第46代 孝謙天皇 第48代 稱德天皇(狹高野陵)・奈良県奈良市山陵町
奈良県奈良市山陵町
第46代 孝謙天皇(こうけんてんのう)が重祚、第48代 稱德天皇(しょうとくてんのう)
高野陵(たかののみささぎ)
遺跡名は「佐紀高塚古墳」で、墳丘長127メートルの前方後円墳です。
『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、
ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。
「日本書紀では稚足彦天皇」
史上6人目の女性天皇で、天武系からの最後の天皇。
道鏡を寵愛し、高い地位を与え続け、
最終的に天皇の地位にしようとした道鏡事件(宇佐八幡神託事件)を起こしている。
そのため、宮中は中継ぎであっても女性天皇を立てることを忌避するようになった。
この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 – 1643年)
に至るまで、850余年、女性天皇が立てられることはなかった。
佐紀盾列古墳群、日葉酢媛命陵の西にあり、奈良時代の女帝孝謙(称徳)天皇の陵墓とされる。東西方向の不整形な前方後円墳で、西に拝所がある。孝謙(称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、西大寺を建立したことで知られている。
第48代 稱德天皇 (第46代 孝謙天皇が重祚)
諱 阿倍
別名 高野姫天皇・宝字称徳孝謙皇帝・高野天皇・倭根子天皇
誕生 718年
崩御 770年8月28日
在位
孝謙天皇 749年8月19日 – 758年9月7日
天平勝宝元年7月2日 – 天平宝字2年8月1日
称徳天皇 764年11月6日 – 770年8月28日
天平宝字8年10月9日 – 神護景雲4年8月4日
続柄 (父)聖武天皇(母)光明皇后
父は聖武天皇。
母は藤原不比等の娘の光明皇后。
聖武天皇の第一皇女で、名を阿倍内親王といった。
高野姫尊とも称した。
聖武天皇の皇子は生まれてまもなく立太子したが、夭折したため738年に阿倍内親王を立太子した。
初の女性皇太子の誕生である。
749年に父聖武天皇の譲位を受けて即位し孝謙天皇となった。
752年に東大寺大仏の開眼の供養を行い受戒して法基と称した。
758年に大炊王(淳仁天皇)に譲位したが不和となり、764年淳仁天皇を擁立庇護し、道鏡を除こうとした太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)を越前国に追い、途中の近江国勝野鬼江で捕らえて妻子もろとも斬殺した(恵美押勝の乱)。
この後淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇(第48代、「重祚」(ちょうそ)という。
)となる。
重祚後は道鏡を登用して寵愛し政治・財政の混乱を招き反感をかった。
770年に皇嗣を決めないまま死去した。第48代とされる天皇(在位764~770)。第46代とされる孝謙(こうけん)天皇(在位749~758)が再即位して称徳という。女帝。高野(たかの)天皇とも称せられる。名は阿倍(あべ)。聖武(しょうむ)天皇の皇女。母は光明(こうみょう)皇后。
738年(天平10)正月立太子、749年(天平勝宝1)7月聖武天皇に譲られて即位、孝謙天皇となったが、政治の実権は藤原仲麻呂(なかまろ)を長官とする光明の紫微中台(しびちゅうだい)にあった。聖武が発願した東大寺大仏の開眼供養会(かいげんくようえ)を行い、この大仏殿前で754年(天平勝宝6)鑑真(がんじん)から受戒した。聖武の遺詔で道祖王(ふなどおう)を皇太子としたが、757年(天平宝字1)これを廃し、大炊王(おおいおう)を皇太子にたて、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変後の758年8月に譲位(淳仁(じゅんにん)天皇)、上台宝字称徳孝謙皇帝と諡(おくりな)された。看病に侍した道鏡を寵愛(ちょうあい)したことで淳仁天皇と対立、762年国家の大事と賞罰を自ら行うことを詔して出家したため、天皇を擁立していた仲麻呂は権勢の挽回(ばんかい)を図って764年反乱を起こしたが、これを制圧、天皇を廃して重祚(ちょうそ)、称徳天皇となった。以来、仏教中心の政策をとり、出家の天皇には出家の大臣があってもよしと道鏡を太政(だいじょう)大臣禅師に任じて政治に関与させ、さらに法王の位を授けたが、皇太子を定めなかったため混乱も続発した。769年(神護景雲3)道鏡を皇位につかしめんことを奏した宇佐八幡(うさはちまん)の神意をただすため和気清麻呂(わけのきよまろ)を遣わし、その復奏が虚言であるとして配流に処した。神護景雲(じんごけいうん)4年4月病に臥(が)し、快癒することなく8月に崩じた。御陵は奈良市高野陵。
稱德天皇 (孝謙天皇が重祚)(高野陵)
代数
第46代・第48代
天皇名
孝謙天皇(こうけんてんのう)・稱德天皇(しょうとくてんのう)
御父
聖武天皇
御母
皇后天平應眞仁正皇太后
御陵名高野陵(たかののみささぎ)
陵形
前方後円
所在地
奈良県奈良市山陵町