秋葉街道 塩の道(南塩ルート)・掛川〜三倉




秋葉街道 塩の道(南塩ルート)・掛川〜三倉

静岡県牧之原市(旧相良町)から長野県塩尻市まで続く「塩の道の南塩ルート」

前回の続き掛川から三倉までを歩いて来ました。

今回も前回と同様に

「塩の道ウォーキング(静岡新聞社)」と「秘境はるか 塩の道 秋葉街道(野中賢三 有賀 競)」

の2冊を参考に、出来るだけ忠実に歩いて来ました。

掛川宿からは東海道を西に進み、旧国道1号線の倉真川に架かる大池橋を渡ると、

歌川広重の「東海道五十三次」にも絵描かれた秋葉街道一の鳥居があった地点

(現 秋葉神社遥拝所)より、いよいよ秋葉街道へ入って行きます。

最盛期にはお伊勢参りに行く人の8割は東海道から秋葉街道に入り、

秋葉山や光明山を両参りして浜松宿、鳳来寺を通って御油宿 等へ抜けたと言われています。

風情を残す町並みや街道の趣きを残す細道、秋葉灯籠や鞘堂(龍燈)の数も増し、

見所の多い区間でした。

秋葉街道 塩の道(南塩ルート)掛川〜三倉

難易度 ★     オススメ ★★★ 登山口(ナビ検索) 掛川駅
掛川駅(08:34)→東海道26宿掛川宿(09:09)→原田駅(12:09)→戸綿駅(12:48)→森駅(14:37) 所要時間 6時間01分 累積標高 518m / 7504m 距離 39.5km
■秋葉街道(あきはかいどう)は、各地から秋葉大権現に通じる参詣者が向かう道の総称で、幾筋の道が存在する。「塩の道」と呼ばれるのは、遠州の相良から信州の塩尻を結ぶ約200 kmのルートである。途中の静岡県菊川市には「塩買坂(しおかいざか)」、掛川市には塩問屋が集まっていたという「塩町」など、塩にちなむ地名が残されている。終点の塩尻という地名も、相良から運ばれてきた塩の終着点を意味し、そこから更に山あいの村々へと運ばれていった場所だったことに由来する

天竜浜名湖鉄道「遠州森駅」より掛川へ(¥480-)

天浜線掛川駅

大日寺

前回立ち寄り忘れた大日寺へ

ここには塩の道の傍らに置かれていた「キリシタン燈籠」があります。

キリシタン燈籠

キリシタン燈籠

所在地 掛川市南二丁目20-12 大日寺
高さ1.045メートルの棹石で造られ、織部燈籠の型をしており江戸時代中期の作と思われる。
下の部分には聖母マリアと思われる彫りものが刻まれ、その上に文字が記され、HIS(キリストを示す合字)Filio(聖子キリスト)Patri(天の父)を表すPTIとか種々の説があるが判然としない。
明治の初め、当時の東側を通る旧相良海道(塩の道)の傍らに、なかば土に埋もれていたものを掘り出し、ここに安置したとの言い伝えがあり、江戸時代徳川幕府がキリスト教禁止令を布告し、禁制がきびしくなったため土中に埋めたと考えられている。
昭和6年1月松村茂助氏によりキリシタン燈籠と確認され、昭和40年2月1日に掛川市有形文化財に指定され現在に至る。
幕府の弾圧を受けても信仰の灯を失わず、この灯篭に祈りを託した民衆の心がしのばれる。
なお、大須賀町の撰要寺にも同型の灯篭がある。 掛川市教育委員会

道祖神

村の守り神として庚申塔や月待塔、お地蔵様などと一緒に、

辻や峠、村境などに祀られた道祖神ですが、

神体は丸石や石塔、藁で作られた草履や人形、夫婦の形の石像など様々です。

日本の民間神の中でもっとも親しまれている神様の一つで、

多様な信仰や神と習合して地域ごとに本当に色んな意味を持つ

庶民の生活に根付いた神様です。

外から悪いものが入って来るのを防ぐ為、塞の神(さえのかみ)との呼び名もあります。

遠州地方には数少ない道祖神ですが、

こうした信仰も塩の道を通り信州よりもたらされたものの一つです。

挙張神社

挙張神社ではどんど焼き (左義長)の最中

小正月に行われるこの行事ですが、道祖神のお祭りとする地域も多いです。

ここから茶畑の上の旧道をぐるっと塩町方面へ、

撮り忘れましたが、素掘りのトンネル跡なんかも残っています。

挙張神社 (あげはりじんじゃ)
祭神
素佐之男

摂社祭神
八幡神社 誉田別命
神明神社 天照皇大神
天白神社 猿田彦命

塩の道(掛川)の碑

東番所跡にあるモニュメント

この辺の地名は「塩町」、文字通り当時は塩問屋が軒を連ねていた所ですが、

今は何の面影もありません。

七曲り

葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門があったそうです。

この門から西が宿場の中で、ここから東海道は南に折れ、

道が鉤の手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入って行きます。

七曲は容易に敵を進入させないための構造だと考えられ、

七曲りの終点には城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。

七曲り

葛川と新町の境に堀割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道 は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲りは、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲りの終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。
新町は、山内一豊 が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(一六二〇)町として認められました。

