夜泣き石「小夜の中山」(遠州七不思議)・静岡県掛川市佐夜鹿




夜泣き石「小夜の中山」(遠州七不思議)・静岡県掛川市佐夜鹿

静岡県掛川市佐夜鹿に小夜の中山(さよのなかやま)という峠があります。

ここは古くから箱根峠・鈴鹿峠と並び「東海道の三大難所」として知られていました。

またこの場所には「遠州七不思議」の一つ、赤子の泣き声を発したとの伝説を持つ

夜泣き石」があります。

遠州七不思議(えんしゅうななふしぎ)とは、静岡県の遠州地方に伝わる七つの不思議な物語のことです。遠州七不思議といっても組み合わせには諸説あり、合わせると7つ以上存在します。地域によって話が違っていたり、一定したものではないようです。

旧国道一号線、小夜の中山トンネルの東京側に

宝暦元年(1751年)創業、名物・元祖「子育飴」の製造販売をしている「小泉屋」

その右手門より階段を上った先が小さな公園になっており

その一角に「夜泣き石」が祀られています。

安藤広重の東海道五十三次 日坂にも夜泣き石が描かれている

夜泣き石の伝説

只今居ります場所は国道一号線沿いですが、これより4~500m山をのぼりますと、旧東海道が通って居ります。旧道の頂上にはお観音様をお祀りした久延寺という昔からのお寺があります。
この寺に、或る日の夕方、臨月の身になった婦人が安産をお祈りして帰る途中、丸い石にもたれて休んで居りますと、突然刀を持った山賊が出て来て婦人を丸い石に切りつけ、ふところにあったお金を取り去っていきました。
婦人は殺されましたが、幸い刀の先が石に当った為、お腹を斬りとおさなかったので赤ちゃんは無事切り口から生まれ、婦人の魂は丸い石にのり移り助けを求めるため泣きました。
山頂のお坊さんは泣き声に気づき山を西の方に下り訪ねてみると道の真ん中の丸い石のかたわらで婦人は殺され赤ちゃんは虫の息で居りました。この有様ではお寺まで赤ちゃんの泣き声が聞こえるはずが無い。泣いたのはこの丸い石にに違いない。先ず婦人を始末して赤ちゃんをお寺に連れて帰りました。お乳が無いので早速水飴を作り育てました。
幸い子供は肥立ち良く成長し、音八と名付けられました。日頃、住職さんより生い立ちの事を聞いて居りましたので大人になったら母親の御魂を休めたいと思って暮らして居りましたところ、お観音様のお告げであるか、刃物の研師に成る様にと夢を見ましたので、十五歳になった音八は西の方に旅立ち大和の国、恩地村へ行き、研屋源五郎宅に身を寄せました。幾多の苦労を重ね一人前の研師に成った時、一人の侍が来て一振りの刀を研いで下さいと音八の前に差し出しました。見ると大きな刃こぼれがありましたので「大変名剣ですが・・・」と尋ねてみると、侍は思わず知らず我若き頃、遠州の山の中で石に当てた時の刃こぼれである事を語りました。
長い年月、胸にあった思いを語り合い亡き母の御魂を休めたという事です。
旧東海道はあまりにも険しい峠道でしたので明治十三年、日坂から金谷の間、約5キロの日本で始めての有料道路(中山新道)が開通しました。
そして旧道にあった夜泣き石も現在の場所に移りました。

その話しを聞いた弘法大師が、

殺された妊婦の御魂を休めるために指で石に刻んだという

「南無阿弥陀」の文字が残っている。

夜泣石の横には銀座松坂屋により奉納された石灯籠があります。

昭和11年に松坂屋で開催された静岡県物産展に夜泣石が展示され

この時、エレベータに載せる為、計測したところでは約三百貫(1125kg)あったといい、

灯籠その時に奉納されたものです

この夜泣き石、現在伝えられている場所は2箇所、

もう一つは小夜の中山 峠の頂上付近に建つ久延寺の境内にあります

久延寺は奈良時代に行基によって開かれたといわれる名刹、この寺は徳川家康にゆかりのあるお寺で、当時の掛川城主の山内一豊が、徳川家康をもてなした寺としても有名です。境内は掛川市の指定文化財に指定されており家康手植の松もある。

久延寺

久延寺境内にある夜泣き石は、

昭和30年代に夜泣き石があったところで見つけた石を寺に運んで、

夜泣石物語の妊婦(小石姫)を弔う為に建てられた供養塔でレプリカとされています。

伝説 小夜の中山夜泣き石

その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里に働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い去った。
その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣き石」と言った。
傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の過多刃研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石に当たったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。 文政元年、滝沢馬琴の「石言遺響」より 「久延寺の説明板」

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