秋葉街道 塩の道(南塩ルート起点)・相良〜掛川




秋葉街道 塩の道(南塩ルート起点)・相良〜掛川

静岡県牧之原市 (旧相良町) から長野県塩尻市まで続く秋葉街道「塩の道(南塩ルート)」

「起点の相良」より「掛川」までの区間を歩いて来ました。

今回参考にしたのは「塩の道ウォーキング (静岡新聞社)」と

「秘境はるか 塩の道 秋葉街道 (野中賢三 有賀 競)」の2冊。

秋葉街道 (塩の道)は以前から興味があり、特に静岡側の山間部は認識しないまま、

既に大半は歩き終えているのですが、そこでよく目にしたのが「秋葉街道 塩の道」の立て札。

これは秋葉道・塩の道踏査研究会が1998年に古道沿いに438枚設置したもので、

いつかこのルートをトーレスしたいと考えるようになりました。

「塩の道ウォーキング」はこの秋葉道・塩の道踏査研究会が調査した

歴史の道にできるだけ忠実なルートや史跡・名所などが載っています。

また「秘境はるか 塩の道 秋葉街道」には歴史や信仰、風土に触れつつ、

実際に土地の人とふれ合いながら歩いた記録が写真と共に掲載されており、

こちらにはイラストマップとしてルートが載っています。

今回はその2つのルートを照らし合わせ、

事前に軌道に落とし込んでから忠実に歩いて来ました。

約20年から30年も前の本なので心配しましたが、

本に掲載されていない発見や集落の氏神様に立ち寄りながら歩くことができ、

大変楽しい町歩きになりました。

静岡県境くらいまではシリーズ化していきたいと思っています。

秋葉街道 塩の道(南塩ルート)相良〜掛川

難易度 ★     オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 塩の道起点碑
スタート地点(09:05)→13:45青田山砦跡(陣場峠)(13:45)→ゴール地点(16:04) 所要時間 6時間57分(往復) 累積標高 746m / 747m(往復) 距離 49.6km(往復)*片道27km (※往路のみ)
■秋葉街道(あきはかいどう)は、各地から秋葉大権現に通じる参詣者が向かう道の総称で、幾筋の道が存在する。「塩の道」と呼ばれるのは、遠州の相良から信州の塩尻を結ぶ約200 kmのルートである。途中の静岡県菊川市には「塩買坂(しおかいざか)」、掛川市には塩問屋が集まっていたという「塩町」など、塩にちなむ地名が残されている。終点の塩尻という地名も、相良から運ばれてきた塩の終着点を意味し、そこから更に山あいの村々へと運ばれていった場所だったことに由来する

秋葉街道(塩の道)

静岡県牧之原市 (旧相良町) から長野県塩尻市まで続く「塩の道(南塩ルート)」を起点の相良より掛川までの区間を歩いて来ました。
静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」の掛川から三倉までの区間を歩いて来ました。
静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」の三倉〜坂下までのを歩いて来ました。
静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」表参道登山口の坂下から秋葉山へ。
静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」の掛川から三倉までの区間を歩いて来ました。
静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」の下平山から秋葉山の奥の院を巡り、大滝までの区間を歩いて来ました。
静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」の西渡から水窪までの区間を歩いて来ました。

秋葉山常夜燈

田沼意次公の城下町として知られている遠州相良に塩の道の起点を示す常夜燈があります。

現在は道路の拡幅により南隣に移転されています。

再建されたのか、思いの外新しい灯篭の中には秋葉山のお札が入っていました。

今でも信仰の根付きを感じつつ歩きはじめました。

起点 塩の道の碑(相良町)

起点にある「塩の道の碑(相良町)」

「秋葉道・塩の道踏査研究会」が設置した東海道と同じデザインのモニュメントがあります。

須々木の海岸には一面に塩田が広がっていたそうす。

相良地方の塩作りは「揚浜式塩田法」と呼ばれる製法で作られていました。

大原バス停

元々、常夜燈があった塩の道の起点は相良町の大原バス停付近

小田宮様(小田宮明神)

水不足で困っていた園村(当時)を救った先人をお祀りしているお社です。

ここには「塩の道 相良案内所」が設置されており、

中には記念スタンプや小田宮明神由緒書き等があります。

天の川遺跡

国道150線と国道473号線の合流部が立体交差となっていて古道は寸断されています。

右に迂回した先に天の川遺跡があります。

弥生時代から鎌倉時代までと随分大雑把な推定年代ですが、

どうやらこの時代からこの辺りが海岸線だったようです。

天の川遺跡

ここは天の川遺跡と呼ばれる弥生時代から鎌倉時代(約1800〜700年前)にかけての遺跡です。道路工事に伴う発掘調査により、竪穴式住居跡・堀立柱建物跡・井戸・河の跡などの集落跡が見つかりました。多くの土器や、銅鏡・銅錘(軽量用具)・帯金具など特殊な製品も出土し、当時の社会と生活を知る貴重な発見となりました。