大手門通り

東海道へ、通りの先に見えるのが掛川城の大手門。

古いものは明治初期に袋井市にある油山寺に移築され、

国の重要文化財として現存しています。

現在の物は天守閣に続いて平成7年(1995年)に復元されたものです。

掛川城

安政東海地震(1854年)で倒壊後、放置されていた掛川城天守は

平成6年(1994年)地元有志の5億円もの寄付、

市民や地元企業など合わせて総額10億円の寄付により、

国内初となる本格木造天守として140年ぶりに復元されました。

寄りたい気持ちを抑えて先を急ぎます。

清水銀行

山内一豊・千代夫人の浮彫刻。

若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が秘かに蓄えた黄金をもって

願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられています。

掛川は、こうした街の景観に配慮した建物が多く、歩いていて楽しいです。

由来 

天正十八年 掛川城主であった 山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が秘かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
後日 土佐高知城主として明治維新の山内容堂 に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。
清水銀行

掛川城蕗の門(円満寺山門

円満寺の山門は、掛川城 の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門です。

大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、

小さいが重要な門であったといいます。

廃城後の明治五年(一八七二)に円満寺が買い受けて、現在地に移築されました。

掛川城蕗の門(円満寺山門)

掛川市指定文化財 掛川城蕗の門
種別 有形文化財建造物
所在地 掛川市掛川四五九
所有者 円満寺

この門は、掛川城 の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二之丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。
廃城後の明治五年(一八七二)に円満寺が買い受けて、現在地に移築した。
その時に、柱の下を二尺五寸(約七十六センチ)切り取って山門にしたといわれている。
昭和三十五年五月三十一日指定(案内板より)

血洗川

東海道が緩やかに右にカーブし小川を越えた所に、

秋葉山常夜燈と「東光寺」の山門、立派な松の木があります。

この辺りの地名は「十九首」

何故こんな物騒な地名で呼ばれているかと言うと、

平将門及び家臣十九人の首級の検視がこの地で行われたという伝承があるからです。

この小川も平将門らの首級を洗ったとされ「血洗川」と呼ばれています。

秋葉山常夜燈

東光寺

東光寺は養老(720年代)行基菩薩が開基。

平将門の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、

ここにあった草庵に祀り平将寺を建立いたしました。

天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、

東光寺に改称とあります。

東光寺と成田山の由来

当寺は、掛川市十九首町にある曹洞宗の小本寺であります。起源は、養老(720年代)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、天慶の乱後(940年)将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。天文(1530年代)永江院四世、雪窓鳳積大和尚により曹洞宗に改宗、東光寺と改称しました。その後、兵火により焼失いたしておりますが、慶応3年(1867年)玉澗観嶺大和尚一宇を建て、法地と成し、現在に至っております。

成田山 不動明王尊
東光寺本堂の東側に続いて建てられてある御堂です。将門に関係のある十九首町に於いても当山鎮守として不動尊を祀ろうと明治10年千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立しました。大正14年8月、堂を増築して別格大本山成田山新勝寺より遠州唯一の遙拝所として認可され、毎月28日を縁日と定め厄除不動尊として信仰を集めています。
不動明王は大日如来の化身にて一切の悪魔を隆伏するために忿怒身を現しています。

旧跡 十九首塚

東光寺の裏から墓地を抜けた先に「十九首塚史跡公園」があり、

その奥に平将門の五輪塔を取り囲むようにして、一門18基の首級を祀る首塚があります。

平将門を討った藤原秀郷が首級を携え上京、掛川宿で勅使の検視を受検後、

「逆臣なりとも滅びた後は屍に鞭打つは非礼」と首を埋葬し

懇ろに供養したと伝わるそうです。

長い歴史を持つ十九首塚は、町の守り神として地域や保存会の皆さんにより大切に祀られ、

春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養祭が行われているそうです。

また、永禄5年(1562年)

井伊谷(浜松市北区引佐町)の領主、井伊直親が駿府に向かう途中、

十九首の地で掛川城主朝比奈泰朝らに討たれたとされています。

十九首塚も実は井伊直親とその家臣を祀る塚ではないかという説もあり、

井伊家ゆかりの方々も参拝に訪れるそうです。

十九首塚の由来

ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚 です。
人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に桓武天皇の五代の孫で相馬小太郎将門 という武将がおりました。
承平五年(西暦935年)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自ら新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この叛乱に、朝廷から大規模な将門征討が興され、平貞盛、藤原秀郷 らにより、将門は天慶三年(西暦940年)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上る途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣されこの地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。
首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。
この後、歳月の流れと土地開発等の為、移動し現在に移りました。ここ十九首塚 には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。
町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養祭を行い、今日まで続いております。

二瀬川公会堂に残る馬頭観音像

逆川を渡り二瀬川の交差点から倉真川の河川敷手前、

公会堂の敷地内に馬頭観音像がありました。

街道沿いに建てられたものかと思いましたが、

明治の初め頃この辺一帯には競馬場があったそうで、

その時に建立されたとの記述があります。

倉真川 (旧 二瀬川)

掛川宿から西に東海道を進み、倉真川の大池橋を渡ると五叉路になっており、

この地点に秋葉街道一の鳥居が建っていました。

ここで旧東海道は南に折れ、北西の道は秋葉山へと通じる秋葉街道の入り口でもありました。

江戸からの旅人の大半がこの秋葉街道を使ったといいます。

人口が約3000万人の時代に、半年間で460万人が訪れたといわれる「お伊勢参り」、

その内の8割が秋葉山にも参拝したといいますから、凄い賑わいだったのでしょう。

大池橋と秋葉街道

この辺は「鳥居町」地名に名残りがあります。

大池橋と秋葉街道

大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ29間(約52m)余り、幅3間1尺(約5.8m)余りの土橋と記されています。 東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。秋葉山へは、ここから9里(約35㎞)余りの道のりです。 常夜灯は、明和6年(1769)に、鳥居は安永9年(1780)に建てられたものです。 この鳥居と常夜灯は、嘉永7年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。 東海道は、鳥居の手前で左に折れます。

