橘寺(二面石)・奈良県高市郡明日香村橘




橘寺(二面石)・奈良県高市郡明日香村橘

明日香村橘の「橘寺(たちばなでら)」へ

正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と呼ばれる天台宗の寺院です。

現在橘寺のあるところは、

寺院建立以前は欽明天皇とその子、用明天皇の離宮「橘の宮」があった場所といわれており、

用明天皇の子、聖徳太子は敏達天皇元年(572年)にここで誕生したと伝えられています

推古天皇14年(606年)に、

天皇の命により聖徳太子はこの地で勝鬘経を三日間にわたり講義したところ、

庭に蓮の華が降り積もり、太子の冠からは光が輝いたという。

天皇は驚きこの地に寺を建てるように命じ、御殿を改造して寺を建立、

橘樹寺(たちばなのきてら)「通称 橘寺」と命名したと伝えられています。

橘寺は「聖徳太子建立七ヶ大寺」の一つに数えられ、

「四天王寺・法隆寺・中宮寺(中宮尼寺)・橘寺・蜂岡寺(広隆寺)・

池後寺(法起寺)・葛城寺(葛城尼寺)」

東西870m・南北650mの敷地には、金堂・講堂・五重塔など

66の堂宇が立ち並び、四天王寺式の伽藍を構える大寺院でした。

しかし、1148年には落雷で五重塔が焼失(60年後に再建)、

1506年には多武峰の僧兵の焼き討ちにあうなどして次第に衰退して行きました。

現在の堂は、1864年に再建されたものです。

橘寺(たちばなでら)

発掘調査によって、伽藍は四天王寺式伽藍配置であるが、当時の寺院は、南向きのものが多い中、この寺院はめずらしく東向きで、中門、塔、金堂、講堂が一直線に東から西へ並んでいたことが確認された。
中でも、塔心礎の柱穴は、心柱の三方に流木を当てる特殊な形式で法隆寺若草伽藍の心礎と似ている。
寺院の創建年代は定かではないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの寺で、勝鬘経を講ぜられたとき、瑞祥があって、それによって仏堂を建立したとある。
太子建立の七ヶ寺の一つと伝えられている。
発掘調査で出土した瓦の文様から、7世紀前半には小規模な堂(金堂?)が建てられ、7世紀後半には大規模な整備がなされたことがわかる。  明日香村

境内へは「東門」「西門」があります。

駐車場は西門側にあるため、多くの参拝者や観光客は西門から入りことが多いですが

正門は「東門」になります。

西門

橘寺(たちばなでら)

住所 〒634-0142 高市郡明日香村橘532

TEL  0744-54-2026

時間 09:00~17:00(受付 16:30まで)

ホーページ

https://tachibanadera-asuka.jimdo.com

拝観料

大人・大学生…350円
高校生・中学生…300円
小学生…150円

アクセス

JR「天王寺駅」から近鉄南大阪線「橿原神宮前駅」もしくは近鉄吉野線「飛鳥駅」~奈良交通バス赤かめバス「岡橋本」もしくは「川原」~徒歩3分

境内

橘寺(たちばなでら)

橘寺は、奈良県高市郡明日香村橘にある天台宗の寺院。山号は仏頭山。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。新西国三十三箇所第10番札所。

橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、当寺は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。

考古学的には、当寺出土の古瓦のうち、創建瓦とみられる複弁蓮華文軒丸瓦は7世紀第I四半期に位置付けられ、当寺の創建はこの頃とみられる。ただし、この時期の瓦の出土は少なく、本格的な造営が行われたのは7世紀半ば以降とみられる。橘寺の北側には官寺の川原寺が位置するが、橘寺出土瓦に川原寺創建瓦との同笵品がみられること、川原寺の伽藍中軸線が橘寺北門の中軸線と一致することなどから、僧寺(男僧の寺)である川原寺に対する尼寺として橘寺が建立されたとする説もある(前述の『書紀』の「尼房」という記載から、当時の橘寺は尼寺であったことがわかる)。

発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。発掘調査により、講堂跡の手前に石列が検出されたことから、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた(講堂は回廊外に所在した)可能性があり、その場合は山田寺式伽藍配置となる。ただし、検出された石列の長さが短いことと、石列と講堂跡とが接近していることから、講堂の手前を回廊が通っていたか否かは明確でない。

8世紀には66もの堂宇が並び立ち、皇族・貴族の庇護を受けて栄えた橘寺であったが、平安時代後期の久安4年(1148年)に五重塔が雷で焼失する。しかし、文治年間(1185年 – 1189年)には三重塔として再建される。

室町時代後期の永正3年(1506年)、室町幕府管領細川政元の家臣赤沢朝経による多武峰妙楽寺(現・談山神社)攻めの際に橘寺の僧が赤沢軍に与したため、多武峰の衆徒によって全山焼き討ちされ、以降衰退していった。

それでも聖徳太子ゆかりの寺としての寺基は保ち続け、元治元年(1864年)には本堂として太子堂が再建された。

聖徳太子の愛馬 黒駒

橘寺の本堂前に建つ聖徳太子の愛馬「黒駒の銅像」

聖徳太子は黒駒にまたがり各地に説法へ出かけたとされており、

太子信仰ではこの馬は空を駆け、達磨大師の化身とも伝える。

本堂(太子殿)

橘寺の本堂(太子殿)

この位置には創建時講堂があったとされる。

現本堂は寺伝によると江戸時代末期元治元年(1864)に再建されたもので、

御本尊は室町時代に作られた「聖徳太子勝鬘経講讃像(重文)」

聖徳太子の35歳の時の姿とのことです。

経堂

橘寺の本堂に向かって左手に建つ「経堂」御本尊は阿弥陀如来像です。

通常は観音堂の前に居られる賓頭盧尊者像。

自分の体の悪い部分と同じところをさすると治してくれると伝わります。

観音堂(修復工事中)

寺伝によると観音堂は安永6年(1777年)に本堂として建立されました。

御本尊は「六臂如意輪観音像(重文)」

しかし、元治元年(1864年)に現在の本堂が新築されることに伴って

現在地に移築されたといいます。

鐘楼

東門のすぐ近くにある「鐘楼」

隣には「五重の塔跡」があり、飛鳥時代にはここに約40mの五重塔が建っていました。

東門

東に面して建てられた橘寺、この東門が正門となります。

往生院と聖倉殿(収蔵庫)

聖倉殿(収蔵庫)内部は定期的に公開されています。

貞観時代(平安時代前期)作「日羅立像(重文)」

藤原時代(平安時代後期)作「地蔵菩薩立像(重文)」

土佐光信の筆と伝わる「絹本聖徳太子八幅絵伝(重文)」等が収蔵されています。

往生院の天井画

往生院の華やかな天井画

著名な画家の方たちから奉納された260点の花の絵が飾られています。

三光石と阿字池

境内にある「三光石」

聖徳太子が勝鬘経を読んだ際、その冠から日・月・星の光を放つなど

不思議な出来事が起こったそうです。

驚いた推古天皇がこの地にお寺の建立を命じたと伝えられています。

また三光石の隣には、聖徳太子が作ったと伝わる「阿字池」が遺されています

「本堂」の南側には善悪二つの顔が背中合わせになった

飛鳥時代の石造物「二面石」がありあます。

二面石

「右善面」「左悪面」といい、人の心の善悪二相を現しているとされる。

明日香村には、他にもたくさんの飛鳥時代の石造物が遺されていますが、

他の飛鳥石造物同様にこの石像が何故造られたのか本来の意味は解っていません。

左悪面

右善面

御朱印

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