南塩ルート

相良から終着点の長野県塩尻市までを「南塩ルート(秋葉街道・伊那街道)」

新潟県糸魚川市から塩尻へと向かう道は「北塩ルート(千国街道)」と呼ばれています。

(年代によりルートは移り変わっています)

日本列島を貫く双方の総距離は350kmになり、最長最古の塩の道になります。

園坂

歩き始めて最初の坂が園坂、

登り終わると牧ノ原台地の茶畑が広がる小笠町へ。

須々木原 馬頭観音像

お正月仕様 須々木原の馬頭観音像

文化10年(1813年)8月と彫られています。

須々木原 塩の道の碑(相良町)

須々木原の「塩の道の碑(相良町)」

傍らには「秋葉道・塩の道」の立て札、

これは秋葉道・塩の道踏査研究会が1998年に古道沿いに438枚設置したものです。

またその横には「相良ヲ経テ川崎ニ至」と記された古い道標もあります。

ここからしばらく県道69号「相良大須賀線」を歩きます。

数100m程のお宅の軒先に、ガイド本に載っていない観音像がありました。

まだ覆屋が新しいことから移動してお祀りされたのでしょう。

内部の石仏をよく見ると頭の上に馬頭が彫られいるので、

こちらも馬頭観音だと思います。

峠や古道で目にすることが多い観音様ですが、六観音の一尊で、

馬は元より動物全般(六道の畜生界)を守護する仏様です。

道中の安全祈願等のため道筋に馬頭さんが数多く祀られました。

よく文字だけの石碑なども見かけますが、

こちらは供養塔としての意味合いが強いといわれています。

ここにもガイド本に載っていない石仏。

内部には千手観音と馬頭観音が祀られています。

千手観音(右) 文政13年(1830年) 3月、

馬頭観音(左) 天保10年(1839年)4月3日とあります。

三夜燈・庚申塚

北原集落の交差点には三夜燈・庚申塚があります。

こちらも古道でよく目にする庚申塔ですが、

道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔です。

庚申講を3年18回続けた記念に建てられることが多く、

江戸時代の初めに建立が広く行われるようになりました。

道祖神のように村や辻の守り神の役割を果たしています。

津島神社

北原の津島神社、御祭神は建速須佐之男命

北原公会堂前に鎮座します。

西原集落のお社

新野原 塩の道の碑

馬茶屋跡に観音堂

薬師如来がお祀りされています

馬茶屋跡

現在は茶農家のお宅ですが、当時はうどんや蕎麦などを売っていました。

相良から塩や魚、掛川からは米お茶を運んだ人馬がここで休んだそうです。

三夜燈

塩買坂へと下る手前にある「三夜燈」

慶応4年(1868年)と刻まれています。

先程、北原集落にもあった三夜燈ですが、

聞き慣れない言葉に後日調べると、月待信仰の行事の一つで、

二十三夜待の講中が建てたのが三夜燈とのことでした。

月待(つきまち)とは民間信仰の一つで、同信者が十五夜・二十三夜など

特定の月齢の夜に集まり、月の出を待ってこれを拝むことをいいます。

太陽と月は古代から信仰の対象でしたが、江戸時代になると、

本来のお籠もりの姿は共同飲食の場へと変わり、

農村ではこれに作神信仰の要素も加わって行きました。

塩買坂

今川第6代義忠 (義元の祖父) が横地氏の残党に襲われ悲報の死を遂げた場所で、

徳川・武田の戦跡でもあります。

武田陣場跡

元亀2年(1571)、武田信玄は高天神城をうかがい塩買坂に陣を張り、また、天正2年(1574)には武田勝頼もまた高天神に向かって出兵し、塩買坂に布陣したという。相良からの旧信州街道は新野原からもとの正林寺坂(旧坂)に下る。この坂を塩買坂(性海坂)と呼んだ。この坂からは眺望絶景で小笠平野を通し、高天神城が指呼の間にあり、立地条件から戦略上最適の地といえよう

