横の第四鳥居から見る、九十段の正参道

石段はほどよい踏み高で、思ったより楽に登れます。

中程左側には曽我神社

老杉に囲まれた気持ちの良い参道です。

曽我神社

曽我神社

御祭神      曽我十郎祐成之命
       曽我五朗時致之命   例祭日 5月28日(傘焼神事)

由  緒

曽我神社は、鎌倉時代、箱根権現の稚児であった曽我五郎時致と、兄十朗祐成の霊を慰めるため「勝名荒神祠」としてお祀りされたのが始まりである。

江戸時代の正保四年(1647)小田原城主稲葉美濃守正則が石造の本殿を造営し、また平成の御代に社殿を改修した。祥月命日には故実による傘焼の神事(写真右)や、居合道の奉納等が行われ、今日なお心願成就の守護神として崇敬されている。

曽我兄弟は、幼名を兄十郎は一萬、弟五郎は筥王と称した。

安元二年(1176)兄弟が5歳、3歳の時、同族間の所領争いが因で、実父河津三郎祐泰が工藤祐経に討たれるという不幸に遭遇した。

母満江御前は兄弟の身に危険の及ぶことを恐れ、曽我祐信(相模国曽我城主)と再婚したので、兄弟も曽我姓を名乗り、やがて兄一萬は成人元服して十郎祐成と改めた。弟筥王は実父の菩堤を弔うべく箱根権現別当の行実僧正の下に預けられ稚児となったが、孝心やみがたく権現の森の奥深く、杉の木を相手に秘かに武術にはげんだ。(五郎が稽古に励んだ杉は兄弟杉と呼ばれている・写真下)

文治三年(1186)正月、源頼朝の箱根権現「二所詣」に従い、参列した仇工藤祐経を眼のあたりにした筥王は、復讐の念に燃え隙を窺ったが果せず却って祐経に諭され、赤木柄の短刀を与えられた。

建久元年(1190)17歳になった筥王は、出家を嫌い無断で箱根山を降り、元服して五郎時致と名乗り、兄十郎祐成と共に仇討を決意した。

建久四年(1193)5月16日、心願成就祈願のため箱根権現に参拝した兄弟は、別当行実僧正から、門出の祝儀に宝刀の微塵丸、薄緑丸を授けられた。折から源頼朝に従って大巻狩中の仇敵工藤祐経を求め富士の裾野へ向った。そして遂に5月28日夜半、工藤祐経を陣屋に襲って倒し、先年与えられた赤木柄の短刀を以って止めを刺し、仇討本懐を遂げた。

この時、兄十郎は戦死し、弟五郎は捕えられた。翌29日、五郎は頼朝の面前で堂々と仇討の真意をのべ、居並ぶ鎌倉武士を感嘆させたが、惜しまれながらも遂に斬首された。時に十郎は22歳、五郎は20歳であった。

播州・赤穂義士の主君仇討と共に兄弟の孝心、忠節は武士の鑑と仰がれて神社に祀られると共に、多くの文芸や物語に語り継がれた。今日尚その誠烈な気風を慕い人々に尊崇されている。

【 居合道全国選抜八段戦箱根大会 

曽我神社の例祭当日には、向いの武道場で居合道最高位「範士」の称号を持つ八~九段剣士が全国から参集し、武士道を打立て孝心の鑑と仰がれる曽我兄弟と、武家の憲法「御成敗式目」起請文の筆頭にその名が挙がる箱根の大神様への奉納試合が行われます。
それが、居合道界至宝の大会「居合道全国選抜八段戦箱根大会」です。

平成5年、曽我兄弟800年大祭を記念してはじまり、第15回を数える本大会は、箱根神社御鎮座1250年の佳年を迎えた本年、特別記念大会として夏祭りに時を移し、8月6日盛大に開催されます。

宝物殿でも兄弟ゆかりの国指定重文財「赤木柄短刀」を始め、「微塵丸」「薄緑丸」の宝剣が特別展示の予定です。

【 神道の名言「御成敗式目」 

  神は人の敬によりて威を増し
人は神の徳によりて運を添ふ
      「御成敗式目」

いかなる神も人間の崇敬をうけてこそ、その御威光を輝かすのであり、御神意を高めるのは人の敬の力である。その人が人としての運、人としての生命を与えられるのは、神の徳によってであるという意味です。神道の立場での神と人との密接な関係が的確に述べられている言葉です。