歌川広重 東海道五拾三次 掛川 秋葉山遠望

二瀬川 (現 倉真川) に掛かる大池橋、背後には秋葉山、

手前には木製の常夜灯が描かれています。

ちなみに江戸時代の大池橋は土橋だったそうです。

歌川廣重「東海道五十三次之内 かけ川」行書版

さらにもう一枚、歌川廣重「東海道五十三次之内 かけ川」行書版

こちらには秋葉街道一の鳥居の様子が詳しく描かれています。

看板に書いている由来によると、安永9年(1780)江戸日本橋の豪商 次郎兵衛より

青銅製の鳥居が寄進されました。

また両脇には明和6年(1769年)建立の常夜灯が2基あったとされています。

嘉永7年(1854年)常夜灯と鳥居が大地震により倒壊、

後に木製の鳥居に建て替えられ、明治24年(1891年)掛川森往還の開通に伴い移転、

昭和8年(1933年)道路拡幅により撤去されました。

秋葉神社 掛川遥拝所

平成21年には、本宮御鎮座千三百年記念事業として

秋葉神社掛川遥拝所の社殿を改築し、木造の鳥居が建てられました。

また鳥居の前には「右 あきは道 大池村」と刻まれた自然石の道標があります。

境内には徳川慶喜揮 毫の額「正一位秋葉神社」が残されています。

また、交差点の右奥の駐車場には

『秋葉山 本宮秋葉神社』の大きな案内板が2枚が掲げられています。

この先、秋葉街道はこの遥拝所裏手の細道を進みます。

秋葉山本宮秋葉神社由緒

御祭神 火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)

伊弉諾・伊弉冉二柱の神の御子で火の主宰神である。

創建

秋葉山は、赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で天竜川の上流に位置し、山頂に秋葉山本宮秋葉神社を祀る。上古より火の神様の鎮まります御神体山として崇拝され、初めて御社殿が建ったのは和銅二年(七〇九年)元明天皇の御製によるものと伝えられる。

御社号

上古は「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」(岐陛は秋葉の古語)と申し上げたが、中世両部神道の影響を受けて「秋葉大権現」と称し、明治初年教部省の達で権現の号を改め「秋葉神社」となったが、昭和二十七年全国の秋葉神社の総本宮であるところから「秋葉山本宮秋葉神社」と改称した。

御神徳

火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁昌・工業発展の御霊験あらたかなるものとして、全国津々浦々から信仰されている。 御霊験は奈良朝以来、屡々顕れ、御神威は海内に行きわたり、朝廷の御信仰篤く正一位の宣旨を賜って、正一位秋葉神社と申し上げる。

秋葉山本宮 秋葉神社  掛川一の鳥居由緒

秋葉山本宮秋葉神社は天竜川の上流、赤石山脈の最南端、秋葉山を神体山と仰ぎ、御祭神は火之迦具土大神と称え奉ります。

御本殿(上社)は海抜八六六メートルに鎮座し、初めて御社殿が造営されてのは和銅二(七〇九)年と伝えられます。

古くから朝廷の御崇拝篤く神階正一位を賜り、火伏の本宮として全国から信仰を集めました。江戸時代になりますと諸国に秋葉講が出来、秋葉街道は参詣者で賑わいました。その盛況ぶりは「東海道名所図会」に「参詣は蟻の如く道に集い、国々県々多くの人々を集め」と記されています。

ここ掛川宿は東海道から秋葉街道への入口に当たります。安永9(1780)年、江戸日本橋の豪商、次郎兵衛翁より青銅製の鳥居が寄進され、歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれる海道も名所となりました。

オランダの商館医シーボルトも「青銅製の二つの燈明台」が両側にある青銅鳥居の傍らを通り過ぎた。この鳥居をくぐってゆくと数十マイル離れたところに秋葉神社がある」と「江戸参府紀行」に記録しています。

また鳥居は秋葉山を遥かに拝む祈りの場所でもありました。

明治24年掛川森往還道の開通に伴い移転し、昭和8年に道路拡幅に因り鳥居が撤去されてしまいましたが、遥拝所として地元篤信家により護持されてきました。 平成21年本宮ご鎮座1300年記念事業として正式に本宮末社 「掛川遥拝所」 として社殿を改築し境内を整備致しました。 平成二十四年には参拝者の便を図り、駐車場を設けております。

秋葉山を遥かに拝み奉斎する祈りの場、歴史を有する掛川の名所、人々の憩いの場として永く親しまれることを願います。

秋葉山遥拝所から北西に進んだ先、大池に「塩の道(掛川)の碑」

静岡県道40号「掛川天竜線」から秋葉街道は源ヶ谷池の手前で

国道一号線により分断されています。

秋葉常夜燈

国道一号線の高架を越えた先、交差点に秋葉常夜燈があります。

こちらはこの先に造成された「秋葉路」住宅地の入り口に設置された、

どちらかと言うと宣伝用の常夜燈。

「平成2年12月建設秋葉路」 「作 合葉武」とあります。

背後のクスの大木は「秋葉路」にあったものを移植したそうです。

十二所神社への参道入口付近に「塩の道(掛川)の碑」があります。

この大池と新田とを連絡する「中坂の切割」(新田の切通し)は

江戸時代にはすでに開かれていたそうです。

ここから秋葉街道は垂木川沿いに続きます。

秋葉山常夜燈

小津根にある常夜燈は特異な形状で、金銅製の宝珠笠の火袋が上に乗ります。

元は小津根橋東の交差点北側にあったもので、明治期に建立された物のようです。

元々、基礎部は六角形状のコンクリート製だったが、南への移転により

新しく木造に変えられたそうです。

秋葉山常夜燈(鞘堂)

