秋葉街道・鹿島(二俣)〜秋葉坂下




秋葉街道・鹿島(二俣)〜秋葉坂下

梅と秋葉山

前回、秋葉街道「浜松宿~鹿島(天竜二俣)」を歩きましたが、その続きです。

鹿島(天竜二俣)から秋葉坂下までを歩いて来ました。

光明山(こうみょうさん)

標高 540.3m 登山日 2020年7月16日
山頂に光明山遺跡
所在地 静岡県浜松市天竜区佐久

難易度 ★     オススメ  登山口(ナビ検索) 鳥羽山城公園
鳥羽山(08:03)→光明山遺跡(11:45~11:45)→光明山(12:01)→鳥羽山(15:12) 所要時間 6時間11分 累積標高 781m / 714m 距離 22.4m
■光明山遺跡は天竜区北部、気田川の東にある標高539mの山。光明寺が置かれたところで、石段や石垣などの跡が残っている。眺望も美しく、空気が住んだ晴れた日には、天竜川と海まで広がる平野部を一望することができます。

「静岡の百山」は、東部から西部、北部まで静岡県内の山が幅広く選ばれています。 叉、海岸近くの低山から南アルプスの3000mを越える山までバラエティーに富んでいます。 本自体は山名の由来、歴史など生活に密着した山の説明が中心で、登山のガイドブックではありません。 山の知識を深め、より楽しむための本です。

遠州(えんしゅう)地方とは旧令制国の遠江国(とうとおみ)一般的には、大井川から西側の範囲湖西市・浜松市・磐田市・袋井市・森町・掛川市・菊川市・御前崎一部(牧之原市・島田市・川根本町)のことを言います。 遠州灘から浜名湖、南アルプス・深南部まで、バリエーションに富んだ山々が多く魅力に満ちた山域です。

