高松塚古墳・奈良県高市郡明日香村




高松塚古墳・奈良県高市郡明日香村

奈良県高市郡明日香村平田にある7世紀末から8世紀初めの壁画古墳「高松塚古墳

直径18m、高さ5mと小さく、代表的な古墳時代終末期の円墳です。

昭和47(1972)年3月、石室内に彩色壁画(国宝)が発見され、

戦後最大の発見として大きな注目を集めました。

石槨内部には古代中国道教の影響を受け、

東壁には青龍と日像、西壁には白虎と月像、北壁には玄武、東西の両脇には人物像、

天井には星宿図が描かれています。

被葬者は7~8世紀の皇子とみられる長身の男性とされるが、詳細は分かっていません。

古墳内部は保存上密閉されているため見学はできませんが、

隣接する高松塚壁画館では、極彩色の壁画の模写や復元模型が見られます。

周辺は国営飛鳥歴史公園として整備されています。

国営飛鳥歴史公園とは、祝戸地区、石舞台地区、甘樫丘地区、高松塚周辺地区、

キトラ古墳周辺地区の5つの地区を指し、

飛鳥の豊かな自然や文化的遺産の保護とその活用を求めて整備されたのだそうです。

高松塚古墳

高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。藤原京期(694年- 710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。

墳丘は2009年に築造当初の形状に仮整備され、一般に公開されている。一方、壁画が描かれた石室は、2007年に歴史公園内の修理施設に移され、2020年3月に保存修理が完了した。今後は古墳外に新設される施設で管理される予定である

発掘調査

高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっかけは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村が資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。発掘は明日香村が事業主体となり、橿原考古学研究所が実際の発掘を担当した。当時、明日香村では村の発足15周年を期に村史を編纂するため、未調査の遺跡の発掘を進めており、高松塚の発掘もその一環であった。奈良県立橿原考古学研究所所長の末永雅雄の指揮のもと、現場での発掘は伊達宗泰と関西大学助教授の網干善教を中心とした関西大学と龍谷大学の研究者・学生グループによって行われた。石室が検出され、鮮やかに彩色された壁画が発見されたのは同年3月21日のことである。古墳は1973年4月23日、特別史跡に、また極彩色壁画は、1974年4月17日に国宝に指定されている。

古墳は鎌倉時代頃に盗掘を受けており、石室の南壁には盗掘孔が開けられていたが、壁画の彩色は鮮やかに残り、盗掘をまぬがれた副葬品の一部もこの時検出された。極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見としてトップニュースとなり、文化庁はさっそく壁画の保存対策および研究調査にとりかかった。壁画発見からほどなく高松塚古墳応急保存対策調査会が設置され、発見から1か月も経たない1972年4月6日と4月17日に初の学術調査が実施された。また、応急保存対策調査会とは別に、考古学、美術史、保存科学などの専門家から構成される高松塚古墳総合学術調査会が設置され、1972年10月に同調査会による学術調査が実施された。

なお、高松塚古墳の埋葬施設は考古学的分類では「横口式石槨」(よこぐちしきせっかく)と呼ばれるものであるが、本項ではより一般的な「石室」の語を用いる。

古墳の年代は、盗掘を免れて残っていた銅鏡などから7世紀末から8世紀初めの終末期と推定されていたが、2005年の発掘調査により、藤原京期694年 – 710年の間だと確定された

被葬者

被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である。被葬者論に関しては、大きく3つに分類できる。

天武天皇の皇子説
忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説。

  • 忍壁皇子説を唱える代表的な人物は、直木孝次郎(大阪市立大学名誉教授)、猪熊兼勝(現京都橘大学名誉教授)、王仲珠(中国社会科学院考古研究所研究員)ら。根拠は46、7歳で死亡したと見られる忍壁皇子が出土人骨の推定年齢に近いこと、副葬品、人物像の服装など。
  • 高市皇子説を唱える代表的な人物は、原田大六(考古学者)、河上邦彦(奈良県立橿原考古学研究所副所長、現神戸女子大学教授)、豊田有恒(作家)ら。
  • 弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(現橿原考古学研究所所長、滋賀県立大学名誉教授)、梅原猛(哲学者)ら。
しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。
臣下説
岡本健一(京都学園大学教授)、白石太一郎(奈良大学教授)らは石上麻呂説を主張する。この説となると高松塚古墳は奈良時代の年代となる。
朝鮮半島系王族説
  • 百済王禅光と主張するのは千田稔(国際日本文化研究センター教授)。
  • 堀田啓一(高野山大学教授)は高句麗の王族クラスが被葬者であると主張している。