中坂

中坂を下る。

塩買坂の旧道は坂の途中から正林寺前を経由します。

現在この道は断続的に残っているそうですが、藪に覆われ確認出来ません。

また分岐手前に金比羅神社があるそうですが見つけられませんでした。

中坂を下って合流するこちらのルートに道標があり、

昭和初期まではここを本道として利用していたそうです。

徳本堂

正林寺と中坂の合流点にあるお堂は徳本堂(徳本様)と呼ばれています。

相良の海を訪ね、この地で病に倒れた徳本上人を祀ったと伝わります。

塩買坂の戦い

塩買坂から正林寺への参道入り口には

「塩買坂の戦い」の灯篭が建っています。

塩買坂の戦い

文明八年(1476年)4月6日、横地城と勝間田城を落とした今川義忠が、凱旋途中の塩買坂にて残党に襲われて討死しました。

静岡県菊川市東横地にある国指定史跡の「横地城跡」室町時代に遠州の有力な国人でった「横地氏」の本拠地として築かれた山城です。横地氏は藤原氏の血を引く豪族で、鎌倉時代から室町時代にかけて約400年間、遠江の地に君臨しました。当時の駿河の今川義忠と遠江の斯波義廉との争いにおいて、斯波氏方につき敗北横地城も1476年に焼き討ちされ落城、横地氏は滅亡しました。なお、今川義忠もこの帰路に夜襲を受けて討ち死にしています。ここ横地城のある旧横地村は横地氏の名字の由来となった土地であり、かつ全国の横地姓発祥の地とされます。

正林寺 山門

今川氏親が塩買坂で亡くなった、父 義忠菩提を弔うために永正14年(1517年)に建立。

当初は昌桂寺と称しました。

正林寺 本堂

正林寺

文明8年(1476年)、今川義忠は横地氏・勝間田氏を討ち取った帰り道に、「塩買坂」へさしかかったところで、横地氏残党に不意をつかれて討ち取られてしまいました。 その後、永正14年(1517年)に義忠の子・氏親が弔いのためこの地に「昌桂寺」を建立。のちに「国源山正林寺」となりました。 現在、義忠の位牌と五輪塔・家臣の墓があり、市指定の有形文化財「今川六代義忠の木像(香を聞く義忠像)」が安置されています。 また、本堂には雅号・月花園が描いた、4枚1組で左右1対の見ごたえある襖絵があります。

今川義忠公の墓

今川義忠公の墓

文明八年(一四七六)この地で絶命した今川義忠公迫善のため永正十四年(一五一七)その嫡子氏親公 国源山昌桂寺を開創し後、昌林、正林と寺名を改めて今日に及んでいる

法名 長保寺殿桂山宗昌大禅定門

今川氏家系図

範忠(五代)ー義忠(六代)ー氏親(7代)ー氏輝(8代)ー義元(9代)ー氏真(十代)

再び県道69号「相良大須賀線」へ合流して

川上新池近くのお社へ

曹洞宗 正覚寺

いちんば(いちば)の常夜燈

上川市場は、相良からの塩や海産物と、

秋葉・信州からの産物を交換商いの場として栄えた宿場町でした。

丹野川沿いを歩く

川原のお地蔵様

立て札には「川原組のまもり神」とあります。

この辺一帯は武田・徳川軍の激戦地であったそうです。

内部にはお地蔵様や秋葉山のお札の他、

馬頭観音や風化により識別出来ない辻仏が祀られています。

猿渡地区 亥之宮神社

下平川地区 臨済宗 好運寺

今回ルートから外れているので立ち寄りませんでしたが、

牛淵川と菊川の間には重要文化財に指定されている「代官屋敷 黒田家住宅」があります。

好運寺は臨済宗妙心寺派の寺院。

江戸時代に小笠地域を治めた代官の黒田家の菩提寺で、

1585年(天正13年)創建とされています。

石原集落にあるお社

南無青面金剛王尊とあります。

青面金剛とは庚申講の御本尊、庚申信仰の中で独自に発展した仏様です。

慶長の頃、現在の牛淵川が流れている所には塩の道が通っており、

牛淵川はこの石原集落を流れていたそうです。

洪水により流れが入れ変わったのだといいます。

堤集落 春日神社

春日神社 拝殿

ここから尾根上に城跡が続いており、春日城跡とも呼ばれています。

現在「堤城」とされているのは隣の標高30m程の小山の事をいいますが、

規模的にこちらが本城であった可能性も高いといいます。

堤城跡 登城口

立て札や案内板がありこちらは整備された城跡です。

両城の間を塩の道の近道が通っていたとの記録もあります。

堤城跡 

堤城跡は菊川市下平川城山の地に鎮座します。

周辺域を含め発掘調査が行われていないため、築城・廃城ともに正確な年代は不明です。

牧之原台地から西に派生する尾根の先端部を利用して築かれ、現在は尾根上に曲輪と考えられる平場がいくつか見られます。

城を尾根から切り離す東端の堀切は、後世にさらに削られ、相良(秋葉)街道として利用されたようです。

堤城跡の名は戦国時代の資料には見られませんが、「遠江国風土記伝」には城跡の図とともに、「堤ノ城跡 平川村に在り、松井左衛門亮住し、天正以後廃る」と記されています。