鳥羽山城公園駐車場より、浜松宿からの秋葉街道の続きを歩きます。

今回は鳥羽山城跡から秋葉坂下を目指します。

一旦、明治以前の古道を下り田代家へ。

筏問屋 田代家

田代家は江戸時代に、北鹿嶋村の名主を務めると共に天竜川筏問屋を営んだ旧家です。

徳川家康の遠州経略に協力した功により天竜川筏下しの特権を得ました。

主屋は安政6年(1859)に建築された主屋や土蔵は

2015年に国の登録有形文化財に登録されています。

船頭宿

田代家の隣、鳥羽山洞門の前には「船頭宿」が残っています。

こちらも当時が偲ばれる風情のある建物です。

この建物は部屋10室、明治30年に建てられました。

山で切った材木を運ぶために、天竜川の急流を下った筏師や船頭は、この宿に泊まり、

帰りは自宅まで歩いて帰りました。

浜松市地域遺産に認定されています。

鳥羽山洞門

天竜川を渡り、鳥羽山峠を越えるこの地は、浜松~秋葉坂下間での最大の難所でした。

明治初期までは、先程歩いて来た古道を登り鳥羽山を越していました。

その後、明治18年(1885)には二俣村と鹿島村が共同で

「鳥羽山旧道(切り通し)」を作ります。

しかし、交通の不便が免れないため、明治31年(1898)、「鳥羽山洞門」の掘削に踏み切り、

翌32年(1899)9月に竣工します。

総レンガ造りで、歩道と車一台がぎりぎり通れる道幅があります。

昭和時代に入ると、自動車などの出現に対応できなくなり、

昭和17年(1942)鳥羽山洞門の西側に「新鳥羽山トンネル」が作られます。

道標

旧街道は鳥羽山洞門から、天浜線の踏切を越え、右折して北東へ。

浅井治療院の向かいにある細道に道標があります。

表面は「右 鳳来寺・左 濱まつ」右下に「宿屋連中」

左下に「世話人 大阪屋平兵衛 米山源郎」、裏面は「右秋葉五り・光明 二り」

と刻まれています。

国道を渡り北へ、 昔ながらの面影が残る通りを抜けます

レンガ造りの蔵があるお宅の前を東へ、

クローバー通り商店街に合流します

二俣クローバー通り商店街

浜松市天竜区二俣町(旧天竜市二俣町)は、明治から昭和初期にかけ、

秋葉街道の宿場町として、また天竜川水運の木材や物資の集散地として大いに栄えました。

この辺りには多くの旅籠が建ち並んでいたそうです。

尾張屋旅館

「尾張屋旅館」は創業安政3年(1856年) から続く老舗旅館です。

当主は徳川家康に仕えた大久保氏の末裔と伝わります。

現在の建物は明治後期頃に建てられたもので、材木の町らしく、

様々な木材を各所に使用した建築なのだそうです。

旧 陣屋旅館

かつて「林業の町」として栄えた時代の面影を感じさせる木造三階建ての立派な旅館跡。

建てられたのは昭和初期、元は「福田屋」という割烹旅館でした。

昭和20年代後半に「陣屋」が受け継ぎ、昭和40年代まで営業していましたが、

現在は閉鎖されています。

二俣医院

クローバー通り商店街のほぼ中央に建てられた「二俣医院」は大正5年(1916)の建立。

バルコニーのある和洋折衷な大正モダン建築です。

横町通り

秋葉街道は、クローバー通りから左折し、風情のある「横町通り」へ。

醤油屋や土蔵造りの酒屋など、昔からの商家が軒を連ねます。

マルカワの蔵

「マルカワの蔵」は130年以上前の酒蔵、

現在は古民家ギャラリーとして利用されているそうです。

秋葉街道は車道から区役所前の信号を東へ向かい、国道と合流して山東交差点へ向かいます。

西台寺

山東の交差点から、国道362号を春野方面へ。

右折して直ぐの所にある曹洞宗 西台寺です。

道標銘 (双体道祖神)

西台寺の薬師堂の前には、双体道祖神(供養仏)の道標銘があります。

道標銘とは、石仏・石塔類に、道案内の銘文を刻んだ石造物のこと。

かつては、追分の三叉路に建っていました。

既に読むことは出来ませんが、

「従是右 加うみやうあきはみち・左 志なの せん加う しみち」

「于今貞享四(1687)丁卵年七月吉日」と彫られていたそうです。

二俣川沿いに続く秋葉街道

春には桜が綺麗な通りなのですが、 何と、桜並木が切られてしまっています。

交差点には幻の鉄道「国鉄 佐久間線(未成線)」 二俣川を渡る橋梁跡が残っていますが、

この撤去作業と国道を覆うほどに枝を広げていたことが原因のようです。

山東尋常小学校跡

旧道は一旦、住宅横の細い道から「勤労青少年ホーム」の角を右折し、再び国道に戻ります。

その先の左側にある光明幼稚園の前には、

本田宗一郎の出身校である「山東尋常小学校の門跡」が残っています。

道標

コンビニの先、中道橋のたもとには「右 光明山 秋葉山道」と刻まれた道標があります。

建立年度は不明ですが、昭和6年の光明寺火災以前のものと思われます。

この先、秋葉街道は国道を離れて、中道橋の先に続きます。

馬頭観音

中道橋から先、昔からの面影を残す道の片隅に馬頭観音石碑があります。

「馬頭観音等?文政十三年(1830) 十一月日」と刻まれているそうですが、

風化が激しく読めません。 文字だけの石碑は、馬の供養のための物といわれます。

二俣川

中道集落から先、二俣川に突き当たります。

二俣川は昔から幾重にも蛇行した川で、こうした箇所には板橋が掛けられていたそうです。

「ばしょう橋」を渡り羽生集落へ、正面にはスズキ自動車の工場があります。

古道は敷地内を通るので、迂回路の河川敷を進みます。

この先も迂回路を直進するつもりでしたが通行止めです。

昨年の大雨の補修工事だそうです。

旧 秋葉街道は、ちょうどこの辺りに掛かっていた板橋を渡り対岸に移っているので、

仕方なく渡渉します。

五森橋

橋の手前までは、昔のままの道が残っています。

この辺りに常夜灯があるとのことで探しましたが見つかりません。

道標(庚申塔)

