日野俊基の墓 国指定史蹟・鎌倉市梶原
https://ja.wikipedia.org/wiki/日野俊基
日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣で
後醍醐天皇につかえ倒幕計画に参加します。
正中の変(1324)に捕らえられその時は罪を許されますが、
元弘の乱(1331)の時再び捕らえられ、
鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑されます。
日野俊基の墓所(ひのとしとも)
由来
日野俊基は、1323年(元享3年)に後醍醐天皇に抜擢され蔵人になり、
日野資朝とともに後醍醐天皇の側近として倒幕計画を先導し、武士を組織した。
正中元年(1324)の正中の変(1325)で倒幕計画が漏れ、
日野資朝・日野俊基が捕らえられ鎌倉に連行されました。
俊基は、証拠不十分で罪を許され、資朝は死罪を免ぜられ、
佐渡へ配流になりました。
俊基は、後醍醐天皇の下で再び北条氏倒幕計画を進めたが、
元弘元年(1331)の元弘の変で六波羅に捕らわれ、鎌倉に護送され、
翌年元弘2年(1332)6月2日に葛原岡で処刑されました。
後醍醐天皇も隠岐へ流されました。
日野俊基の家臣、後藤左衛門尉助光は、
俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来たが、幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいた。
処刑の日、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、
役人に懇願してやっと渡すことができたという。
『太平記』は処刑の様子を次のように記している。「俊基畳紙を取出し、頸の廻りを押拭い、其紙を推開いて、辞世の頌を書き給う。
古来一句、無死無生、万里雲尽、長江水清と筆を差置きて、
鬢の髪をなで給う程こそあれ、太刀影後に光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱て伏給う」俊基は、「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」
という辞世の歌を残したといわれている。
日野俊基が斬首された翌1333年(元弘3年)、
新田義貞は、巨福呂坂、極楽寺切通、そして俊基の眠る仮粧坂から鎌倉を攻め、
5月22日、稲村ヶ崎を突破し、東勝寺に籠もる北条高時ら一族を自刃に追い込んだ)。
明治時代になると、日野俊基は倒幕の功労者として評価され、
1887年(明治20年)、日野俊基を祭神とする葛原岡神社が創建された。
毎年6月3日の日野俊基の命日には、葛原岡神社の例祭が執り行われる。
参道の桜並木は、俊基顕彰行事の一環として
1924年(大正13年)に植えられたものだという。