武田信玄公の墓(信玄公火葬塚)・山梨県甲府市岩窪町




武田信玄公の墓(信玄公火葬塚)・山梨県甲府市岩窪町

天正元年(1573年)4月12日、信州伊那駒場で53歳の生涯を閉じた武田信玄公は、

混乱を避けるため、その死を3年間秘密にするよう遺言を残したといいます。

3年後、塩山の恵林寺で葬礼を行い埋葬されましたが、

死を隠していた3年の間葬らえていたといわれているのが、こちらの場所です。

案内板によれば、この辺りは武田の重臣土屋右衛門昌次の邸内で、

武田信玄を荼毘に附した場所と伝わることから「信玄公火葬塚」とも呼ばれています。

江戸時代の安永8年(1779年)に甲府代官中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、

「法性院機山信玄大居士 天正元年癸四月十二日薨」とあったので埋戻して幕府にとどめ、

信玄公の墓と定めたといいます。

武田神社「躑躅ヶ崎居館」より東方へ徒歩で約15分程の所にあります。

北方には信玄正室三条夫人の菩提寺として知られる「円光院」があり、

そのすぐ近く、静かな住宅地の一角に信玄公の墓所が建てられています。

信玄公の墓碑陰銘

公 性源名晴信武田其氏也頃壯下髪稱機山信玄
天正元季癸酉四月十二日薨權葬三年乙亥四月火
浴干此地以分骨云今茲己亥春重民某等勠力新造
碑蓋傚羊祐之堕涙碑聊伸景仰之誠也一日堀地得
灰與骨然則其衣薪之迹明矣古碑日三年不發哀為
有敵国其文雖不完今又蔵壙中請後人徴之矣

安永八年龍集屠維大獻孟夏上浣日
住 瑞嵓山圓光禅院嗣租沙門凱愚應謹誌

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公の性は源、名は晴信、武田は其の氏なり。頃壮髪を下ろして機山信玄と称す。
天正元年癸酉4月12日薨ず。権りに葬ること3年、乙亥4月此の地に火浴し、以て分骨すと云う。
今茲に己亥春重民某等力を勠せて新たに碑を造る。蓋し羊祐の堕涙碑に倣い聊か景仰の誠に伸るなり。
1日地を堀り灰と骨とを得たり。然れば即ち其の衣新の迹明らかなり。
古碑に曰く、3年哀を発せざるは敵国あるが為なりと。
其の文完からずと雖も今又壙中に蔵す。請う後人之を徴せよ。
安永8年龍集(年)・屠維(己)・大獻(亥)・孟夏(4)・上浣日(上旬)
住 瑞嵓山圓光禅院嗣租沙門凱愚應謹誌

甲斐国主武田信玄公御墓所について

天正元(1573)年4月12日、信州伊那駒場で53歳を一期として、波乱の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し三年間の秘喪を命じた。嫡子勝頼公はこれに従い、信玄公の遺骸を密かにして、三年後24将の一人である土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附し、天正4年4月16日、塩山、恵林寺に於いて葬礼を行い埋葬した。岩窪の墓所は土屋氏の邸跡で後世これを魔縁塚と呼び里人は恐れて近づかなかったという。それからおよそ二百年後の江戸時代安永8(1779)年甲府代官、中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年癸4月12日薨」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて信玄公の墓と定めた。この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。碑文は円光院住職・愚慶の書である。現在地域住民はここを信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。又地元老人クラブの人々が、毎月1回清掃奉仕を行い、自治会では年中行事として4月12日の命日に円光院並に近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして墓前法要を勤めありし日の国主を偲んでおります。 (看板資料より)

墓所の一角には、山梨県指定天然記念物のヤツブサウメという木があります。

案内板によると、ウメの変種で「座論梅」ともいわれ、1つの花に8つの実をつけます。

花期は普通の梅よりも遅く、3月末頃満開となるそうです。

安政8年(1779)甲府代官 中井清太夫が信玄の石棺を見つけ、

その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年葵四月十二日」とあり信玄公の墓と定めました。

碑文は当時の円光院住職・愚應の書によります。

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