五森橋の北側には、新しい地蔵菩薩像と2基の庚申塔があります。

青面金剛なのでしょうが、一基はほぼ破損しています。

どちらにも「秋葉山」「光明山」の刻銘があったといいます。

観音像(道標銘)

五森橋から麓橋の間は、明治に新道が作られるまでは、

北側の山沿いを通る旧道がありました。

その旧道を辿り、二俣川沿いに進むと林の中に観音像が祀られています。

光背には「右光明山、秋葉山」の刻銘があります。

山の神

古道を探してしばらく迷ってしまいました。

よく見ると、観音像近くの川沿いに「山の神」が祀られています。

付近の人には「山の講」と呼ばれていた祠で、

以前は2月7日と11月7日に、山持ちの人が皆でお参りをしていたそうです。

山の神からは細い道が残っていましたが、途中完全に崩落しています。

ここも昨年の大雨で崩れてしまったそうで、工事のために重機が入っています。

麓橋近くの民家の方にお話しを伺うことが出来ました。

二俣川は昭和49年(1947) の七夕豪雨 以前は川幅はかなり狭かったのだそうです。

また、昔は「四十八瀬川」と呼ばれていて、それぞれ淵には呼び名がついていたそうです。

精進淵(登山口)

「秋葉山参詣道法図」では、

「二俣〜庄司フチ 此間四十八瀬ト云 十三セワタリ川 冬ハ細キハシアリ」と記されています。

お話しにもあった通り「四十八瀬川」と呼ばれていた二俣川。

旧登山口の前にある淵は「精進淵」と呼ばれています。

光明山への参詣人者はここで禊を行ったので、この名がついたのだそうです。

旧登山口の前には茶屋があったといいます。

旧 登山口

旧 登山口はここを通っていました。

この先、秋葉街道は光明山へ至る、50町の登山道となります。

よみがえれ秋葉街道」さんのH.Pによると、

この道は「麓橋古道」と紹介されています。

光明山へ登った後は「長沢古道」を使い下山します。

鳥居跡

旧 登山口の左右には鳥居跡と思われる石組みの台座が残っています。

観音像を祀るお堂は片方の台座の上に建てられています。

観音像

台座の上のお堂には観音像。

「文化四年(1807)卯四月日」「真法禅門 施主 寛道」と刻まれています。

町石(第二町)

精進淵から光明山に至る登山道(全五十町)には、町石のごく一部が残っています。

鳥居跡から直ぐのに第二町の町石があります。

町石には、「第二町」「営國麁玉郡新原村兼子ロ」

「賓暦六丙子年九月吉口」(1756)と刻まれています。

町石(第六町)

上部が破損している第六町の町石には、「第六町」「當國豊田郡下山梨村 成道寺」

「賓暦八戊寅年十一月」(1758)と刻まれていたそうです。

二町目と六町目の間には、三町と五町の物と思われる台座が残っています。

林道 大沢光明線

一度、林道に出ます。右に見える鉄パイプの階段から再び取付きます。

茶屋跡

林道から尾根沿いに登ります。

左側に見える石垣の平地は茶屋跡だといわれています。

また右側には井戸跡と思われる窪地も残っています。

町石 台座跡

P348の手前にある町石の台座跡です。

これまで同様の跡が何ヶ所か残っていました。

林道 大沢光明線の拡張工事現場より、展望が開けます

町石(第三十五町)

林道工事現場を過ぎ、急登を登ると三十五町の町石。

「第三十五町」「宝暦四甲戌年(1754)九月」

「當國周智郡久保田村 本多七郎右衛門」の刻銘があります。

鳥居跡

三十五町目の町石を過ぎた後、しばらく進むと、道の左右に石組みの台座があります。

登山口に設置されたものと似たもので、「鳥居跡」だと思われます。

三等三角点(山東) 435.23m

鉄塔より

三角点峰を過ぎた後、街道は一度「林道光明線」へ。

この先、旧道は二手に分かれます。

江戸時代からのより古い道は、林道を50m程進んだカーブの手前から続きます。

町石(第四十五町)