石室・壁画

石室は凝灰岩の切石を組み立てたもので、南側に墓道があり、南北方向に長い平面をもっている。石室の寸法は南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cm(いずれも内法寸法)であり、大人2人がかがんでやっと入れる程度の狭小な空間である。横口式石槨と呼ばれる系統に入り、平らな底石の上に板石を組み合わせて造ってある。横口式石槨の系譜には、鬼の俎板(まないた)・厠(かわや)、斉明陵と推測されている牽牛子塚古墳、野口王墓(天武・持統陵)、キトラ古墳などが入り、7世紀前半の中頃から8世紀初頭まで続いている。

壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。

奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。

壁画について、発掘当初から、高句麗古墳群(世界遺産)と比較する研究がなされている。四神はそもそも高句麗様式の古墳に特徴的なモチーフであるが、高松塚古墳およびキトラ古墳では高句麗の画風とは異なった日本独自の画風で四神図が描かれていることが指摘されている一方で、天空図に関しては、高句麗から伝来した原図を用いた可能性が指摘されている。また、女子群像の服装は、高句麗古墳の愁撫塚や舞踊塚の壁画の婦人像の服装と相似することが指摘されている

石室に安置されていた棺は、わずかに残存していた残片から、漆塗り木棺であったことがわかった。石室は鎌倉時代頃に盗掘にあっていたが、副葬品や棺の一部が残っていた。出土品は漆塗り木棺の残片のほか、棺に使われていた金具類、銅釘、副葬品の大刀金具、海獣葡萄鏡、玉類(ガラス製、琥珀製)などがある。中でも隋唐鏡の様式をもつ海獣葡萄鏡と、棺の装飾に使われていた金銅製透飾金具がよく知られる。 Wikipedia

特別史跡 高松塚古墳

特別史跡指定:昭和48年4月23日

史跡指定:昭和47年6月17日

高松塚古墳は7世紀末から8世紀の初め頃に造られた古墳です。 昭和47年の発掘調査で日本で初めて、石室内に描かれた壁画が発見されました。墳丘の内部には、16枚の凝灰岩の切石を箱形に組んだ石室(内部の奥行き265.5cm,幅103.4cm,高さ113.5cm)があり、その内面に塗られた漆喰を下地として、壁に色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武、日、月像、天井に星宿が描かれていました。こうした壁画古墳は、日本ではこの高松塚古墳とキトラ古墳しか知られていません。石室は中世に盗掘されていましたが、大刀の飾金具や銅鏡、ガラス玉などの副葬品の一部と、漆塗り木棺の破片などが出土しています。壁画の発見後、石室南側に保存修理のための施設を建設し保存対策を行いましたが、壁画の劣化を止められず、平成17年に、石室ごと取り出して修理することを決定しました。

平成19年に石室を墳丘から取り出し、約500m離れた仮設修理施設で修理作業を進めています。現在の高松塚古墳は、発掘調査の成果などをもとに、築造当時の姿(下段部直径23m、上段部直径18mの2段築成の円墳)に復元したものです。

高松塚古墳

壁画
高松塚古墳壁画は昭和47年3月、橿原考古学研究所の調査により発見された。その後壁画は国宝に指定され、保存上一切公開されなかったので、古墳の隣接地に壁画館を建設し、石槨(せっかく)内部の模型と壁画の忠実な模写・模造を展示することになったものである。古代史解明の貴重な文化財として海外からも広く注目を浴びている壁画を、あらゆる角度から鮮かに再現された。

彩色壁画発見まで…
高松塚古墳は飛鳥地方の西南部に位置し、この一帯は桧隈(ひのくま)と呼ばれている。渡来人が特に居住したといわれ、周辺には天武・持統、欽明、文武の各皇陵や中尾山古墳、岩屋山古墳などが築かれている。江戸時代の頃、高松塚は文武天皇陵ではないかと伝承されていた記録も多くみられる。
地元の人が墳丘の南斜面で作物貯蔵用の穴を掘ったところ凝(ぎょう)灰岩(かいがん)の切石を発見、これがきっかけとなって昭和47年3月から調査が行なわれ壁画発見となった。

四神の図と日像・月像
四神は中国の思想に基くもので古来天子の象徴として用いられ、四方を鎮(ちん)護(ご)し東西南北の方位を表している。青(せい)龍(りゅう)(東)朱(す)雀(ざく)(南)白(びゃっ)虎(こ)(西)玄(げん)武(ぶ)(北・亀と蛇)は星座の形から具象化されたものである。青龍・白虎の上部にそれぞれ日像・月像が描かれており、天井の星宿とともに被(ひ)葬者(そうしゃ)の尊貴性を物語っていると思われる。

