弁天山(55m) 水神社・静岡県島田市阪本
大井川に架かる谷口橋の南詰から西へ約300m 進むと、
小高い弁天山(標高55m)があり山上に弁天社(水神社)が鎮座します。
その弁天社に通じる石段の登り口には石製の手水鉢がありますが、
これは江戸時代に大井川の治水事業に徳島藩が関わり、
その工事の完成を記念して当時の家老が、弁天社に寄進したものです。
大井川 谷口橋の堤防沿いの、西武建材 大井川工場
奥に見えるのが弁天山
弁天社(水神社)鳥居
徳島藩による大井川御手伝普請
南アルプス(標高3,189mの間ノ岳 )に水源をもつ大井川(長さ168km)は、駿河国と遠江国(ともに現在の静岡県)の国境を南下し、駿河湾に注ぎ込む大河です。
享保21年(1736)1月12日、徳島藩7代藩主蜂須賀宗英と陸奥国盛岡藩7代藩主 南部利視は江戸幕府8代将軍徳川吉宗の命として、老中松平乗邑から大井川御手伝普請(堤防などの改修工事) を命じられます
(『徳島県史料第1巻 阿淡年表 秘録』383頁)。
徳島藩は図らずも盛岡藩と共同 で普請(改修工事)を行うことになりますが、その背景には、幕府が命じていた駿河国田中藩と遠江国掛川藩による堤防の再築が改修と破損をくり返し、治水の効果があがらない状況があったようです。
徳島藩では総奉行に徳島藩家老で稲田家7代当主の稲田九 郎 兵 衛 植 政 ( 2 月 5 日 ~ 3 月 5 日 )、 次 いで家老で山田家6代当主の山田貢宗賀(なお、蜂須賀重喜 の藩政改革に反対し切腹を命じられたのは、7代当主の山田織部真胤です)(3月5日~ 4月8日)を任命し、現地に赴かせて普請の差配 にあたらせます。実際の普請では、江戸幕府の勘 定奉行所御普請方が作成した仕様書に基づき、徳 島藩と盛岡藩が施 工しました。
徳島藩が堤の普請 を担当した区域 は、河口から約10kmまでの下流側で、盛岡藩はその上流側の約10kmを担当しました。さらに徳島藩は、弁天山付近を「〆 切 」と いう難工事も行ったようです。
普請にともなう費用は、幕府の見積りでは 4,864両でしたが、実際には見積額を大きく上回ったとされます。いずれにせよ、多額の工事費を捻出するために徳島藩が行った政策は「半知」 すなわち藩士の俸禄の半分を召し上げるという厳しいものでした。
享保21年4月8日(4月28日に元 文 に元)、徳島藩は江戸幕府から命じられた大井川御手伝普請を無事行い、9日に幕府役人の見分を受け、事業は完了しました。
徳島藩にとって、大井川御手伝普請は過重な負担になりましたが、そこから得た治水技術や施工のノウハウは、宝 暦 2年(1752)に着工された 第十堰の建設工事に寄与したと推察されています
(澤田健吉「徳島藩の大井川御手伝普請―吉野川 の第十堰普請とのかかわり―」『、徳島科学史雑誌』 5、1986年)。
弁天山手水舎
弁天山手水舎徳川八代将軍吉宗は、新田開発を奨励し、(享保の改革)大井川流域の治水の為、外様大名の四国阿波藩に弁天山〆切の難工事を命じた。藩では過労稲田九郎兵衛と山田貢が出張して指揮をとり、約二ヶ月かかって堤防(長さ八〇間、高さ四間)を完成させた。これは「御手伝普請」といわれ、藩の経費約五千両(二億円)を注ぎ、ようやく元文元年(1736)に完成を見た。藩はこの出費の為、半知(棒録を1/2)に減給してこれにあてたという。手水舎は、〆切の完成を記念して、両家老が弁天(水神社)に寄進したものである。 平成四年三月 初倉郷土研究会 初倉商工会
手水鉢
徳島藩家老稲田九郎兵衛と山田貢が寄進した手水鉢。
現在、地元の有志によって解説看板が建てられている。
手水鉢の側面に、「稲田九郎兵衛 山田貢 喜捨」
「元文元丙辰年五月十□□」と刻まれている。
弁天山(55m)・弁天社(水神社) 拝殿
本殿