街道は林道との境目を通ります。

林道からも見える位置に四十五町目の町石。

「第四十五町」「宝暦五(1755)乙亥年五月」

「三州渥美郡(畠?)村 大野屋市左衛門 為榮嶽浄繁信士立之」と刻銘されています。

町石(第四十七町)

四十五町目からは「天龍光明の森」として整備され歩きやすいです。

開けた場所に四十七町目の町石があります。

「第四十七町」「明和四(1767)丁亥年十一月吉日」

「當國豊田郡中野町村 村越興平次」と刻銘されています。

町石(第五十町)

光明山遺跡の駐車場が見えてくると、

精進淵から光明山までに建てられた最後の町石があります。

「第五十町」「干時寛保二(1742)壬戌八月口」

「願主 當國大居村小澤幸八郎」と刻銘されています。

方神塚

第五十町の町石の横には「方神塚」への入口。

ここは尾根の東側山頂周辺に作られた、奈良時代〜室町時代頃の墓地と考えられています。

案内板によると791(延暦10)年、征夷大将軍・坂上田村麻呂の従者である

楯部真躬が当地方の治安維持の任にあたったが死去し、この地に葬られたとあります。

尾根の先端には、数基の塚を中心に集石墓や石組残っているそうです。

酷く荒れた道を登ると、石組みらしき跡と案内板がありますが、薮が酷く周囲が見えません。

方神塚の案内板より

光明寺跡 方神塚

光明寺は、行基により養老元年(七一七)に開山との伝承を持つ。古代未頃には真密教系の道場となり、山岳修験の核として機能していたと思われる。交通の要衝に位置していることから、戦国時代には寺域が城郭として整備され光明城と呼ばれた。光明城をめぐっては、今川・武田・徳川による争奪道が繰り広げらわたが、天正年間に廃城となり、徳川家康庇護の下、曹洞宗の禅寺となった。江戸時代には秋葉信仰の隆盛に伴い、光明寺も信仰を集めることとなったが、昭和六年(一九三一)の火災により復興が困難となり、現在の地(天竜区山東)へ移転した。 方神塚は鎌倉時代から室町時代の墓地である。尾根の東側山頂周辺に形成された、光明寺に関係する墓と考えられる。数基の塚を中心に集石墓(縁石で区画した範囲を礫で覆った墓)や石組みが多数見られる。 (案内板より)

光明寺跡

光明山の山頂より南西に700m、標高489m地点が光明寺跡です。

寺伝によれば、養老元年(717)行基により開創。本尊は虚空蔵菩薩、守護神は笠鋒坊大権現を祀ります。

光明山は秋葉山とよく似た信仰形態をもち、修験道の影響を強く受けた寺院でした。 特に近世には、秋葉を火の神・光明を水の神として両方へ参拝してこそ霊験があるという信仰も生まれ、江戸後期からは両参りが盛んに行われました。

寛政10年(1798)に著された「遠山奇談」によると、『頂上には光明山大権現の社を祟たり。立ち並ぶ殿造魏々としてめざましきこといはんかたなく、虚空蔵を本地堂とし、門外にはかけづくりして茶店などの家ありしが、都の清水にいとよくにたり』とあり、その規模は秋葉山を凌ぐものであったといいます。

昭和6年(1931)、堂塔伽藍一字も残さず焼失したため、麓の山東に移転します。 その時に、石仏・常夜灯などの多くも移転され、今は石垣や石段、寛政9年建立の一対の常夜灯などが残るのみです。

光明城跡

光明城は、光明寺跡地に所在した城で、戦国時代の初期に今川氏の家臣が光明寺の敷地を接収し、山城に改築したとされます。

その後は、武田氏の城として重要な役割を果たしますが、天正3年(1576)徳川軍による二俣城奪還、光明城攻めが行われて落城。徳川家臣で二俣城主の大久保忠世の支配下に置かれることとなり、天正10年(1582)頃に廃城となります。

