畝火山口神社 畝傍山(198.5m) ・奈良県橿原市大谷町
畝火山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)は、奈良県橿原市の畝傍山の西麓に鎮座します。
かつては畝傍山山頂に鎮座しており、現在でも社殿跡が山頂に残ります。
創始の由緒は不詳、俗に「お峯山」とも呼ばれ、式内社・旧社格は県社です。
御祭神は気長足姫命(神功皇后)・豊受比売命・表筒男命
延喜式祝詞に記される大和国内の山口社6社(飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無)
のうちの1社であり、祈雨神祭八十五座の1つです。
神功皇后が応神天皇を出産した伝承により、安産の神として信仰されています。
山口と名のつく神社は、山の口(麓)、本来の祭神は大山祇命であったとみられます。
現在、大山祇命は末社・大山祇命神社に祀られています。
文献の初見は、『新抄格勅符抄』大同元年(806年)の神封一戸を寄せるという記述があり、
『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)正月27日条には正五位下の神階を授けられ、
同年9月8日には祈雨のための奉幣使が遣わされている。
延喜式神名帳では「大和国高市郡 畝火山口坐神社」と記載され、
大社に列格、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。
畝火山口坐神社 鳥居
右側に畝傍山への登山道があります。
式内大社 畝火山口神社
祭神 氣長足姫命 豊受比売命 表筒男命
飛鳥・奈良時代から朝廷の尊崇篤いと伝承されている当神社が記録に見えるのは大同元年(806)「新抄勅格符鈔」に神符一戸を寄せられたとあるのが最初である。貞観元年(859)正五位下を授かり延喜の制では明神大社として官幣及び祈雨の幣に預かったことが「三代実録」に、また、延喜式祝詞に皇室の御料林守護の為山麓に山神の霊を祀るとあり、大山祇命(おおやまつみのみこと)を御祭神としていたことが伺える。文安三年(1446)「五郡神社誌」に畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている。天正三年(1575)の畝傍山古図では山頂に社殿が描かれており、この間に三頂に遷座されたことが明らかで、口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際、真北に神社を見下ろすことを恐れて山頂に遷座したとあるのと符合する。「大和名所図会」にも『昔畝火山腹にあり今山頂に遷す祭る所、神功皇后にてまします畝火明神となづく』とあり、当神社の御祭神・神功皇后が朝鮮出兵の際、応神天皇をご安産になられたとの記紀の伝承により、今に「安全の守神」として信仰されている。主神であった大山祇命を境内社に祀り、本殿に気長足姫命・豊受姫命、表筒男命の三神を奉祀したのもこの頃かと思われる。神社名も畝火坐山口神社から畝火明神・畝火山神功社・大鳥山などと呼ばれてきたが明治に入って旧郷社「畝火山口神社」と定められ、俗にお峯山と呼ばれてきた。現在の社殿は昭和十五年皇紀二千六百年祭で橿原神宮・神武天皇陵を見下し、神威をけがすということで当局の命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった。
社務所
式内大社畝火山口神社略記
安産の神
鎮座地
奈良県橿原市大谷町
御祭神
気長足姫命(神功皇后)・豊受姫命・表筒男命
祭日
元旦祭
正月の五日間は参拝者に御神酒を授与する。
祈年祭・御田植祭(おんだまつり)
2月28日、御神前において農事儀式を行ない、五穀豊穣を祈願する。
春季例祭(だいだいまつり)
4月16日、無病息災・家内安全・厄除などを祈願する神事がある。
夏祭(でんそそまつり)
7月28日、29日、でんそそというのは、社頭で太鼓をデンデンソソと打った音からくる俗称と考えられる。昔から夏痩の子供は、この日に綿入れの着物を着せて参ると治るといわれている。28日の夜は民謡踊りと縁日があり、参詣人で賑わう。
新穀感謝祭
12月3日
御由緒
創始は明らかではないが、新抄格勅符抄によれば平城天皇大同元年(806年)神封一戸を寄せられたことが載っていることからして、大同以前の創建であろうと思われる。降って清和天皇貞観元年正月(859年)正五位下を授かり、延喜の制では名神大社として祈年、月次、新嘗の案上官幣及び祈雨の幣に預かった。
畝火山は元帝室の御料林を守るためにその山麓において山神の霊を祀った。これが当社の起源であるが、神功皇后を祀ったともいえる。
