秋葉山と秋葉古道・高瀬古道(東尾根)〜久保田古道 周回
秋葉山への登山道には秋葉神社 下社(坂下)から続く「表参道」の他に、
「秋葉ダム」のある(西川)からの「秋葉山裏参道( 戸倉古道)」
「スーパー林道天竜線」の起点、(東雲名集落)からの尾根道である「東雲名古道」
などがあります。
今回は未踏の2つのルート
犬居城跡から現在の東尾根を通る「高瀬古道」から秋葉山へ登り、
気田川流域の久保田集落からの尾根道「久保田古道」へと周回して来ました。
秋葉山(あきはさん)
標高 885m | 登山日 2020年6月27日 |
秋葉神社の総本宮 秋葉山本宮秋葉神社が鎮座 | |
所在地 静岡県浜松市天竜区春野町領家 |
難易度 ★★★★ オススメ ★ | 登山口(ナビ検索) 春野ふれあい公園 |
春野ふれあい公園(10:58)→犬居城跡(11:10)→高瀬古道四辻(12:11)→秋葉山(あきはさん)(13:14)→秋葉茶屋(13:22)→春野ふれあい公園(15:04) 所要時間 3時間54分 累積標高 1266m / 1236m 距離 17.4m | |
■秋葉山(866m)は、静岡県西部の浜松市にある山で、火防の神として全国に知られています。この山は、赤石山脈の南端に位置し、天竜奥三河国定公園の一角であり、山頂付近は樹齢数百年といわれる老杉に覆われ、自然の豊かさでも知られています。山頂からの展望は東海一と称され、浜松市の中心市街、天竜川や浜名湖、そしてはるか太平洋(遠州灘)まで望まれます。 ■秋葉山(あきはさん)は、静岡県浜松市天竜区春野町領家に位置し赤石山脈の南端を占める標高866mの山である。 山頂近くには、火防(ひぶせ)の神である秋葉大権現の後身秋葉山本宮秋葉神社があり、秋葉山は同神社の俗称ともなっている。明治以前は秋葉大権現として秋葉社と秋葉寺の両方が存在する両部神道であった。しかし、明治初めの神仏分離・廃仏毀釈によって、秋葉山は神社と寺院とに分離されることとなった。現在は、秋葉神社上社は秋葉山の山頂にあり、曹洞宗の秋葉寺は秋葉山の中腹の杉平にある。 東京都台東区秋葉原の地名由来としても知られている。 |
春野ふれあい公園
春野ふれあい公園 駐車場より
トイレ自販機の他、サッカー場やテニスコートなどが有ります。
春野ふれあい公園
住所 〒437-0626 浜松市天竜区春野町領家145-1
電話 053-985-0579
開園時間
パターゴルフ場:午前9時~午後5時(5~8月は午後7時まで)
貸自転車:午前9時~午後5時(5~8月は午後7時まで)
テニスコート:午前9時~午後9時
野外ステージ:午前9時~午後9時
研修室:午前9時~午後9時休園日 毎週月曜日(祝日の場合は翌日、12~2月)
年末年始(12/29~1/3)
駐車場 84台
H.P http://www.hama-park.or.jp/f-kanri/f-haruno/haruno-hureai.htm
国道362号を渡った先に宝塚歌劇団の像
ここ春野町は宝塚歌劇団の演出家の出身地なのだそうです。
犬居城跡
犬居城跡
犬居城跡まで至る道は歩き易い「東海自然道」
この先、秋葉神社下社へと至ります。
犬居城跡は別名「鐘打山」標高255m
宝暦二年(1753)四月、役行者の石像を安置して行場としたことから
「行者山」とも呼ばれています。
天竜川下流部からの侵入を阻止・監視するのに適した立地にあり、
山頂に置かれた物見曲輪からは、気田川流域や直下を通る秋葉街道を見下ろせ、
北斜面や西斜面の見通しも利く好立地にあります。
蛇行する気田川と新秋葉橋、
眼下にはスタート地点の春野ふれあい公園と天竜高校春野校舎(旧春野高校)
無名ピークの先に頭が少し見えるのが光明山。
県指定史跡 犬居城跡
犬居城は承久の乱(1221)の後、山香庄の地頭に補せられ、以降犬居の城を中心に北遠地方を代表する在地領主に成長した天野氏の居城である。
天野氏は、伊豆国田方郡天野郷を出身地とする。鎌倉時代、幕府の御家人として活躍するが、元弘3年(1333)、鎌倉討幕軍に加わり軍功を挙げている。南北朝時代になると一族が南朝、北朝それぞれの勢力に分かれて戦うなど、複雑な動きを展開したが、戦国時代には今川氏の配下として川根方面から天竜川あたりの地域に勢力を及ぼした。永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで倒れると徳川家康に属し、上洛を企てる武田信玄が北遠地方をうかがうと武田氏に従うことになった。