「御成敗式目」は「貞永式目」とも呼ばれ、北条泰時が貞永元年(1232)に評定衆に命じて編纂させた鎌倉幕府の基本法典です。全部で五十一箇条からなっていますが、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と定められ、続いて首題の名言があります。

当神社は、鎌倉時代、源頼朝による特別の信仰と保護の下、鶴岡八幡宮に次ぐ幕府の準祭祀として、将軍家新年恒例行事の「二所詣」、即ち将軍自ら伊豆・箱根二所権現の参詣に預かりました。

また、この武家の憲法ともいうべき、「御成敗式目」の起請文(神仏に捧げる願文)には

梵天帝釈・四大天王、惣日本國中六十余州大小神祇、
別而伊豆箱根両所権現・三島大明神・八幡大菩薩・
天満大自在大神・部類眷属・神罰冥罰各可罷也、
仍起請文如件。

とあり、願いを捧げる神仏の筆頭にあげられています。

関東総鎮守・箱根神社は、幕府の所願所として、永く武門の崇敬をあつめてきました。

武道場

正参道の長い石段を登り切って第五鳥居をくぐると、

視界が広がり目前には御社殿

箱根神社

御祭神
瓊瓊杵尊
木花咲耶姫命
彦火火出見尊

箱根神社は、古来、関東総鎮守箱根大権現と尊崇されてきた名社で、交通安全・心願成就・開運厄除に御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
 当社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。
平安朝初期に箱根路が開通しますと、往来の旅人は当神社に道中安全を祈りました。
鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、二所詣(当神社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えました。
近世、官道としての東海道が整備され箱根宿や関所が設けられますと、東西交通の要(交通安全祈願所)として当神社の崇敬は益々盛んになり、庶民信仰の聖地へと変貌しました。
こうして天下の険、箱根山を駕籠で往来する時代から、やがて自動車に変わる近代日本へと移行しますが、その明治の初年には神仏分離により、関東総鎮守箱根大権現は、箱根神社と改称されました。
爾来、明治6年明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、大正・昭和の現代に至るまで各皇族方の参拝は相次いで行われました。最近では、昭和55年、昭和天皇・皇后両陛下の御参拝につづいて翌56年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。また、民間も政財界人の参拝や年間2千万人を越える内外の観光客を迎えて、御社頭は益々殷賑を加えているの箱根大神の御神威によるものであります。

【 神道の名言「御成敗式目」 

  神は人の敬によりて威を増し
人は神の徳によりて運を添ふ
      「御成敗式目」

いかなる神も人間の崇敬をうけてこそ、その御威光を輝かすのであり、御神意を高めるのは人の敬の力である。その人が人としての運、人としての生命を与えられるのは、神の徳によってであるという意味です。神道の立場での神と人との密接な関係が的確に述べられている言葉です。

「御成敗式目」は「貞永式目」とも呼ばれ、北条泰時が貞永元年(1232)に評定衆に命じて編纂させた鎌倉幕府の基本法典です。全部で五十一箇条からなっていますが、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と定められ、続いて首題の名言があります。

当神社は、鎌倉時代、源頼朝による特別の信仰と保護の下、鶴岡八幡宮に次ぐ幕府の準祭祀として、将軍家新年恒例行事の「二所詣」、即ち将軍自ら伊豆・箱根二所権現の参詣に預かりました。