始めは畝火山の山腹にあったが、後に山頂に遷祀し、更に昭和15年12月、現在の位置に遷座し、郷社より県社になった。
現在の御社殿は昭和15年に御造営され、昭和44年に御屋根の葺替を行なった。
御神徳
畝火山口神社は、神名帳に「畝火山口坐神社」とあり「畝火明神」又は「神功社」と称し応神天皇御降誕の伝えがあり、安産の守神として他府県よりの祈願者も日に日に増している。めでたく安産の後、当神社で命名を受けると必らず無病息災に過す事ができる。又一方、海運の神とも知られ、交通安全祈願者も増している。
特殊神事 埴取神事
大阪の住吉大社では、毎年祈年祭(2月)、新嘗祭(11月)に用いる土器を作るための埴土を畝火山頂で採取する。(行事には宮司又は権宮司が正使となり随員二名、社僕一名と同行で雲梯町河俣神社で修祓を行い直ちに当神社に来たり祝詞奏上を終りて、当神社宮司と共に山上に赴く。)
神水取神事
毎年7月26日早朝、宮司は吉野郡大淀町土田領である吉野川沿岸の周囲二丈余りの大きな櫟の所で修祓を行ない、それより清流に臨んで神水を汲み取り、これを持ち帰って神前にお供えする。俗にお峯山の水取りと称す。
餅まき神事
4月16日の春祭に行なわれる。
拝殿
拝殿は桟瓦葺の平入入母屋造
祓戸大神の左側(東側)には陰陽石があり、
応神天皇を生んだ気長足姫命(神功皇后)を祀っていることから
安産の神としても信仰されています。
案内板には子宝祈願の方法として、男子は向かって左側を、
女子は向かって右側を、三回さすって祈願するよう記されています。
境内社 祓戸神社
境内社は他に「六社神社」
(春日神社・埴安彦命・大山祇命・高良・八幡神社・厳島神社)を祀る
第28代 宣化天皇(身狹桃花鳥坂上陵)より望む畝傍山
藤原宮跡を囲むように立つ「大和三山」(畝傍山・天香久山・耳成山)
『畝傍山(うねびやま)』の標高は三山中で最も高い199.2mです。
登山口は西側の麓に鎮座している畝火山口神社、
または東側の橿原神宮からも登ることができる。
畝傍山国有林
ここは歴史的にも有名な大和三山の一つで、標高199.2m、面積41ヘクタールの死火山です。東部裾野には神武天皇陵、北西部に綏靖塚(すいせいづか)、南西部に安寧天皇陵、南部に懿徳天皇陵、南東部に樫原神宮があります。
香久山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を争ふらしき 万葉集 中大兄皇子
畝傍山(198.5m) 三等三角点(畝傍山)
畝傍山(うねびやま)
畝傍山は、奈良盆地南部に位置する山である。かつては「畝火山」、「雲根火山」、「宇禰縻夜摩」とも記され、「慈明寺山」、「御峯山」などと呼ばれることもあった。万葉集の中では「瑞山」(みずやま)とも詠まれた。天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)7月14日には他の2山とともに国の名勝に指定された。標高は198.8メートルと三山の中では最も高い。ただし、山頂にある三等三角点の標高は198.49メートルである。歴史的風土特別保存地区にも指定されている。
畝傍とは「火がうねる」の意味である。田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つことから名付けられたともいわれる。瀬戸内火山帯に属しており、古代人がこの山を火山と認識していた可能性も考えられる。事実、頂上近くの緩い傾斜面になっている部分は、黒雲母安山岩から形成され、ざくろ石黒雲母流紋岩の流離構造を示す貫入岩も存在する。ただし、きれいな釣鐘型の火山のような山容を持つが、中新世に噴出した火山岩が侵食されて、その一部のみが残存した侵食地形である。噴火時の大きさは現在の2倍以上であったとされる。中腹以下の部分は片麻岩によって形成されている。
江戸時代より以前は、山上に70以上もの寺院があったと指摘されている。現代でも西麓には曹洞宗慈明寺が残る。本寺の傍に畝火山口神社がある。明治に入ってから、国は神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を興し、それまで多武峰で奉斎してきた神武天皇の「御霊」を移したとされる。付近には藤原京跡、飛鳥京跡などの都城跡や数々の古墳がある。
大正時代までは山腹に洞村(208戸)が存在していたが、天皇陵を見下ろしているとして1916年(大正6年)に集団移転させられた出来事(洞村移転問題)もあった。
山頂への登山口は、東麓の橿原神宮側と、西麓の畝火山口神社側がある。現在、山頂からは天香久山や耳成山のほか、遠く若草山なども眺望することができ、その山頂には、もとあった畝火山口神社社殿跡が残る。