船明山(242m) 行者山(283.9m) 榑山(194.41m)・船明大池より
浜松市天竜区二俣、周辺の里山 三座「船明山・行者山・榑山」を周回してきました。
船明ダムの東に面する「船明山」には船明古墳群の一つと思われる「寺山古墳」
その隣の「行者山」には、その昔、秋葉山・光明山への両参りの際に、
船明集落から光明山へと至る参道跡がありました。
行者山と展望台との鞍部は行者峠と呼ばれ、山中には仏像や石碑も残っています。
また、船明ダムより南の、天竜川と国道152号線に挟まれた丘陵地帯は、
「天竜市民の森 ハイキングコース」として整備されており、その一角に「榑山」があります。
船明山(ふなぎらやま)
標高 262m | 登山日 2024年1月3日 |
寺山古墳跡 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区船明 |
行者山(ぎょうじゃやま)
標高 283.9m | 登山日 2024年1月3日 |
三等三角点(船明) 行者山展望台 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区船明 |
榑山(くれやま)
標高 194.41m | 登山日 2024年1月3日 |
四等三角点(榑山) 天竜市民の森 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区大谷 |
難易度 ★ オススメ ★ | 登山口(ナビ検索) 天竜市立船明小学校跡 |
スタート地点(11:20)→ゴール地点(13:50) 所要時間 2時間28分 累積標高 594m / 590m 距離 10.5km | |
■ |
船明大池(天竜市立船明小学校跡)
船明ダムと国道152号線の東に「大池(船明 大池)」があります。
ここは「天竜市立船明小学校」の跡地で、現在は公園と公会堂となっています。
佐久間線 跡
東側には幻の鉄道「国鉄 佐久間線」跡
旧船明小学校跡の残る大池の東には、完成することのなかった未成線「佐久間線」
の痕跡が残る不思議な空間が広がります。
「国鉄 佐久間線」は遠江二俣駅(現在の天竜二俣駅)から飯田線・中部天竜駅まで、
約35kmの路線として開通する予定でした。
1967年(昭和42年)に建設を開始、1980年(昭和55年)約13kmの区間で工事が進められ、
路盤が約50%完成したところで、国鉄再建法により工事が凍結し、中止されました。
公会堂や公園がある場所は船明駅の建設予定地だったそうです。
船明トンネル
さらにその先には「船明トンネル」跡も残ります。
佐久間線(船明駅〜相津駅間)未成線区間
船明トンネル
型式 1号型
延長 918M.3
設計 日本鉄道建設公団名古屋支社
施行 大日本土木株式会社
着手 昭和44年10月6日
しゆん功 昭和46年5月31日
曹洞宗 船明山 長養寺
榑山と船明ダム
未成線跡から集落の中を登っていくと「長養寺」
さらに集落の一番上のお宅から山中へ、直ぐの所にある中電巡視路を登ります。
中電の巡視路の急登を一登りすると鉄塔へ
周辺の伐採地からは船明ダムとダム湖を正面に望みます。
鉄塔からはP242へ少し進むと「寺山古墳」案内板が埋まっていました。
この先に2基の古墳跡があります。
横穴式石室
天竜川の対岸には「日明(ひやり)古墳」があります。
山東・二俣地区から、船明、大園地区の古墳を総称して
「船明古墳群」と呼ばれているようです。
日明古墳にあった案内板(下記参照)によると、
この辺りの古墳は七世紀、古墳時代終末期頃の古墳と言うことになります。
さらに少し先にもう一基、ここにも壊れた案内板があります。
日明(ひやり)古墳群 A群一号・二号墳
七世紀に造られた横穴式石室をもつ円墳。石室は露出しているが、破損が軽くて古代の様子を残している。大きさは一号墳が径6.6m、長5m、幅0.9m、二号墳が径7m、長5m、幅0.8mである。 ※B群は、南下の山の中腹・鉄塔周囲に4基確認されている。 ※ 日明古墳は、山東・二俣地区から、船明、大園地区の古墳の総体として理解すべきとされている。首長やその後継者の墓から、次第に家父長的共同体と呼ばれる古代の家族墓であったといえよう。
船明山(242m)
古墳跡から数百メートル進んだ先、242mのピークは「船明山」と呼ばれているそうです。
特に木々に囲まれて展望も無く、山標もありません。
ここからは、かつて「お手引き坂」と呼ばれた秋葉山・光明山の参道を目指し、
