戦国夢街道ハイキングコース (周智郡森町ウォーキングコース12選)




戦国夢街道ハイキングコース (周智郡森町ウォーキングコース12選)

遠州森町ポータルサイト”ええら森町”
http://enshu-mori.jp

森町歴史民俗資料館へ訪れた時に頂いた

「周智郡森町ウォーキングコース12選」マップ

近場なのでこれまで数コースを巡ってきました。

今回は、戦国時代 武田・徳川の戦さ場であり

また甲州街道(秋葉街道)通称 塩の道と呼ばれる

歴史溢れる街道をめぐる「戦国夢街道ハイキングコース」を歩きました。

森町歴史民俗資料館の記事

森町ウォーキングコース12選『歩く森町』
⑫戦国夢街道ハイキングコース

森町を通るこの道は、古くから遠江国(静岡県)と信濃国(長野県)を結ぶ
「塩の道」とも呼ばれる。
森町は、山中一円の物資の集散地であり、
「森口・二俣口」は重要な山中への玄関口でもありました。
戦国時代には、多くの武将が森の市場を重要視し、これより続く塩の道は、
物資の交易に欠くことのできない重要な街道でありました。
天正2年(1574年)、徳川家康は武田方天野氏の居城「犬居城」(春野町)を
攻撃しますが、大雨により気田川が増水し進軍ができず、
兵糧もつき退却を余儀なくされます。
軍勢を引き上げる途中、徳川軍は天野氏の追撃を受けます
。三倉山中が険しい道であり、悪戦苦闘の末家康は命からがら逃げのび、
天方城(森町向天方)にたどり着くことになります。
この戦いは、徳川軍にとって多くの武将を失う散々な負け戦でありました。
今も、武将の霊を弔う幾つかの塚やこの戦いの言い伝えが残されています。
また、この道、江戸時代には火伏せの神「秋葉山」への表参道として「秋葉街道」と呼ばれ、
多くの道者が行き交う「信仰の道」でもあり、
秋葉常夜灯や道標などに今もその面影を伝えています。
自然と歴史が残されたこの山や原野は、
今から約400年前多くの武将が必死になって戦った場所であり、
武将たちの夢にちなみ、この道を「戦国夢街道」と名づけ、
自然に親しみながら歴史を散策いただけるようハイキングコースとして整備しました。
ここに残された自然と歴史を堪能してください。

(1)塩の道コース/コース延長:8.5キロ、所要時間:約3時間

(2)三丸コース/コース延長:5.5キロ、所要時間:約2時間

(3)半名コース/コース延長:4.1キロ、所要時間:約1時間20分

万歳坂

この地域一帯は、浜松城の徳川軍と犬居城の天野軍(武田方)
の戦った古戦場である。
戦いを優勢に展開した天野軍が、この附近で勝ちどきをあげたので、
ここを「万歳坂」と呼ぶようになったと言われている。
近年まで、武士が着用した鎧などの金銀を含んだ「銀石」という石が出ると伝えられ、
子供たちは、その石探しに興じたものである。
むかし、秋葉街道がにぎわったころは、この附近に法度、
掟書や罪人の罪状を記した立札の立てられる高札場があったと言う。
村の子供たちは、秋葉山に参る「秋葉道者」のあとを追いながら、
「道者道者一文銭おくれ。くれる道者は米道者。くれぬ道者は糠道者。」とはやして、
この万歳坂を上り、花立の茶屋まで後を追ったそうである。

花立茶屋

当地は、一の瀬から田能に至る中ほどにあり、
往時は旅人の行き来でにぎわってた。
花立家は、昔から茶屋を営むかたわら、
馬による生活物資の輸送などを明治初年まで
家業にしていたということである。
元禄四年には、苗字帯刀を許され、代々の当主は、
花立孫四郎を名乗った。
花立姓の由来は、この家の前を何時通っても、
いろいろな花が咲いていることから、
時の代官が感心し、花立姓を与えたと言うことである。
十返舎一九の名作「東海道中膝栗毛」のもじり「秋葉街道似多栗毛」には
次のような狂歌がうたわれている。
「馬に乗り駄賃おこせときかしまに落ちてお客はしり花立」

馬墓地

この静かな森を、昔からこの地域の人々は「馬墓地」と呼んでいた。
その地名を解く鍵は、遠く戦国の世に求めなくてはならない。
戦乱の世、この地域は、徳川と武田の戦闘の舞台となり、
多くの死傷者が出た。
戦乱の犠牲は人ばかりか、馬も数多くたおれた。
その時、馬をここに葬ったのが初めと言われている。
その後も、馬は陸上交通の主役であった。
江戸時代はもち論の事、明治、大正、昭和初年までは、
この森は公認の馬の墓地であった。
古老の話では、牛舎をひいた牛も葬ったことがあったと言っている。
車社会と言われる現代では、忘れられてしまいそうである。
しかし、この馬墓地という名称は、人間と馬との長い間の結びつきを表す、
忘れてはならない絆としての証である。