光明寺本堂が建っていた場所が本曲輪と考えられ、周辺に中曲輪・堀切などが残っています。 本曲輪裏には、この光明城攻めで5人の旗頭が命を落としたという「五人塚」の説明板があります。

再び光明寺がこの地に戻り、城跡に本堂や石垣などを築いたのは慶長年間(1596~1614)の頃で、徳川の祈願所として発展しました。

光明山遺跡より

光明寺跡より山頂方面へ

一度、林道光明線に出ると、直ぐに峯小屋峠へと向かうショートカットルートがあり、

その先に山頂・奥の院方面への道があります。

山頂への分岐近くには石仏が残ります。

光明山(540.3m) 三等三角点(光明山)

道標

山頂から奥の院方面へ戻り、峯小屋峠方面へ下る。

先程の光明寺からのショートカットルートとの合流点に道標があります。

表に「(右)奥の院道 鹿の通路といふ」「(左)光明 寺本坊道 雲の梯階坂といふ」

「施主 鈴木和吉」、中央に「しげみあふ・・・」とあり、

裏に「明治廿八年六月五日 開扉之晨建立」と刻まれています。

道標から尾根伝いに進むと、やがて林道に出ます。

林道の途中からは長沢集落に下る古道が一部残っています。

P203

長沢古道の最後の出口部分は、茶畑になっています。

この先、旧街道は失われているので国道に合流します。

秋葉天狗街道

「秋葉山秋葉寺(三尺坊)・春埜山大光寺(太白坊)・光明山光明寺(笠鋒坊)」など、

春野町は天狗伝説が残る町です。

街道沿いには、日本一の天狗面や秋葉大天狗の高下駄などのモニュメントがあります。

秋葉街道残存部

沢沿いに進んできた道は、迂回路である国道の「街道橋」の下を通り、和田之谷集落へ。

国道の「和田之谷橋」の手前、左手の川の向こう側に秋葉街道が昔のまま残っています。

和田之谷集落

和田之谷集落は宿泊地として、

「花屋」・「扇屋」「松屋」・「ききょう屋」などの宿屋がありました。

回り舞台が明治末まであって、秋葉山参詣人相手の興行が行われたといいます。

稲荷大明神

和田之谷の東領家公民館横に稲荷大明神社

ちょうど背後、街道を見下せる所には「和田之谷砦跡」が残る。

天王社 秋葉山常夜灯

集落からの道と国道との合流点には天王社が祀られており、

境内石段脇には秋葉山常夜灯が残ります。

「文化三丙寅(1806)十一月吉日」「世話人 柴本村口」の刻銘があります。

梅と秋葉山

秋葉大天狗の高下駄

秋葉橋手前の国道362号線沿いにある「秋葉大天狗の高下駄」。

秋葉大天狗は火消しの神様で、秋葉山から飛来して火事場に駆けつけたといわれています。

その際、気田川に残された下駄の跡から大きさを再現したとか。

秋葉橋 (気田川渡船場)

現在の秋葉橋より下流30m程の所に、大正末頃まで、渡船場がありました。

江戸時代「和田之谷の渡し」といわれ、「掛川誌稿」には、

「和田之谷渡下嶋と和田谷の間にある気田川の渡しなり。(中略) 此所にて気田川を渡て、

和田谷、長沢を経て光明山に登り、二俣に下り、加嶋にて天竜川を渡り、浜松に至る。」

と記されてる。

秋葉山への参詣人は、川を渡った地点で水垢離をしたといいます。

遠鉄バス(秋葉線)

秋葉橋を越えて、秋葉街道「鹿島(二俣)~坂下」までは終了

和田之谷から北鹿島までバスで戻ります(¥750-)

筏問屋 田代家

北鹿島に戻り、再び「筏問屋 田代家」

会館しているので見学して帰りました。

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