図では城の南東、現在の墓地のところを松井屋敷跡としています。

城主 松井左衛門尉信薫夫妻の供養塔

2郭 天満天神宮

1郭 津島神社・八幡神社

四等三角点(城山)

堤城跡

牛渕川にかかる城下橋の東側の小山(標高36.4メートル)が堤城跡になります。 永正年間(1,504年~1,521年)に今川家臣・松井左衛門尉信薫が築城したという記録が残されています。 堤城は戦乱に巻き込まれることなく、信薫のあと城主となった弟の宗信が享禄2年(1,529年)、二俣城主として移ったことから廃墟となったといわれています。 城跡に立つと南側の展望が開け、下平川の街並みを眼下に見わたすことができます。

富士山見晴らし台より

ここから静岡県道37号「掛川浜岡線」を交差しながら歩き進めます。

吉川神社

下内田地区 吉川神社

この神社の手前を塩の道は通っています。

今は畑となっている神社の左の広場は当時塩の荷継場で大変賑わったといいます。

吉川神社

菊川市下内田一二五七番地

等級十一等級

御祭神 素盞嗚尊 配祀 猿田彦命 火産霊尊

由緒

創建は室町時代(1338年〜1573年)およそ七百年前と伝えられています。

戦国時代には、武田家の崇拝篤く、寺領寄進の御朱印を賜りました。

天正年間 高天神合戦の際、兵火にかかり社殿古文書ことごとく烏有に帰す。慶長十二年三月再建以来、七回ほど造営の棟札があって最も新しいもので明治三年の御造営があります。

この神社は、従来、牛頭天王社と称していましたが明治四年地名をとって古川神社と改称しました。明治八年無格社天白神社(字八反坪)高田神社(字太郎坊)を合祀しました。明治十二年九月村社に列格、明治四十年一月神饌幣帛料供進神社に指定されました。昭和十九年十二月七日 東南海大地震により、鳥居笠木落下折損燈篭二基倒壊の被害を受けました。昭和五十三年六月、本殿修復並びに水天宮屋根ふき替え工事を行いました。昭和五十八年九月鳥居笠木修復並びに水屋改築工事を行い続いて六十一年十月拝殿両翼に部屋増築工事を行いました。倒壊した燈篭も平成七年に復元されました。

吉川神社の常夜燈、明治3年12月とあります。

耳川地区

道脇に明治初期の辻仏

石碑には「青面金剛」の文字があることから、庚申講の碑(庚申塔)です。

塩の道の碑(菊川町)

応声教院前にある 杉森の「塩の道の碑(菊川町)」

応声教院の参道前にある

遠州七不思議の一つ「片葉の葦」 刈られてしまっています。

遠州七不思議(えんしゅうななふしぎ)とは、静岡県の遠州地方に伝わる七つの不思議な物語のことです。遠州七不思議といっても組み合わせには諸説あり、合わせると7つ以上存在します。地域によって話が違っていたり、一定したものではないようです。

応声教院

重要文化財に指定されている山門

参道には道祖神や馬頭観音像などの石仏が並んでいます。

こちらは何度か訪れたことがあるので今回は寄りませんでした。

桜ヶ池(御前崎市)の竜神伝説、皇円阿闍梨に由来する寺院です。855年(斉衡2年)勅願により円仁が創建したと伝えられています。その後、弟子の法然上人が恩師 皇円阿闍梨をしのび、桜ヶ池を訪れた帰途に立ち寄り、天台宗を浄土宗に、天岳院を応声教院に改名したと伝えられ、皇円阿闍梨菩提所、桜ヶ池奥ノ院とも呼ばれています。国重要文化財に指定されている山門は、切妻造、本瓦葺の門です。1628年(寛永5年)に静岡市常盤町にあった宝台院の山門として建てられ、1918年(大正7年)に応声教院に移築されました。寺の南側には、遠州七不思議のひとつの「片葉の葦」があります。