コースを進むと分岐点。

最長の塩の道コースへ、三丸コースは(塩の道コース)の短縮版。

別途、唯一違うコースを巡る、半命コースへの分岐でもある。

整備された舗装路を挟み旧道が続いている。

ここが古の人々が往来した塩の道だと思うと感慨深い。

地蔵森

昔から村の人々は、ここに祀られているお地蔵様を敬い、
この辺りを地蔵森と呼んで親しんで来ました。
地蔵森のお地蔵様を、ここにお祀りした時期や経緯については、
はっきりした記録は残っていませんが、伝えるところによりますと、
徳川五代将軍綱吉公治世の元禄のころとも言われています。
これは、今からおよそ三百年前になります。勧請のいきさつについては、
或いは、村に疫病がはやり子供が不幸にあったとか、
もしくは旅人が災難にあったなどが考えられます。
それと言うのも、地蔵菩薩は「衆生を教化済度する仏様」であり、
特に日本では「旅人や子供を守る」という信仰があるからです。
また、この地蔵森のお地蔵様は、穴のあいた石を供えて耳の病気平癒の「願掛け」をすると、
大変御利益があると言われています。
さらに子供を育て、飢餓をお救い下さるとも言われています。
年に一度、七月二十四日の盂蘭盆には、村人は諸物をお供えし、
僧侶を招いて「地蔵施餓鬼」と称し、精霊とお地蔵様の供養をしております。
いわば、お地蔵さまは村の人々を護り、村の人々はお地蔵様を守ってきたのです。

三倉 八幡神社の記事は別にまとめてあります。

三倉 八幡神社(大久保) 周智郡森町三倉の記事

うぐいす餅

三倉の名物うぐいす餅については次のような逸話が伝わっています。
戦国時代も末のある春の日、三倉の里の一軒の茶屋に腰をおろした、
いでたちも凛々しい一人の武士がありました。
茶屋の婆さんはまずお茶を進ぜ、
続いて京葉と大豆をつぶしてまぶした餅をさし出しました。
この餅は、この茶屋に限らず、このあたりの家々では賓客の来訪があった時には、
必ずと言っていいほど食膳に供したものだということです。
武士は一口頬張るとその美味を賞し、餅の名を尋ねましたが、
別に名前はないという、そこで武士は
「形といい、色といい鶯にそっくりじゃ、〝うぐいす餅〝と名付けたらよかろう」
と言い残して秋葉を指して立ち去って行ったそうです。
この武士こそ誰であろう、戦国の名将とうたわれた山中鹿之介その人でした。
それからのち「うぐいす餅」は三倉の名物となり、
鹿之介が立ち寄った茶屋は「うぐいす屋」と呼ばれ、
大正時代まで続いたということです。
近くには「うぐいす沢」と呼ばれる流れが三倉に注いでいます。

若杉家の屋敷跡

交通が近代化された今、このあたりの昔の繁栄を知る由もないが、
室町時代の終わりごろ、秋葉街道と百古里街道が交差していたために
人の行き来もあり、ここに山田家という店ができた。
この山田家が商いを始める前に、武田方の軍師山本勘助が一夜の宿を借りた折、
この家の主人に商をすることをすすめたと言う。
その後、土地の産物や米、塩などを一手に扱う店になった。
さらに山田家では、三丸山の湧き水を利用して酒を造り「若杉」と名づけて、
これを商った。
この酒が有名になり、やがて若杉は山田家の屋号となった。
幕末から明治にかけて結構繁昌したが、この街道が役目を終えた明治三十年頃、
当主山田最一郎の代を最後にこの里を離れて行った。
今は茶畑になっているが、矢場跡、ツキヤ沢、屋敷跡などに
昔をしのぶことができる。

板妻の里

この辺りは、いつのことかは分からないが、
昔から板妻の里と言われていた。
昔、信州街道に沿っていたので、人々の行き来も多く、
また、この道を別名塩の道とも言われるほど、
物資の流通もまた盛んに行われていた。
山村のこの村は、杣や木挽を生業とする男たちが多く、
この人たちが伐り出した角材や板は、各方面に売られていった。
起伏の激しい山道では、これらの材は人力で運搬しか方法はなかった。
いきおい女性たちが木材加工の手伝いや運搬の担い手となり、
板を干したり運んだりした。
当時、大久保の若杉商店が、この材料を買いとり商いをしたので、
なかなか盛況であった。板を背負う妻たちの姿を見て、
誰言うとなく板妻の里というようになったと言われている。