海老田にある常夜燈(鞘堂)、石組みの基礎の上に建てられた本瓦葺きの鞘堂。

内部には木製の火袋があり、光が灯されていました。

傍らには道標が立てかけられてあります。

海老田橋を渡り家代川に沿って北上、

さらに江津橋を渡り福来寺の前へ

福来寺

福来寺

羚(冷)陽山福来寺は曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来。

天文3年(1534)村内に疫病が流行り病気平癒のため、永江院四世雪窓鳳積大和尚は御夢窓と呼ばれる夢の中に現われた九つのお灸により病を治め、その後一寺を建立し福来寺と号した。

災い転じて福が来るという言葉が由来であると伝えられる。この霊験あらたかな九つのお灸は後の世にも伝えられた。

秋葉山常夜燈

瓦葺きの常夜燈(鞘堂)で、中には鉄製の火袋が置かれています。

鞘堂の西脇には青面金剛(庚申講の本尊)の石像があり、

東脇には現代版の道標、「塩の道(掛川)の碑」があります。

鞘堂内部の常夜燈

この火袋(高さ30cm・径35cm)、

江戸時代に大池秋葉鳥居脇にあった秋葉常夜燈に類似していると言います。

確かに先程の浮世絵の常夜燈と見比べると似ていなくもない。

以前は福来寺境内に置かれていましたが、鞘堂内に戻されたそうです。

青面金剛像(庚申塔)

青面金剛とは庚申講の御本尊、庚申信仰の中で独自に発展した仏様です。

福来寺から西に進むと秋葉街道は右手の細道へと続きますが、

現在はゴルフ場の敷地となり通ることが出来ません。

迂回路は広い道の坂を上って進み、宇洞トンネルを抜け細谷へ下ります。

そして静岡県道40号「掛川天竜線」へ出る手前の細道を北へと進み、

若一王子神社前でゴルフ場からの道と合流します。

若一王子神社

ここから一旦県道へ出て、さらに長福寺前まで山沿いの細道の街道を進みます。

途中、遊家を通る別ルートの秋葉街道と合流します。

長福寺「塩の道(掛川)の碑」

長福寺参道入り口の左角には、塩の道の碑と四角柱の古い道標。

道標

正面に「ひだり あきは道」右「為父母報恩」

左「文政十一年戊子春三月建 之 志以」(1828)と刻まれています。

秋葉山常夜燈(鞘堂)

さらに長福寺の参道へと進むと、

西側に石組みの基礎に瓦葺き屋根の重厚な秋葉山常夜燈(鞘堂)。

内部には高さ約280cmの木製の火袋が置かれています。

もとは本郷郵便局南方50m付近の道にあったものを、

県道工事のため本郷西区公会堂脇に移転、さらに現在地に移転されました。

このように、街道沿いに建てられた秋葉灯籠や鞘堂(龍燈)は時代によって移転したり、

取り壊されてしまった物も沢山あります。

また、街道筋でない場所にも数多く見られますが、

こうした物は町内の安全や防火を祈願して県内外の集落に広がったからと考えられています。

参道の馬頭観音像

曽我時致 供養塔

何故此処にあるかは不明ですが、

山門前には敵討ちで有名な曽我兄弟の弟・曽我時致の供養塔が安置されています。

長福寺

726年開創と伝わる長福寺には「空を飛んだ釣鐘伝説」があります。

長福寺に訪れた旅の僧が釣鐘を金剛杖に掛けて空へ飛び去り、

大峰山寺の岸壁の松にぶら下げたとう伝説で、

今でも大峰山には長福寺の名が刻まれた釣鐘(国重要文化財)があります。

磐田市の獅子ヶ鼻公園の鐘掛岩にも似たような話が残されています。

実際は、北畠顕家が鐘を略奪して大峰山寺まで運んだのが有力な説となっています。

塩の道は南北朝の動乱期に宗良親王が南朝の拠点として征東府を置いた

大鹿郷大河原へと続く道でもありましたが、

こんな所にも南北期時代の逸話が残っているのですね。

長福寺

安里山長福寺は神亀3年、行基菩薩の開創という。

以後真言宗・天台宗を経たが、明応3年兵火により焼失。原氏12 代頼景の寄進により再建。以後曹洞宗の寺院となった。本尊は聖観世音菩薩。 「空を飛んだ釣鐘伝説」がある。千年の、長福寺に訪れた旅の僧が釣鐘を金剛杖に掛けて空へ飛び去り、大峰山山上ま で持ち去ったという。今でも大峰山には長福寺の名がある釣鐘(国重要文化財)がある。その銘文には「遠江国佐野郡 原田郷長福寺鐘 天慶七年六月二日作之」(944)とあるという。
旅の僧は役行者の化身であるとして、本堂背後の行者山の行者堂に修験道の開祖役行者を祀っている。毎年、役行者尊祭典が行われる。
山門近くには曾我兄弟の弟時致の供養塔と伝えられる宝篋印塔がある。 長福寺一帯は原氏の本郷城跡とされているが遺構は確認できない。