中内田地区へ、ガイド本では秋葉燈があるはずの所に杭の道標のみ、

後日調べるとかなり古い物だったため取り壊されてしまったようです。

問屋の屋敷跡

問屋の屋敷跡には御門公会堂と薬師堂

笠川を越えた所に常夜燈があるはずですが、

お堂があるのみです。

おんびん様

中内田地区 熊野神社

桶田集落 塩の道の碑(掛川)

上内田地区 段金谷へ、ここにはお堂があります。

段村観世音とあり

公会堂を兼ねたような作りです

段金谷 秋葉燈(鞘堂)

ここには庚申塔がある事になっています。

よく見ると先程の青面金剛明王の石仏、

同じく庚申講の石碑に刻まれることが多い三猿が描かれているので

こちらのことだと思います。

横には道標があります

(左) 中内田村 (後) 板澤ヲ経テ掛川 (左) 大頭龍 堀之内

上内田 天神社

続いて下板沢地区へ

小学校を過ぎた先 この辺に塩問屋があったといいます。

下板沢 福田寺

この寺の前が荷継ぎ所で明治の中頃までは大変賑わっていたそうです。

古い道標 (右) 杉谷道 (左) 掛川道

板沢神社 前 秋葉燈(鞘堂)

鞘堂(龍燈)とは建造物を守るため、外側から覆うように建てた建物で、

内部には常夜燈やお札、小さなお社が入っているものなど様々です。

こうした常夜燈や鞘堂は秋葉山へ参詣する人々の道しるべとして

街道沿いや村の辻などに建てられました。

また街道沿いでない場所にも数多く見られるのは、

町内の安全や防火を祈願して市内の集落に広がったからといわれています。

内部のお札

上板沢 塩の道の碑(掛川)

秋葉神社

秋葉燈(鞘堂)

坂の手前には秋葉燈(鞘堂)

こちらの内部もお札がお祀りされています。

ここから陣場峠へ向けて標高差50mを登る。

明治19年 (1886年)に旧青田トンネルが開通するまで

塩の道はここを通っていたといいます。

陣場峠 塩の道の碑(掛川)

またの名を青田山砦

徳川家康が掛川城攻めの際に陣地としたためにこう呼ばれるようになったそうです。

陣場峠

家康の掛川城攻略の拠点

ここは、掛川市杉谷と板沢の頂点境で、もとは青田嶺といわれ、市の中心までは約1㎞の位置で二つの峰からなっている。

西を西陣場その西を蛇バミ峠といい東を東陣場という。 永禄11(1568)年、徳川家康は武田信玄と大井川を境にして駿河・遠江を分割することを約束し、遠州に進攻した。

同年12月今川氏真は信玄に駿府を追われ、掛川城の家臣朝比奈泰朝に身を寄せた。そこで、当時26歳の家康は6ヶ月にわたってこの城を攻めた。この掛川城攻めの際この山上を陣地としたので陣場峠とよばれるようになった。ふもとには、取手、矢崎などの地名が残っている。

また、天正2(1574)年、武田勝頼が高天神城(大東町)を攻めると、城主小笠原長忠は奮戦して浜松城の家康に援軍を求めた。家康は使者に向って、「援軍が必要な時には青田山(陣場峠)に狼煙を揚げよ」と言った。しばらくして青田山より狼煙が三回ほど揚げられたが援軍は来ず、城兵の食料はなくなり、力がつきてついに武田氏に降参することになった。

当時、ここを高天神城の信号所として家康は目をつけていたのである。

陣場峠より

掛川市街地 ここからは整備された登山道を下り、

静岡県道403号「磐田掛川線」から静岡県道38号「掛川大東線」へ

東名高速を越えた先、住宅地の間を塩の道が続きます。

道祖神

大日寺脇を通る塩の道(相良街道)には何体かの石仏がまとめて並んでいます。

一番左はこの辺では数少ない道祖神

庚申塔

掛川駅に到着、 次回はここから歩きたいと思います。

秋葉街道は「掛川宿」「浜松宿」「御油宿」や信州方面からなど、

秋葉山を中心に放射状に様々な道が存在します。

江戸時代中期頃から秋葉信仰が全国的に広がりをみせるようになると、

こうした東海道の宿場町から数多くの人々が秋葉山へ向け詣でたのだと思います。

元々、遠州と信州の物資流通・文化交流の道としての役割を担っていた「塩の道」は、

この先こうした秋葉信仰の道と合流し、物流・信仰の道となっていきました。

帰りの園坂より

  • このエントリーをはてなブックマークに追加