秋葉街道の道標

この道標は、田能のこの地が、東海道掛川の宿から、
七里の道のりであることを表したものです。
江戸時代の終わり頃、秋葉信仰の江戸講中の人々によって
建てられたもので、現存する数少ない道標の一基です。
遠い昔から人々の信仰の大部分は、各種の災難(刀難・火難・水難など)から
免れることを神仏に祈るというものでした。
ところが、江戸中期になると幕府による治安が良くなり
刀難と言われる災禍の恐れは薄らいできましたが、依然として多いのは、
水害や火災による災難でした。
特に、江戸中期の亨保から安永にかけての約五十年間には、
江戸の華と言われた小さな火事は別としても、
江戸大火と命名された火災は、実に七回も記録されでいます。この江
戸の大火は、江戸の人たちのみならず、広く全国の人々に火難の恐しさを知らしめ、
火防の神仏、秋葉山への信仰はいよいよ盛んとなり、参拝の人々の数も多くなりました。
加えて、水難除けの霊験もあらたかな光明山があり、
両山への連続参拝の人々で、街道は大いに賑わったと思われます。
振り分け荷物を肩にした旅人は、昭和の初めごろまで見られたと言われています。

静岡県の指定文化財「大般若経巻物600巻」が

寺宝として保管されている蔵泉寺(ぞうせんじ)の記事です。

龍池山 蔵泉寺(ぞうせんじ) 周智郡森町三倉田能の記事

徒歩でないと訪れることのできない山間にある八坂神社。

現在 蔵泉寺に保管されている「大般若経巻物600巻」が

元々納められていた神社です。

三倉 八坂神社 周智郡森町三倉田能の記事

途中、休憩地からの道を間違えて元来た道の方へ

この後、高塚山を目指す予定だったので少し近道です。

高塚山(496m) を目指します。

高塚山(496m) 周智郡森町三倉の記事

中野地区に鎮座する白髭神社(しろひげじんじゃ)

三倉 白髭神社(しろひげじんじゃ) 周智郡森町三倉中野の記事

七人塚

この塚は、今を去る四百有余年前、
戦国の世に散った武将たちの眠る供養の塚です。
天正二年四月(1574年)徳川家康は、自ら兵を率いて
武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました。
折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻どころか、
ついには兵粮がつき一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。
一方、この状況をいち速く察知した天野軍は、すぐ様反撃に転じ、
田能・大久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも、
雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川軍に、地の利を生かして襲いかかったのです。
徳川軍は、深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。
応戦しようものなら雲を霞と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
徳川軍は、一之瀬まで退く間に、多くの武将や兵士が討死したり負傷したりしました。
古い資料によりますと。
討死した武将は、鵜殿藤五郎、堀平八郎、堀小太郎、小原金内、大久保勘七郎、
玉井善太郎等二十余人と記されています。
土地の人々は、この将兵たちの亡骸を葬り、「七人塚」と呼んで香華を手向け、
盆には僧侶を招いて読経をするなど、四百年もの間、手厚く供養をしてきました。
夏の日、塚の前にたたずむと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の心ばえを思い、
昔日の姿が目の前に髣髴として、感慨一人であります。

鵜殿渕

天正二年(1574年)四月、徳川家康は兵二千を率い、
犬居城を指して信州街道を北上した。
一之瀬より大久保、田能を経て、気田川のほとり、犬居の瑞雲寺に本陣を張った。
たまたまその夜から雨が降り出し、折からの梅雨時で激しい雨は二日二夜降り続いた。
気田川は増水し各所で氾濫した。
徳川軍は、帰路の悪化と腰兵糧の事態を考え、軍議の末、
信州街道を一之瀬さして撤退することとなった。
一方、犬居城の天野軍は、武田方の軍監、謀将真田昌幸の指揮のもと、
一旦は気田に退いていたが、徳川軍の動きを一早く察知するや反撃に転じ、
猟師姿の兵を山林内に出没させ、撤退する家康軍におそいかかった。
徳川軍の武将は善戦したが、不案内な地形と山岳戦に手をやき、敗走を続けた。
ついにこの一之瀬の地で徳川方の武将「鵜殿藤五郎光成」は戦死をとげた。
時に天正二年四月六日であったと「三河物語」は伝えている。
※真田昌幸は、真田幸村の父

結果、戦国夢街道ハイキングコースの塩の道コースを途中離脱、

半命コースから高塚山を巡りました。

ほぼ全コースを回りましたが、

案内板や由緒書きなど、かなり整備されており

道は楽しく解りやすいです。

歴史好きの人はもちろん景観も良く

初心者でも安心して楽しめる良コースです。

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