道なき道を進みます。
行者山方面へ向かうと、途中から古道らしき道にかわります。
つづら折りの道の所々には、人の手によって並べられたと思われる
塀や石段の参道跡が残っていました。
行者山の辺りは別名「行者峠」とも呼ばれていたそうで、
その分岐手前には何か建てられていたのか、石垣の跡も残っています。
分岐(行者峠)
分岐(行者峠)には石仏や案内板があります。
一体の石仏は風化が激しく、お姿や光背の文字などは読み取れません。
この先、北東方面には光明山があります。
その昔、船明の集落を通り、光明山や秋葉山を目指す参詣の道は
「お手引き坂」と呼ばれていたそうで、この道がその古い参道だったと思われます。
少し上には、さらにもう一体破損した石仏と石碑があります。
石碑には「明和四年 船明村講中 大峯山上行者大菩薩供養 亥七月十七日願主」
の文字が刻まれています。
大峯山上行者大菩薩とは熊野の「大峯山」で修行をし、後に修験道の開祖となった役行者、
別名「神変大菩薩」のことです。
行者山展望台
分岐から道なりに進み、30段程の石段の先には役の行者が納められている石の祠と
寄進者の名が刻まれた石碑、「行者山(標高283.9m)」と書かれた山標があります。
正確にはここは「行者山展望台」といい、
山頂は標高からも、分岐の先にある三角点峰(283.9m)かと思います。
役行者象と石碑
行者山展望台からは天竜川と船明ダム、船明ダム運動公園と榑山(天竜市民の森)
さらにその先に浜松市街、アクトタワーなどが望めます。
行者山(283.9m) 三等三角点(船明)
分岐(行者峠)まで戻り、三角点がある山頂へ。
ここも中電の巡視路を兼ねた道で、歩きやすい道となっていました。
山頂下には以前、鉄塔が建っていたようで基礎跡が残っています。
行者山から尾根沿いに下って来ると、林道光明線に合流。
ここに行者山への案内板があります。
蛭田架道橋
林道を下り、光明小学校の先に「蛭田架道橋」があります。
ここも、佐久間線(山東駅〜船明駅)の未成線区間です。
設 計 日本鉄道建設公団名古屋支社
施 行 住友建設株式会社
設計荷重 KS-14
基 礎 工 基礎ぐり石工
基礎根入 天端から 7M59
着 手 昭和46年8月10日
しゆん功 昭和47年3月16日金属銘板より
国道152号線を渡り光明寺へ
光明寺は、奈良時代(養老元年・717年)に行基により開創されたと伝わる名刹で、
元々光明山(539m)の山頂近くにありましたが、昭和6年(1931年)の火災で焼失し、
現在の場所に移設されました。光明山には「光明山遺跡」として寺院跡が残っています。
参道には「奥之院 是ヨリ五十丁」の石碑が建ちますが、
これは移設の際に移されたものだと思われます。
光明山は秋葉山とともに古代から山岳霊場として知られ、
秋葉の火の神に対して、水の神として信仰を集めていました。
光明山古墳
境内の前には、少し前に国指定史跡に指定された「光明山古墳」があります。
浜松市最大の前方後円墳で、全長約83mで墳丘は2段で築かれており、
後円部の高さは約8.5m。五世紀後半(古墳時代中期)の前方後円墳です。
国指定文化財
光明山古墳
光明山古墳(墳長83m)は、天竜区山東に所在する浜松市内最大の前方後円墳です。平成30年(2018)に浜松市教育委員会が実施した発掘調査によって、墳丘全体を2段に造り、斜面には葺石が敷かれ、墳丘上には埴輪が並べられていたことが判明しました。とくに、後円部北側の調査区では、上段墳丘の葺石が、基底部から墳頂部までの高さ約6.8mにわたり、ほぼ完全な状態で残っていました。このようなことは全国的にも珍しいことです。埋葬施設は未調査ですが、墳丘の形状と埴輪の特徴から、5世紀中頃に築造された古墳と考えられます。
概 要
光明山古墳(墳長83m)は、天竜区山東に所在する浜松市内最大の前方後円墳です。平成30年(2018)に浜松市教育委員会が実施した発掘調査によって、墳丘全体を2段に造り、斜面には葺石が敷かれ、墳丘上には埴輪が並べられていたことが判明しました。とくに、後円部北側の調査区では、上段墳丘の葺石が、基底部から墳頂部までの高さ約6.8mにわたり、ほぼ完全な状態で残っていました(写真)。このようなことは全国的にも珍しいことです。埋葬施設は未調査ですが、墳丘の形状と埴輪の特徴から、5世紀中頃に築造された古墳と考えられます。
特 徴