長福寺 行者堂

長福寺は真言宗・天台宗を経て曹洞宗となった少し変わった経緯の寺院です。

本堂背後の行者山には「行者堂」があります。

「釣鐘伝説」旅の僧は役行者の化身であるとして、

行者堂には修験道の開祖 役行者を祀っています。

毎年、役行者尊祭典が行われているそうです。

行者堂より

長福寺古墳

長福寺の背後に長福寺古墳群3基があり、1号墳が残っています。古墳時代 後期(6世紀中頃)の円墳で、径約20m。横穴式石室の奥壁と側壁の一部が 残り、傍らに天井石が並べられている。 金銅装太刀,須恵器,装身具などの出土品は長福寺本堂に展示されています。

長福寺入り口から西へ下り、

県道を渡り旧道のあたりに「長福寺二町」「行者堂三町」と彫られた道標。

猿田彦神社の道標

線路沿いに渡し場へ向かうが道は消滅しているため、

北の原谷橋へ迂回し坂を登って秋葉街道へ。

合流地点には猿田彦神社の道標。

猿田彦神社

猿田彦神社の鳥居横「塩の道(掛川)の碑」

猿田彦神社 拝殿・本殿

天竜浜名湖鉄道 原田駅

秋葉街道は猿田彦神社標を右手に下り、原田駅を横切り石荒坂へと続く、

踏切がないためそのまま板ヶ谷まで迂回する。

天竜浜名湖鉄道

本来の秋葉街道は線路向こうの茶畑を通っている。

徳兵衛池(杭瀬ヶ谷池)

新東名高速の高架を通り森掛川ICを横目に歩いて行くと、

その昔、狐に化かされたことから名付けられた徳兵衛池と呼ばれる池があります。

徳兵衛池(杭瀬ヶ谷池)

徳兵衛池と呼ばれるいわれがある。森町に住む徳兵衛という若者が,掛川宿に 行った帰り路,戸綿峠で美女に出会い, 誘われて1軒の家に入って行くと,鏡に 向かっていた女が急に後ろを振り向いて, お歯黒をむき出し,「ついたかえ,徳兵衛 さん」と言ってニヤリと笑った。こんな 事を二度・三度と繰り返すので,余りの 気味悪さに徳兵衛は次第に後ずさりして, とうとう池に落ちてしまった。朝がた, ここを通るとき,狐に石ころをぶっつけたので,その仕返しをされたのだと気 づいた。その後,誰いうとなく,この池を徳兵衛池というようになったと,伝 えられている。

賀茂神社

秋葉山常夜燈

北戸棉の秋葉山常夜燈

道路の壁の上に 森町指定文化財に指定された秋葉灯籠。

火袋は木製でトタン葺き屋根とコンクリートの竿になっている。

戦前は瓦葺き木造の鞘堂があったが、戦後建て替えられたといいます。

塩の道(森町)の碑

北戸棉集落にある「塩の道(森町)の碑」

ここからしばらく昔のおもかげのある細道が続き、天竜浜名湖線 戸綿駅前へと出る。

太田川

戸綿駅から県道58号「袋井春野線」を越え、太田川に掛かる森川橋を渡る。

正一位秋葉神社道 碑

正一位秋葉神社道 大正四年建立

遠州の小京都森町

遠州森町は、昔から信州(長野県)へ通じる街道の「森口」として、また火伏せの神秋葉山へ詣でる人々の宿場町として栄えてきました。そうした店の軒先きには市場(森市場)が開かれ遠州屈指の繁盛ぶりを見せました。このような繁栄を物語るものとして、町屋の路地裏には白壁やなまこ壁の土蔵が隙間なく続いていました。

明治・大正期を代表する地理学者の志賀重昂は大正十二年七月に森町を訪れ、森町の老舗大黒屋に宿泊し。森川橋で夕涼みをした折に「森町の賦」を読みました。その頃森町は大繁盛した時代の姿がまだ残されていました。清らかな太田川のせせらぎや周囲の小高い山々には赤松の林が続き、遠州瓦で葺いた町の家並みは京都の町屋のようであったと思われます。川向こうからは美しい笛や太鼓の音が聞こえ、京都の鴨川沿いや嵐山の風景に似た情景でありました。 しかし、地理学者である志賀は、森川橋から見た風景だけに止まらず、周囲周辺をよく観察して森町を小京都と賞賛したものと考えられます。 このような視点で森町をながめて見ると、太田川の上流には大日山、遠江の国一宮小國神社の奥宮本宮山を頂きにして、蓮華寺や天宮神社が裾野に造立され、太田川が京都の鴨川に見立てられ、賀茂神社や山名神社(祇園社)が京都の寺社配置のように祀られています。

