天方城跡(あまがたじょう)城ケ平公園・静岡県周智郡森町




天方城跡(あまがたじょう)城ケ平公園・静岡県周智郡森町

天方城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/天方城

天方城跡(あまがたじょう)は静岡県周智郡森町の太田川沿い、

城ヶ平と呼ばれる標高248mの山頂に築かれている。

現在は城ヶ平公園としてよく整備されており、

山頂まで車で登ることもできる。

武田信玄と徳川家康がこの城を巡って

激しい攻防を繰り広げました。

天方城(あまがたじょう)

所在地
静岡県周智郡森町向天方
遺 構
曲輪・土塁・空堀
形 式
山城
築城者
首藤山内対馬守道美(山内道美)
築城年代
応永年間
史跡指定
町指定史跡

天方城

この城がいつ築かれたかは、はっきりした資料は見当たらないが、
応永年代には既に山内対馬守の居城であった。
城主天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。
それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が義元の死後斜陽化、
これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年、
家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、
一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。
天方城主天方山城守通興は今川方の勇将と知られ、
家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、
家康に敵対していたため、永禄12年6月19日家康は
「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、先陣榊原小平太康政、
天野三郎兵衛康景、大久保新十郎忠隣をして天方城攻略のため進撃。
郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。
山城守もよく防戦したがついに力尽きて降伏。
翌、元亀元年10月位には命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったため
再び大須賀康高、榊原康政をして外曲輪を攻め破る。
山城守防ぐことかなわず降伏し徳川の支配下に入った。
それから3年後の元亀3年9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて
犬居城主天野氏の案内で飯田城を攻略して天方城にせまった。
天方山城守は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に恐れをなし
戦わずして降伏してしまった。
そこで信玄は久野氏を残して山城守とともに天方城を守らせた。
翌天正元年3月家康は「信玄に降伏したものを捨置くべきにあらず」と、
天方城攻略を決行した。先にこの城に残った武田の臣である久野氏は
城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、
渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、
城主山城守、久野氏は必死に防戦したが力尽きて再び降伏した。
遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となったが、
天正2年3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、
この城に軍兵を置くとある。
その後通興の子は家康の長男信康が織田信長に謀反の疑いをかけられて
天正7年に二俣城にて切腹を命ぜられた際に介錯をつとめた。
このため主君の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ
高野山ののぼり仏門に入りその後越前松平秀康に仕えて
越前天方氏の祖となりその子孫は明治まで松平氏に仕えた。
一方通興は天方家の存続をはかるため外孫を養子に迎え、
後に家康、秀忠に従って数々の戦功をあげた。

天方城

天方城の創設ははっきりしないが、応永年間には天方氏の居城となっていたといわれる。
ただし、その際の天方城とは、ここではなく、
天方小学校の北側にそびえている天方古城であった可能性がある。
天方城主天方山城守は、桶狭間合戦で今川義元が討死した後も、
徳川になびくことをよしとしていなかったため、永禄12年(1569)、
徳川方の榊原康政、天野泰景、大久保忠隣らによって攻撃されることになった。
天方通興は、この攻撃に抵抗しきれずに、降伏して徳川家康に従う事になった。
しかし、反骨精神旺盛な武将だったらしく、家康の下知に従わず、
翌年再び城に籠城したため、再度攻撃を受けてまたもや降伏する。
元亀3年(1572)、武田信玄が遠江に侵攻してきた。
圧倒的な武田軍の勢力を見た天方山城守は戦わずして降伏、
城を明け渡して城を退去した。
そこで天方城には武田方の武将久野忠宗が入城して城を守ることになった。
どうも、天方氏、降伏してばかりのようである。
信玄が陣没して武田軍が甲斐に引き上げると、徳川方の反撃が始まった。
天方城には平岩親吉らが攻め寄せてきた。三日間の攻城戦の後、
かなわないと見た久野らは城を明け渡して甲斐に戻っていき、
天方城は再び徳川方の城となった。
その後の天方城は、武田勝頼の遠江侵攻の際には、
徳川方の拠点の1つとなって重要視されていたと思われるが、
武田方の衰亡と共に、その戦略的な意義は失われていったと思われる。
城主天方通興は、徳川家康の長男信康が、
武田に内応したとの嫌疑を信長に掛けられて切腹を命じられた際に、
その介錯を勤めた、しかし、これによる自責の念から、
高野山に入山して出家してしまっていたが、
後に結城秀康に仕え、越前に移っていったという。

天方城より北の天方小学校と八幡宮がある裏山が

天方本城址といわれている。

三倉川(甲州街道)と太田川が交わる要衝であり、

本城の南向い、谷本神社の上には天方通季が築いたとされる白山城跡もある。

また、太田川を挟んだ向かいにある蔵雲院(ぞううんいん)

天方氏の菩提であり、天方氏三代の墓が残っています。

天方本城址(あまがたほんじょうあと)の記事

谷本神社(たにもとじんじゃ)の記事

松厳山 蔵雲院(ぞううんいん)の記事

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