このような状況の中で、光明、篠ヶ嶺、樽山、勝坂などの各地に支城が整えられていったものと考えられる。天正2年(1574)徳川軍の包囲を受けたが、気田川増水のため退却する徳川軍を田能、大久保辺に追撃している。天正3年長篠の戦いで武田氏が大敗をすると、翌年再び徳川軍の攻撃を受け、ついに城を放棄して北遠の地を去っていった。
城跡は、行者山(250m)の頂きにある。山の南側は断崖絶壁で険阻となっており、北側と西側は比較的穏やかで攻撃を受けやすい。このような地勢を考慮して西側から東側にかけて物見曲輪、本曲輪、東曲輪などの諸曲輪が配され、空掘、土塁、掘切などが築かれている。現在、東曲輪周辺の空掘や掘切などの遺構がよく残っており、中世における代表的な山城として貴重である。
なお、山の南側麓の熱田平には天野氏の居館が築かれたと思われ、百首塚、的場が残っている。
県指定史跡 犬居城跡
指定 昭和六十年三月19日犬居城 犬居城は承久の乱(一二二一年)後、山香荘に地頭として入部し以来地歩を固め北遠を代表する国人領主に成長した天野氏の本城である。
天野氏は、天正四年(一五七六年)家康の攻撃を受け甲信二洲に逃れるまで二五〇年に亘り北遠一帯にその雄名を轟かせた。
犬居城跡は鐘打山(標高二九〇米)の山頂にある本丸・曲輪を中心に周囲回らした壕も極めて明瞭に現存し、山砦形式の面影を偲ぶ貴重な文化財である。
犬居城址概要
犬居城は、領主・天野氏の居城だったもので、行者山(標高250m)の頂に、東西600m、南北650mに遺構が広がる県内でも代表的な中世城館跡であり、静岡県史跡に指定されている貴重な文化財です。断崖絶壁で険阻となっている南側に対し、北側と西側は比較的穏やかで攻撃を受けやすい地勢を考慮して西側から東側にかけて物見曲輪・本曲輪・東曲輪などが配置されており、今でも空掘りや掘切等の遺構が確認できます。居城主・天野氏
犬居城・居城主である天野氏は、承久の乱(1221年)の後、山香庄に地頭として入り、以降犬居の地を中心に北遠地方を代表する在地領主となり、鎌倉時代には、幕府の御家人として活躍、南北朝時代には一族が北朝・南朝と分裂し争いが起こり、北朝方についた一族が後に勢力を大きくし、室町時代から戦国時代にかけて国人領主に成長するまでに至ります。
戦国時代には、今川氏の支配下にはいり、今川義元の忠実な家臣として、北遠の要として位置づけられていました。しかし永禄3(1560)年桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、本格的な徳川家康の遠江侵攻が始まり今川氏の手を離れ徳川に属することとなりますが、武田信玄の領国美濃と境を接していることもあり、信玄からの圧力と巧みな勧誘工作により信玄に寝返ってしまいます。これに激怒した徳川家康は犬居城を2回攻撃し、1度は徳川軍を後退させた天野氏でしたが、2回目は守り切れず甲斐に落ち、北遠の地には戻ってくることはない、という運命をたどります。
目の前に秋葉山
東海自然歩道から東尾根「高瀬古道」への分岐が解らず、鉄塔の所から強引に取付きました。
2本目の鉄塔、
ここまで作業林道と中電巡視路が複雑に入り組んでいます。
道という道(登山道)は無いので要注意。
秋葉山表参道 尾根
3本目の鉄塔は
表参道の鉄塔休憩所へと続きます。
巨木の下に道標があります。
「右 けたがわ・すぐ あきはさん・左 さかした」 天保◯年七月 高瀬村 とあります。
どうやらここは高瀬古道と気田川~坂下地区を結ぶ古道の交差点のようです。
道標があった先からは道(踏み跡)は消えて
植林帯をひたすら登って行きます。
すると再び古道に合流し
秋葉神社の第2駐車場の連絡通路へ
天気も良く、多くの参拝者で賑わう秋葉神社
秋葉山本宮 秋葉神社 上社
秋葉古道「秋葉街道(塩の道)」に残る常夜灯、
下山は久保田古道を使います。
久保田古道に残る石仏
作業林道がつづら折りに作られ、 残念ながら古道は切断されています。
気田川流域(久保田集落)から続く尾根道の「久保田古道」には
三十三観音の石仏が安置されており、
薄っすらと残る古道沿いには今でも数体の石仏が残っています。
二十三番 文化十二年 平木村 天野四時左衛門
この日は足速に下って来てしまいましたが、またしっかりと散策しながら歩きたい。
林道久保田線に合流、気田川の対岸に城山
畑木沢へと注ぐ滝
再び犬居城への入り口まで戻り終了