また、天皇の使いである勅使が大寺社を訪れるなど、都さながらの行事が執り行われてきました。そうした背景からも森町は遠州の小京都としての歴史文化を継承しています。

本町通りへ

森市場が形成したのは鎌倉期のようです。

三島神社の鎮座する三島山は(森山)とも呼ばれ、これが森町の語源といわれています。

毎年十一月、遠州の祭りの掉尾を飾る「森の祭り」はこの三島神社の祭礼です。

森市場と森の街並 本町

森市場が形成したのは、鎌倉期(蓮華寺文書「もりやまの屋敷」)のようで、遠州一宮社僧蓮華(華)寺の支配により太田川のの河原の古町市場(三島神社の山を森山と呼び、森下の河原町通りから十七夜に至る一通りで、上町・下町に区分)が立ったと見られる。森は、信州に続く「塩の道」の経路であり、遠州横須賀や福田に下る太田川上流の船津で、森口と呼ばれれきた。また、北回りの東海道が東西に、さらに山中一円への出入口の要所としても、二俣と並んで盛んな公益活動が営まれてきた場所である。
森は、古来太田郷と呼ばれ、郷内には小さな名(一藤・蓮華寺・西脇・守山・太田・白幡)に分かれていた・森山(三島神社の山)の麓の市場の繁栄により「森市場・森村」と呼称され、森町の語源となった。
ところが、武田・徳川の攻防により、森市場は衰退に追い込まれ、窮乏を回復するため惣町中を代表して市場座配尻太郎左衛門は、天正五(一五七七)年、徳川家康に「森市場禁制」を願い出て古町に禁制が掲げられた。これを契機に近世森市場の繁栄を見るに至っていった。
慶長五年(一六〇〇)年、未曾有の大水害で、古町のうちの下町が先に川欠けして、現在の本町に西脇・守山の名主層とともに移り住んでいた。慶長五年以降、太田川の進路が大きく変わって、三島山は太田川の左岸から右岸となり、慶長九年の検地を受け「森町村」が生まれた。
森の町並は、中世市場開設の法則を備え、「阿弥陀堂(三島神社)・市場(市杵嶋神鎮座・禁制高札場・野尻家)・御堂(西光寺)・薬師(万日堂)などが町並とともに配置されている。こうして、現在の町並の原型が出来、その後、正保四(一六四七)年に、上新町(現新町)・下新町(旅籠町)が新たに町割りされ、今の森町の町並がほぼ完成した。元禄期には総軒数四百軒、文政十三(一八三〇)年には三百五十八軒、人口は一千三百九十五人、商人百四十九軒、茶屋二十四軒、職人四十軒、旅籠屋二十四軒の地方都市となっていた。この頃の俗謡に、「森の仲町なぜ日が照らぬ 秋葉街道の笠の影」と唱えられ。町中の繁栄ぶりを窺い知ることができる。また江戸から伝播した「祭り屋台とお囃子」は、本町・仲町・上新町に根付いて、華麗な屋台が造営された。

森町村は秋葉街道の中核的な宿場で、茶・ 古着の商いは全国的に名を知られていました。

文政13年(1830)には24軒の旅籠屋があったそうです。

街俗謡に「森の横町 なぜ日が照らぬ 秋葉道者の笠のかげ」

と謡われる程の賑わいだったといいます。

秋葉街道沿いにある本町の町並みは、

連子格子(れんじごうし)や鎧羽目(よろいはめ)の板張りなど、

伝統的な建築で古着商や旅籠など江戸時代後期からの建物が点在し

宿場町の趣を残しています。

商家大石屋

商家大石屋

江戸後期の本町の町屋で、大石屋 清兵衛を名乗る古着・茶・椎茸・炭 などを扱う商家であった。屋敷内に 5つの土蔵をもつ町内でも有数の商家で、母屋と共に当時の繁栄ぶりが 重厚な造りによってうかがわれる。 大石家は文政8年(1825)に 古着商いを始めた。小袖・羽織・布 団や一般の古着だけでなく,諸宗派 の袈裟なども扱っており、江戸や三陸方面にも広く販路を確保していた。

森の地名と祭祀 仲町 

三島神社の鎮座する三島山は「森山・白幡山・大明神山」などと呼ばれ、「森山」が森町の語源といわれる。寛永三(一六二六)年の「森と向天方地境争論」(旧野尻家文書)によると、古来、両村の境(飯田荘・一宮荘)は三島山の山頂であり、慶長五年の大水によって、山の西側(現在の町中通り)を流れていた太田川が山の東側(現在の位置)を流れるようになり、村境が川を隔てて東西に確定した。この「森山」の北を「森の上」、南を「森下」と呼び、室町前期応永年間から始まったという「事神送り」が森の祭りの起源とされる。毎年十一月、遠州の祭りの掉尾を飾る「森の祭り」はこの三島神社の祭礼であり、森町の人々の心の拠り所となっている。
戦国時代の元亀初年。森山の下にあった梅林院の宣翁全中和尚は戦火を避け、森の旦那衆を引き連れて江尻(現在の静岡市清水区)に逃げた。その後、梅林院は庵山下に移り、境内は山田家屋敷などに繰り入れられた。
この三島山の下には天正十五(一五八七)年、徳川家康から駿府両国鋳物師惣大工職の朱印状を与えられた山田七郎左衛門が屋敷を構え、付近に岡野、松井などの小工と呼ばれる鋳物師が鋳造場を置く鋳物師街であった。
また、近世森町村には「森の六軒衆(伝熊野修験の子孫)」と呼ばれる庄屋兼森市場座商人が居り、仲町は白幡方加藤八右衛門が森市場の上市を掌握し、本町の野尻太郎左衛門が下市の座主(天正五年森市場禁制願主)を勤めた。このほか、太田方太田文三郎・守山の出鈴木五兵衛・西脇の出安藤甲右衛門・同神谷清右衛門が代々村役を勤仕した。
大明神山の社殿は戦国期の兵火によって焼失した。その後、慶長年間に社殿を再建したが、寛文元年の大火で再び炎上、寛文十二(一六七二)年に本殿を再建したことが棟札等の記録から明らかである。また、屋根葺き替えなどの修理を繰り返したことが修理棟札数枚に記されている。
平成八年、三島神社本殿を町指定文化財に指定、虹梁・木鼻等に施された渦・若葉模様等の彫刻は繊細で江戸前期に見られる寺社建築彫刻に共通した意匠で、当時の職人等の記録残されている。