人物群像
男子4人、女子4人各1組の群像が、東西両壁に2組ずつ(計16人)描かれている。男子群像のいずれもが蓋(きぬがさ)、柳(やなぎ)筥(ばこ)、床(しょう)凡(ぎ)、鉾(ほこ)のようなものを持っているのに対し、女子群像は2人ずつが東壁では団扇(だんせん)、払(ほっ)子(す)を、西壁では翳(さしば)、如(にょ)意(い)を持っているのが特色である。どの像も優れた筆(ひっ)致(ち)で実に細かく描かれ、我が国美術、絵画史上優れた作品と評価されている。

副葬品
発掘時、石槨(せっかく)内から出土したものは海(かい)獣(じゅう)葡(ぶ)萄(どう)鏡(きょう)、銀荘唐様(ぎんそうからよう)大刀(たち)の外装具、ガラス、コハク製の玉類のほか、棺を飾っていた金銅製透飾(すかしかざり)金具、円形飾金具、銅製角釘(かどくぎ)などである。

天井部の星(せい)宿(しゅく)図
天井石の中央、約1m四方の範囲に描かれた。直径9mmほどの金箔(きんぱく)を円形にはりつけ朱線で結び、星座を表現したものである。東西南北7宿ずつ計28宿を描いている。

1972年、発掘調査によって美しい壁画がみいだされ、有名になった古墳である。明日香村平田にある。径約20mにすぎないが、粘土と砂を交互に一層ずつつきかためて築くなど飛鳥の古墳に特有の、特殊な構造を備えた終末期の古墳の一つである。造られた年代は7世紀末から8世紀初めと考えられている。石室の天井には星宿(星座)、周囲の壁には日・月、四神と従者を配し、死者が永遠の眠りにつく小宇宙を形成しており、中国思想に基づいて貴人の墓にふさわしく飾っている。
高松塚古墳応急保存対策調査会では、早急に、石室内の三方の壁と天井に描かれた壁画の調査をおこなった。壁画は、男・女の人物群像、四神、日、月、星宿である。男・女の群像は、それぞれ4人一組で、東西の壁に、男子像が南寄りに、女子像が北寄りに描かれている。四神は、南壁を除く各壁の中央部に描かれている。日輪は東壁の青龍、月輪は西壁の白虎の上にそれぞれ描かれ、星宿は天井の中央部にちりばめられる。扉石の内側には、朱雀が予想されるが、漆喰が剥離しており、わからなかった。人物像の足の位置は、龍・虎の脚先とほぼ一線をなし、人物像の高さは、およそ40cmである。
壁画は、長い年月や盗掘によって、傷つけられていた。例えば壁の漆喰に亀裂を生ずるほか、西壁上部などでは、これが原因となって漆喰が剥落している。また、天井と側壁の接合部分の一部から鉄分を含んだ水が滲みでたため、そこから下辺にかけて、赤褐色に汚れている。このため、東西両壁の男子群像と青龍の一部が、著しく不鮮明になっている。盗掘穴から流れ込んだ土砂によって埋もれた個所の漆喰は、汚れ、剥落している。また、顔料の剥落が著しい個所は、東壁女子群像の頭部と腹部、西壁男子群像の一部、青龍の尾の周辺、日輪の下辺などにみられる。このほか、玄武には、意識的に掻き落としたとみられる側壁材にまで達する打痕があり、日輪、月輪の中心部にも、金箔や銀箔を意識的に掻き取った形跡が認められる。

飛鳥美人

国宝「高松塚古墳壁画」は円墳内の石室(高さ113cm・幅103cm・奥行き265cm)の

内部に描かれた壁画で国宝では「絵画」として指定されています。

この壁画には、東南アジアなどが原産のカイガラムシから採れる

臙脂(えんじ)が使われている可能性があることがわかっています。

鎌倉時代頃に盗掘にあっており、副葬品などはほぼ残っていないため

現在、誰の墓であったかもわかってはいません。

南側に入り口があり、東・西・北・天井の4面に漆喰を塗った上に絵が描かれています。

東壁(右)手前から、男子群像、青龍の上に太陽、女子群像

西壁(左)手前から、男子群像、白虎の上に月、女子群像

北壁(奥)玄武

天井(上)星辰(星座図)

*入り口である南側にも朱雀が描かれていたと想像される

男子群像・女子群像ともに4名ずつ、合計16名の人物が描かれており、

壁画に書かれた緑の傘は、一位以上の官位にゆるされた者であることなどから、

当時の上流階級と思われる風俗をしています。

とくに西側の女子群像は保存状態も良く通称「飛鳥美人」と呼ばれ認知度も高いです。

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