久能山東照宮
久能山東照宮H.P
http://www.toshogu.or.jp/index.html
久能山東照宮
旧別格官幣社
御祭神 徳川家康
配祀 豊臣秀吉・織田信長静岡県静岡市にある。
草薙駅の南3Kmにある久能山(270m)山頂に鎮座。
当社へのアクセスは2通り。
まず、日本平からロープウェイに乗る方法。
もう一つは、駿河湾沿岸を走る150号線近くの
一の鳥居から、表参道石段1159段を登る方法。
入口の大鳥居から参道石段
久能山の上に見えるのがロープウェイ
参道の石段がへこんでいるは参拝者の辿った証
久能山東照宮の神官や巫女さんは毎日この階段を出勤するそう!
山下より909段上がった所にある門です。
ここからの眺望は正に絶景です。
江戸時代には久能山東照宮の参拝には制限がかけられ、
当時の警察官である与力がこの門衛所に詰めて警衛の任に就いていました。
この門をくぐって東照宮詣でが始まります。
二階部分には後水尾天皇の宸筆(天皇陛下御自ら書かれた書)である
「東照大権現」の扁額(へんがく)が掲げてあり、勅額御門とも言われています。
楼門の上、中央には「獏(ばく)」が彫られています。
獏は夢を食べるといいますが、その他に刀や鉄砲などの武器も食べるそうです。
平和への祈りを込めている。
楼門をくぐったところに徳川家康の手形
久能山東照宮全景
この手水舎、誰が寄進したか忘れてしまいましたが
一枚岩を刳り貫いたもだそうです。
家康公の愛馬を飼育するために建てられた厩舎です。
その昔、愛馬は夜になると家康公神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。
ある朝、馬が厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、静かに眠ったままの姿で見つかりました。
その話を聞きつけた名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられています。
馬の眼球には当時大変貴重であったギヤマン(ガラス)が使用されています。
この愛馬の白は貝から出しているそうです。
厳島神社・稲荷神社の手前には家康梅
駿府城から植え替えられたものだそうです。
鳥居を登った所が、江戸時代最大のクーデター慶安の変(けいあんのへん)
の舞台となった(集まった)場所だそうです。
左右に沢山の鐘楼
名だたる大名からの寄進により建てられました。
いまのお金で一つ一億もするそうです。
三代将軍家光公の命により建立された五重塔が明治時代まで設置されていました。
江戸時代に作成された地図などには久能山のシンボルとして描かれることが多く、
30mを超える技術的・芸術的にも優れた塔と伝わっていますが、
神仏分離令を受けて明治6年に取払われ、現在は礎石が残されています。
創建以来、鐘楼(しょうろう、鐘を突く建物)として扱われてきましたが、
明治時代に行われた神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であるということから中身を太鼓に替え、
現在の「鼓楼」となりました。
太鼓は明治6年に旧幕臣であった小島勝直氏が江戸城にあったものを奉納したと伝えられています。
引用にもあるとおり廃仏毀釈の際、鐘楼を取り壊されないよう
中身を太鼓に替え鼓楼(ころう)と呼び方を変えたそうです。
すこし無理やりなきもしますが、おかげで壊さずに済みました。
真ん中にある一際大きな鐘楼は、家康の一周忌に寄進されたもの
鋳物(いもの)で作られています。
鼓楼(しんびょう)の前にもこれと同じ物があります。
前の木々も駿府城からの植え替え
唐門は工事中。
カラフルに見える東照宮ですが
全部で5色しか使われていないとは驚きです。
神楽殿という名称が付いていますがこの建物では神楽は行われず、
武家奉納の絵馬を掲げたと伝わっています。
神楽が好きだった家康らしく神楽殿
神楽殿の前には静岡で有名なプラモデルも!
奈良、正倉院と同じ校倉造りの建物で、
東照宮への奉納品をここに納めたと伝わっています。
御祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)です。
元は薬師如来像を安置する薬師堂として扱われてきましたが、
神仏分離令を受けて明治3年12月に仏像を大正寺に遷し、
山中にあった山王社の御神体を納めたと伝わっています。
中には徳川各代の葵の御紋の彫刻があります。
よく見ると葉の形など、各代少しずつ柄が違うそうです。
徳川家康公をお祭りする神社です。
家康公の没後、二代将軍秀忠公はただちに久能山に徳川家康公を祀る神社を造営することを命じ、
大工棟梁の中井正清によって1年7ヶ月という驚くべき短期間のうちに社殿が建てられました。社殿の様式は本殿・拝殿を石の間で接続した「権現造」(ゴンゲンヅクリ)であり、
当時最高の建築技術・芸術が結集されています。
神社建築における権現造の様式は久能山東照宮の造営によって確立され、
日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型とされました。
社殿の中央上に彫られているのは司馬温公の甕割
古代中国の有名な政治家司馬温公は、
子どもの時、遊んでいた友だちが大きな水かめに落ちたので、
近くの石を拾い投げて甕(かめ)を割って助けたという逸話があります。
かめは財産を表す大切なものではありますが、
それよりも尊いのが人の命であるということをこの彫刻が伝えています。
家康公が最も言いたかったことです。
廟門から御神廟までの間をつなぐ参道です。
左右には家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が据えられており、
厳かな雰囲気が漂っています。
神廟(しんびょう)へ向かう前に少し階段を登りますが
この高低差、少し参道から目を外すと
武田家時代に作られた久能山寺城のお堀の跡を見ることが出来ます。
徳川家康公の遺骸が埋葬された場所に立つ廟です。
当初、この地には小さな祠(ほこら)が建てられていましたが、
三代将軍徳川家光公によって高さ5.5m、まわり8mの石塔が建てられ、現在に至っています。
家康公の遺命に従い、西向きに建てられています。
元和(げんな)二年 四月十七日に徳川家康公は薨去(こうきょ)されました。
死後、身近な者数人でその日のうちにこの場所に埋葬されたといいます。
また、西を向いてまっすぐ座った状態で土葬だといいます。
家康の墓は当初こんなに絢爛豪華ではなく、小さな祠程度だったと言います。
社殿は二代将軍秀忠公の時代に、神廟は三代将軍徳川家光公の時代に今の形になったそうです。
神廟(しんびょう)の周りを回ると家康の死後
追うように死んだ愛馬の墓もあります。
ここまで途中で出会ったボランティアのガイドさんに
色々とお話を伺いながら歩いてきました。
本当に良い出会い有り難うございます。