天保13年(1842) 創業の北島糀店

新町の街道一本西の通りには、商家の蔵が並んでい る。

新屋旅館

新屋旅館は安政2年(1855)建築。

森の石松を4歳から7歳までの間育てた養家とされています。

天宮神社の例大祭の時、迷子になっていた石松は森の五郎に拾われ

今から7代前の新寅という人に育てられたと伝えられている。

旅館には石松の部屋があり、柱に刀傷が残っているといいます。

天宮神社

天宮神社

天宮神社は慶雲2年(705)欽明天皇の勅願所として社殿が造営され、筑紫国 宗像神社の祭神を遷し祀ったのが始まりである。 戦国時代を経て、天正15年(15 89)に徳川家康によって本殿が復興した。 今の社殿は元禄10年(1697)五代 将軍徳川綱吉の命により大棟梁甲良豊前 宗賀によって造営された。 遠江国の一宮は小国神社を中心として国家や遠江国の安泰を祈る使命を持ち、天宮はその一部を担う神社で太田川流域の穀倉地の豊作祈願は最も重要な祀りであった。 小国神社と天宮神社の両舞楽(左舞・右舞) も深い関係があった。天宮の舞楽は延舞から獅子までの十二段からなり、国指定の重要無形民俗文化財である。 境内には御神木の樹齢1000年余といわれる「竹柏」(県天然記念物)がある。この葉を持てば災難よけ・夫婦和合のお守りになるという。境内の裏の奥に「くちなし池」があり、水神が祀られている。

天宮神社(あめのみやじんじゃ)

祭神 田心姫命 たごりひめのみこと
瑞津姫命 たぎつひめのみこと
市杵姫命 いちきしまひめのみこと
由緒 当社の創始は、社伝によれば欽明天皇(509~571)の御代に、筑紫の国から宗像三神を勧請し祀った勅願所で、舞楽十二段は文武天皇の慶雲2年(705)京から中村連綾足が神主として着任して奉納したと伝えられ(中村乗高「社伝系伝抜書」)以来今日まで伝承されてきた。舞楽は左の舞(唐楽・小国神社)と右の舞(高麗楽・天宮神社)で一対をなし、共に国指定の重要無形民俗文化財となっている。
相殿には熊野神、素戔男命、大己貴命が祀られており、御神木竹柏(なぎ)の大樹は熊野信仰との関係が考えられる、県指定天然記念物である。
旧社領は五百石であったが、時代の流れにより後に百五十石となり後に五十石となる。
現在の社殿は元禄10年(1697)12月、徳川綱吉公の造営で大棟梁は甲良宗賀、奉行は横須賀城主の西尾忠成公であった。本殿及び拝殿は県指定文化財である。
境内に残る神宮寺(古は梵台院)の建物は、神仏習合時代の名残である。
因みに境内一帯は、縄文時代中期から中・近世に至るまでの遺跡で多くの石器・土器・社殿の瓦などを出土している。
例大祭  4月の第一土・日曜日

城下の町並み

県道58号「袋井春野線」を渡り城下へ

街道に沿った町並みは家屋が道に対して斜めに構える建て方になっています。

城との関連から軍事的な役割を指摘する説もありますが、

実際には自然堤防の町割りに合わせて屋敷取りをする場合に、

斜めの道沿いは隣の屋敷と少しずつずらして作らざるを得なかったのではないかといいます。

元々、城下の集落は谷本神社の山腹にあったが、

森町村や天宮村が町割りされた頃に現在地に移転したとみられる。

城下の町並 城下

城下の地名は、天方三城(本城・白山城・新城)のうち天方白山城(城下谷本神社の裏山)の麓にある集落から名付けられた地名で、慶長九(一六〇四)年の検地帳(藤江家文書)に「城薮・城屋敷」などの字名が初見で、古くは、大鳥居・向天方・城下の村区分はなく、天方と記され、飯田荘天方郷の地頭山内氏が代々所領する所として伝領されてきた。城下村の名主藤江氏は元来藤枝氏で今川氏の被官であったと伝えられる。寛永の頃、掛川城主青山幸成の母が天方氏の血縁であることから掛川藩領となり、天方筋の大庄屋は城下の幸田八右衛門は勤仕し、その頃の集落は谷本神社のある山腹であったが、森町村や天宮村が町割りされた頃、現在地に町割移転したと見られる。俗に言われるノコギリ型の家並みは、曲がった道や田んぼの畦割りに屋敷取りした結果と判断される。
城下の家並を代表する建物は、藤江喜重家住宅や藤江金兵衛家住宅で、近世の面影を現在も伝えている。また、明治十七(一八八四)年に建てられた「城下学校」(町指定文化財)は、静岡県内に残存する校舎としては、磐田の見附学校、伊豆松崎の岩科学校に続いて第三番目に古い校舎で、床間と演壇を備えた一室造りの遺構は、教育課程初期構築の多目的建物として他に類をみない。このほか、町並の上外れにある「秋葉山常夜灯」(町指定文化財)は、天保四(一八三三)年十一月の建立で、木造瓦葺き鎧羽目の重厚なもので森町内でも優れた遺構であり、内部の青銅製の灯籠は、森町の鋳物師小工岡野五郎左衛門の作である。