光明山古墳は内陸性の地理的条件をもつ天竜の地に築かれた唯一の前方後円墳です。その前後に大型古墳が認められず、独立性が高い点にも特徴があります。この特異性を理解する上で、古墳のすぐ脇を通る秋葉街道の存在は無視できません。光明山古墳が立地する天竜の地は、遠江の南部地域や信濃への通行にとどまらず、奥三河や遠江東部にも繋がる交通の要衝です。古墳の立地環境からは、光明山古墳の被葬者には陸上交通網の開拓や掌握が期待されていたと捉えられます。光明山古墳の墳丘形態には近畿地方中枢部と共通する設計原理が見出せ、倭王権との密接な関係がうかがえます。いっぽうで、古墳の段築数は2段であり、円筒埴輪と朝顔形埴輪を限定的に用い、独特の形状をみせる埴輪群を採用していることなど、個性も見いだせます。このように、光明山古墳は内陸部に立地する古墳時代中期中葉の地域首長墳として特徴ある姿を示しており、古墳時代の歴史を知る上で学術的価値が高いことが評価されました。
(浜松市H.Pより)
5世紀中葉に天竜川東岸の丘陵先端に築かれた墳長83mの前方後円墳。墳丘は2段築成で葺石と埴輪を持ち,特に後円部上段には基底部から墳頂まで続く葺石の区画石列が良好に残る。古墳時代中期の古墳築造の在り方の転換を明瞭に示す事例として重要。
光明寺 大黒殿
境内には一本の杉で作られた国内最大級の大黒天像があり、高さは2.3mほどあります。
毎年1月の第3日曜日には、大黒天像の大祭「初甲子祭(はつきのえねさい)」が開かれ、
多くの参拝者でにぎわいます。
この日に光明山の大黒様にお参り後、新しい財布をおろすと
特にご利益がいただけると言われています。
背後の山にある奥之院には、徳川家康公により納められ、
家康公が守り神として兜に入れて出陣した香合摩利支天が祭られています。
大黒天像
光明山 光明寺
創建 養老元年(717年)
宗派 曹洞宗
御本尊 三満虚空蔵菩薩
御仏徳 遠州福の神 開運出世光明大黒真天
住所 静岡県浜松市天竜区山東2873
電話番号 053-925-3547
最寄り駅 天浜線「二俣本町」駅
笹岡城跡
光明寺を後にして浜松市天竜区役所まで、区役所の敷地は二俣城の前身「笹岡城跡」でした。
戦国時代以前にはこの場所には城館があったそうです。
浜松市天竜区役所の北側には「笹岡城跡の案内板」があり、
この先から遊歩道が続いています。
笹岡城跡 案内板
笹岡城跡
笹岡城は現在、天竜区役所の庁舎が建っている一帯に築城されていた城館である。内山真龍の「遠州国風土記伝」には、二俣城の前身として、二俣古城の名で絵図とともにこの城について記されている。
この城は、昭和43年(1968年)に当時の天竜市役所建設に伴い発掘調査が行われ、平安時代から戦国時代にかけての古銭・陶磁器片(山茶椀・輸入陶磁器・染付・漆器・金工品・木製品)などの遺物、土塁、空堀、建物跡、井戸跡などの城関連遺構が発見されている。
この調査の結果から、笹岡城は城館としての機能をもつ城であったが、戦乱の激しくなった戦国時代後半に、防御しやすい二俣城へ城機能が移ったことが知られた。現在の、城景観は大きく失われているが、区役所庁舎北側の山の上および区役所東側に曲輪の一部が残っている。
天竜市民の森
船明ダムより南、天竜川と国道152号線に挟まれた丘陵地帯は、
「天竜市民の森 ハイキングコース」として整備されています。
整備されているものの、認知度は低く、
所々、道が荒れていたり、木道が壊れていたります。
区役所から遊歩道を通り一度林道へ、その先から続くハイキングコースを経て山村広場へ。
一帯には東屋やテーブル・ベンチ、トイレ等があります。
光明寺の裏山にある奥之院からも「天竜市民の森 ハイキングコース」は続いており、
この先の分岐で繋がっています。
榑山(194.41m) 四等三角点(榑山)
一度下り、登り返すと「天竜船明デジタルテレビ中継局」の鉄塔が建つ山村広場へ。
ここには四等三角点(榑山)があります。
その昔、船明は天竜川の上流から流してきた榑木を上げて貯蔵管理する役所のあった所で、
この辺りはその榑木の積み上げ場があり、別に榑山と呼ばれていたそうです。
鉄塔が建つ広場からは、急な階段を下り、船明側のハイキングコース入口へ。
民家の間を通り、船明ダムを横目に天竜川左岸の遊歩道を歩きます。
船明ダムと桜並木
船明ダムとダム湖畔の東側には「船明ダム運動公園」があります。
3月下旬~4月上旬になると、天竜川の左岸一帯に沿ってずらりと並ぶ、
ソメイヨシノなど約250本の桜が一斉に開花します。
船明山と行者山
船明ダム運動公園から船明山と行者山を望みます。
この後、船明 大池まで戻り終了しました。