高野山真言宗「霊山寺」四国八十八箇所 第一番札所・徳島県鳴門市大麻町




高野山真言宗「霊山寺」四国八十八箇所 第一番札所・徳島県鳴門市大麻町

霊山寺 大師堂

徳島県鳴門市大麻町にある「霊山寺

四国八十八ヶ所霊場 第1番札所、つまりはお遍路をはじめる「発願の寺

地元、徳島では「一番さん」と呼ばれて親しまれている寺院です。

正式名称は第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺といいます。

室町時代には、大寺院として栄えた古刹で、

奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開山。

空海がここで21日間修行をした際に、四国八十八ヶ所霊場を開くことを祈願し、

霊山寺を第1番札所と定めました。

のちに、釈迦如来を刻み本尊として堂宇を建立。

霊山寺 仁王門

第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)

宗派 高野山真言宗

本尊 釈迦如来

開基 行基菩薩

創建 天平年間(729〜749)

真言 のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

住所 〒779-0230 徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126

電話 088-689-1111

駐車場 普通100台・バス10〜20台・無料

霊山寺の歴史・由来

四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。

このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である。往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。しかし天正10年(1582)、長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。その後、阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891)には出火により本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。別格本山。地の利を生かした寺観の配置は妙で美しく、お遍路さんに彩りを添えている。

放生池と仁王門

風格ある仁王門をくぐって境内に入ると、まず見えてくるのが「放生池(ほうじょうち)」

錦鯉が優雅に泳ぎ、その上には情緒ある石橋が架かっています。

仏教には捕えた魚や獣を池や野に放つことで殺生を戒め、

万物の生命を慈しむ「放生会(ほうじょうえ)」という儀式があります。

放生会で魚などを放つ池のことを「放生池」といいます。

仁王門に向かって右手には、弘法大師を祀っている大師堂、

奥には釈迦如来を祀っている本堂があります。

霊山寺 大師堂

霊山寺 由緒

寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ、21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け、持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年(平成26年)に4か月間開帳された
室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つとして栄えたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが1891年(明治24年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻し第1番札所としてふさわしい景観になっている
初めての遍路の者には、読経内容を記した巡拝ガイド本を頂ける優しいお寺である。

Wikipedia霊山寺(鳴門市)より)

寺号は、天竺(インド)の霊山を四国に移すという意味で、

「竺和山(じくわさん)」という山号になったそうです。

天正10年(1582年)、土佐を拠点として四国統一を目指した

長宗我部元親阿波侵攻兵火のため多くの堂塔を焼失。

その後、万治年間(1658年〜1660年)に再建されますが、

明治24年に通夜堂からの出火で、再び本堂と多宝塔を残して焼失してしまいます。

現存する建物はその後再建されたもので、本堂は昭和40年に解体修復されています。

霊山寺 本堂

霊山寺の御本尊は「釈迦如来(しゃかにょらい)」

空海が修業の際に所持していた念持仏で白鳳時代のもので、

14センチくらいの小さな釈迦誕生仏と伝わります。

秘仏ですが、2014年の四国霊場開創1200年記念で御開帳されたといいます。

霊山寺の本堂は昭和39年(1964年)に改築された比較的新しいものです。

本堂の天井に吊り下げられた灯籠は高野山金剛峰寺奥の院のようです。

不動明王と十三仏

本堂の西には十三仏が並んでいます。

「十三仏(じゅうさんぶつ)」とは死者の追善供養のための、

初七日から三十三回忌までの十三回の仏事を守る本尊のことをいいます。

「不動堂」不動明王をあわせて十三仏の仏像が並んでいます。

三鈷松

空海が密教法具の「三鈷杵」を中国から東に向けて投げたことろ

高野山の松の木に引っ掛かっているのが発見し、

この地を布教の拠点としたという、言い伝えの松の木です。

普通の松葉は二本ですが、ここの松も高野山同様に全て三本の松です。

三鈷松(さんこのまつ)

高野山金剛峰寺の金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木があります。
この松の木にこのようなエピソードが残っています。
弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。
後にお大師さまが高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのこと。
早速その松へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっており、お大師さまはこの地こそ密教をひろめるにふさわしい土地であると決心されたそうです。
その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」としてまつられるようになりました。

霊山寺 多宝塔

仁王門の近くには大きな多宝塔があります。

塔の中には大日如来の知恵を表す「五智如来」が祀られています。

中に入ることはできませんが、格子の間から拝顔することはできます。

多宝塔は応永年間(1394年~1428年)の建築で、

数々の戦火や火災にあっている霊山寺の中では、建造当時の貴重な塔です。

霊山寺 方丈・客殿

境内や周辺には白装束のお遍路さんの姿が絶えません。

方丈・客殿や納経所がある東側エリアには巨大な駐車場があり

観光バスが何台も停まっています。

霊山寺 納経所

また、四国八十八ヶ所霊場巡りの出発点である霊山寺の納経所には、

お遍路さん向けの装束や道具をひととおり購入できる売店が併設されています。

四国霊場専用の納経帳、すげ笠や金剛杖、掛け軸、ろうそくや線香など、

必要なものがあればここですべて揃います。

(霊山寺の納経受付時間は 7:00~17:00 までです)

御朱印

霊山寺 御影

四国霊場のお寺で納経をすると、

ご本尊のお姿を描いた御影(おすがた・おみえ)が無料でいただけます。

カラーの御影をいただく場合は別途200円が必要。

大麻比古神社

阿波国一宮「大麻比古(おおあさひこ)神社」は霊山寺の1kmほど北に鎮座します。

古くは大麻比古神社が四国霊場の札所で、霊山寺は別当寺でした。

猿田彦大神が合祀されているので「交通安全の神さま」としても信仰され、

お遍路さんが道中の無事を祈願しにお参りする姿もあります。

徳島県鳴門市大麻町板東広塚に鎮座する阿波国一宮「大麻比古神社」阿波・淡路両国の総産土神として崇められてきた古社です。標高538mの大麻山の南麓、四国八十八ヶ所の第一番に当たる霊山寺の北側1kmに鎮座しています。

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