火の見やぐらのある枡形の角を左折・右折すると、

庄屋藤江喜重家・入船亭 みなとや旅館・庄屋藤江金兵衛家など、

江戸時代のおもかげを今に伝えている建物が建ち並ぶ。

秋葉山常夜燈(鞘堂)

瓦葺き切妻造り屋根の鞘堂と内部には鉄製の燭台(森町指定文化財)

先程までの物に比べても格段に立派な作りに当時の森町の繁栄が偲ばれます。

町指定文化財(建造物)
秋葉山常夜灯
昭和六十一年十一月指定

秋葉山常夜灯は、江戸中期に秋葉山信仰が盛んとなり、人々の浄財によって秋葉路の各所に建立され、防火と村中安全の祈願をこめて献灯された。この常夜灯は、天保四年(一八三三)十一月、藤江喜十郎が名主の時に福川五良左衛門・戸塚政右衛門らが世話人となり、森町の鋳物師岡野五良左衛門が燭台を作り建立された。
覆屋
裄行四.三尺、梁間三.八尺 切妻造、浅瓦葺、袴腰付き。
三方金網張り、背面片引板戸、正面破風に蕪懸魚を吊る。
妻面は、若葉。渦紋を彫刻した虹梁上に笈形付棟束を立てて斗?痴と肘木にて棟木を受ける。

鉄製の燭台

高さ160cmの燭台の脚部には天保4年癸巳(1833)名主 藤江喜十郎ら11名が世話人となり、

森町鋳物師 岡部五良左 ヱ門藤原義金が製作したと記されている。

もとは北50mほどの所に建てられていたそうです。

城下 谷本神社

森町城下にある谷本神社。

境内裏からは裏山の白山城跡へ行くこともできる。

元々、城下の町並みはこの辺にあったとされ、正に城下だったわけです。

今となっては珍しい電話ボックスもの鞘堂のデザイン

谷本神社 拝殿

谷本神社 由緒

鎮座地 静岡県周智郡森町城下九百七番地の一
御祭神 素戔嗚命
例祭  十一月二日

由緒
式外社、当村氏神牛頭天王は
永正十七年(一五一七)九月十九日京都祇園社(八阪神社)
依り城下村外ヶ村の鎮として勧請す
慶長三年(一五九四)九月現在地に木殿建立す
慶安二年(一六四九)元朱印高壱子石を徳川家より賜る
明治四年浜松県より社号を可設旨御逹有之に
付同年十一月一日谷本神社と改称す
明治十二年九月二十二日村社に加列す
創建当時の氏子区域は城下村、向天方村、大鳥居村
問詰村、鍛治島村、亀久保村、葛市村、西俣村、白揚村
摂社
稲荷神社・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
元禄十五年(一七〇二)十二月 京都より勧請す
末社
山神社・大山祇神(おおやまつみのこと)
水神社・弥都波能売神(みつばのまのかみ)
谷本神社

元開橋

三倉川に架かる元開橋、こちらのギボシも鞘堂風

秋葉山常夜燈(鞘堂)

黒石の常夜燈(森町指定文化財)

天保年間(1830〜44)に黒石村の人々によって建てられたものと伝えられています。

森町指定文化財(建物)に指定されている秋葉山常夜灯はこの黒石の外、

黒田・北戸棉・大門・城下などの町内に五ヶ所あります。

秋葉山常夜灯
黒石常夜灯(町指定文化財)

天保年間(一八三〇~四四)に黒石村の人々によって建てられたものと伝えられる。森町指定文化財(建物)の指定されている秋葉山常夜灯はこの黒石の外、黒田・北戸棉・大門・城下などの町内に五ヶ所あります。
秋葉神社は火伏の神として民衆の篤い信仰を集めており、秋葉山に至る参拝の道は秋葉街道と呼ばれています。
遠州地方では数多くの秋葉道があり、ここ森町も掛川と袋井からの道が通過しており、その街道の要所には宿や旅籠をはじめ、道標や常夜灯などがそこここに点在していました。これはその内の一つです。指定物件以外にも町内各所に常夜灯が多数残っており、石造や木製の灯籠の形態をとるものから、瓦葺の立派な覆屋の内部に燈台を備えたものなどさまざまな種類が見られます。

西俣の秋葉山常夜燈(鞘堂) 

鞘堂は瓦葺き切妻造りで、内部には新旧2つの鉄製燭台が杭の上に置かれています。

2つの棟札が掲げられ、古い方は「天保五年三月吉日(1834)遠州周智郡西俣村」、

新しい方は現在の鞘堂のもので「平成十三年三月吉日」と記されています。

秋葉山常夜燈・道標 黒田の常夜燈

上島橋を渡った所に秋葉山常夜燈と道標があります。

石造りの常夜燈には「秋葉山常夜燈」「明治廿六年六月五日建立」とあり、

常夜燈の前の道標には「秋葉道五里」「江戸建立講中」と刻まれている。

ここが掛川から5里目にあたることを示しています。

三倉 許禰神社(きねじんじゃ)

許禰神社

創建の年代は明らかではありませんが古より木根棚指村(現在の木根地区)の氏神でありました。森町の北端の三倉を通る秋葉街道沿いに鎮座し、境内には「天下和平不生禍乱(天下泰平の願い)」と記した徳川家康公直筆の碑文があります。

県道63号藤枝天竜線へ、

次回はここから歩きます。

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