また、この武家の憲法ともいうべき、「御成敗式目」の起請文(神仏に捧げる願文)には

梵天帝釈・四大天王、惣日本國中六十余州大小神祇、
別而伊豆箱根両所権現・三島大明神・八幡大菩薩・
天満大自在大神・部類眷属・神罰冥罰各可罷也、
仍起請文如件。

とあり、願いを捧げる神仏の筆頭にあげられています。

関東総鎮守・箱根神社は、幕府の所願所として、永く武門の崇敬をあつめてきました。

権現造りの御社殿

拝殿から下がって幣殿、そして御本殿と一体となった造りです

攝社   駒形神社

御祭神  高皇産霊尊
神皇産霊尊

櫛御毛奴尊

豊玉比賣命

鵜葺草葺不合尊

天照皇大神

攝社   高根神社

御祭神  天児屋根命
天太玉命
天宇受賣命

大山祇命

乙橘姫命

譽田別命

稲倉魂大神

菅原道真朝臣命

由  緒

御本社箱根神社は、悠久の昔から神山駒岳を主軸とする古代山岳信仰の霊場おして崇敬されていましたが、奈良朝の末、天平宝字元年(757)万巻上人がこの地に社殿を営み箱根権現と敬仰し、その別当寺・金剛王院東福寺も建立しました。

爾来、儒教とりわけ修験道と習合して栄え、霊峰駒岳の駒形権現を始め堂島の弁財天、神宮山の離宮権現、八丁坂の山神社、吾妻山の吾妻社や境内の一之社護王神、二之社神等が勧請されました。このほかにも神明宮や八幡宮、春日社や稲荷社、天神社等が御祭神に佛名を冠して各所に奉斎され、また芦ノ湖には、豊玉姫、玉依姫、白和龍王、九頭龍王等の神々が御本社の東西南北に鎮祭されていました。

近世に至るまで佛教色の濃い当神社は、明治維新の神佛分離(明治元年・1868)により、権現号を廃して箱根神社と改稱されましてが、この時、各地におまつりされていた諸社は統廃合され、その寄宮として当地に合祀奉斎されました。これが現在の駒形・高根の両社と尊崇される摂末社です。

従って両社共御祭神が多岐に亘るのはこのためで、御神座も駒形神社の左端第一座が駒形社の高皇産霊・神皇産霊神。第二座が神明宮の天照大神、以下の諸社が一座毎に奉祀されています。
尚、高根神社の右端第五座は、学問の神と信仰される天満宮で、菅原道真公をおまつりしてあります。

攝末社 せつまっしゃ    

攝社 せっしゃ  と 末社 まっしゃ  を総称したもので、本社と深い由縁をもって 奉斎 ほうさい  された神社をいいます。
攝社には末社よりも深い由縁を持つ御祭神がお祀りされています。

龍神水

九頭龍神甘露の霊水
箱根神社の龍神水
境内より湧き出る霊水は
箱根大神が鎮まる箱根山を水源とし、
権現御手洗の池と称されています。
九頭龍神が御守護される芦ノ湖を湧き満たす
龍神甘露の霊水です。
手の平にうけ、口を漱げば一切の不浄を洗い清め
家の神だなに供えて用いれば
家内清浄という縁起があります。

九頭龍神社 新宮

九頭龍神社 新宮

鎮座地 箱根神社境内

御祭神 九頭龍大神

月次祭 毎月15日

湖水祭 7 月31日

由 緒

当神社は、龍神湖水の祭に因んで建立された新宮であります。芦ノ湖の湖心近く御鎮座されている本宮より、御分霊を奉遷し、鎮祭されました。この地は、古くから湖水祭・庭上の儀が執り行われてきた祭場でありますが、これを継承発展するとともに、お詣りしやすいようにと願い、平成庚辰の年に建立されたものであります。この湖水祭は、奈良時代の天平宝字元年(七五七年)、萬巻上人が湖に棲む『九頭の毒龍』を調伏し、湖の主・龍神として鎮斎されたのに始まります。爾来、連綿として龍神湖水の祭が継承され、執り行われていますが、これは、箱根神社創建の由来を物語る大切な祭典(八月一日の例祭)の宵宮祭として行われております。祭典は、まず神前に御供 ごく(三升三合三勺の赤飯)と神酒を献じて祝詞を奏し、神楽を舞い、祈願をこめたのち、御供を唐櫃に納めて捧持し、行列を整えて湖畔へと向います。岸辺で小舟にのりかえ、御供船、楽船、お伴船の順で進発しますが、しかし箱根神社湖上の大鳥居前から先は、宮司が唯一人ゆく御供船のみが湖心に漕ぎ出してゆき、神秘の神事(御供の献納)を行う一社伝来の特殊神事であります。

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