武田神社(躑躅ヶ崎館跡)武田氏館跡・山梨県甲府市古府中町
山梨県甲府市にある武田信玄公を御祭神とする「武田神社」
信玄公が居館としていた「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」の跡地に鎮座します。
歴史的にみるとこの場所は、1519年に信玄の父・信虎が、
居館である躑躅ヶ崎館(武田氏館)を建て場所で、
周囲には城下町が整備され、信虎・晴信(信玄)・勝頼の三代にわたって栄えました。
1582年の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地となっていましたが、
1600年頃には居館が破却されました。
1915年(大正4年)大正天皇のご即位に際し、信玄公に従三位が追贈されたのを契機に、
山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が設立。
1919年(大正8年)には社殿が竣工され、信玄の命日にあたる4月12日に、
初の例祭が行われました。
信玄公は「甲斐の国の守護神」・「産業・経済の神」とされるため、
「勝運」や「開運・商売繁盛・金運」などが御利益とされています。
文化財としては国指定重要文化財である「太刀 銘一(吉岡一文字)」、
また跡地に建てられた境内含む一帯は「躑躅ヶ崎館跡(武田氏館跡)」として、
国指定史跡に指定されています。
武田神社の入口に掛かる橋は「神橋」と呼ばれています。
戦国時代に武田氏の居館である躑躅ヶ崎館の正門前に架けられていた橋を模して、
1934年に再建されました。
橋の長さは約20m・幅は約6mで、石造りの橋脚と木造の橋桁で構成されています。
橋脚には「武田菱」が刻まれており、橋桁には「武田神社」の扁額が掲げられています。
武田神社
御祭神 武田信玄公
御利益 勝運、産業や経済の守護など
例大祭日 4月12日 (※信玄公の命日)
創建 1919年
所在地 山梨県甲府市古府中町261
電話番号 055-252-2609
アクセス JR中央本線・身延線「甲府駅」より 徒歩35分
駐車場 バス:10台・普通:150台(利用時間 9時00分〜16時00分)
国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
「武田氏館」は「躑躅(つつじ)ヶ崎館」とも呼ばれ、武田信玄の父、信虎が、1519 年(永世 16 年)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。
その後、信玄・勝頼と、武田家当主の館として使われました。
そして武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの、約 70 年に渡り、この館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。
館は、一辺が約 200m の正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式のものです。
館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯にっは格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていました。
この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。
武田神社
【御祭神】 武田晴信命(信玄公)
【鎮座地】 山梨県甲府市古府中町2-611
御祭神在世中の居館、躑躅ヶ崎館跡
【由緒】
武田晴信公は清和源氏新羅三郎源義光公の後裔で、大永元(1521)年11月3日、武田信虎公の長男として石水寺要害城に生まれました。幼名を太郎、童名を勝千代と名乗り、天文5(1536)年3月に元服し、将軍足利義晴から「晴」の一字を賜り晴信といい、従五位下大膳大夫に叙されました。
天文10(1541)年信虎公の後継者として、甲斐の国主となり、以降30有余年領国の経営に力を尽くされました。
天正元(1573)年4月12日、天下統一の夢を抱き京に上る途中、信州伊那駒場で病没されました。(行年53歳)
大正4(1915)年大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正8(1919)年4月12日、鎮座祭が盛大に齋行されました。
【例祭】
4月12日(御祭神御命日)
祭典終了後、神輿渡御が行われ、甲冑に身を固めた武田二十四将の騎馬が神輿に供奉し、豪華かつ勇壮な神輿の列が桜花の咲く中、甲府市内に繰り広げられ賑わいを見せております。
拝殿
拝殿は 1955 年に再建されたもので、入母屋造りの木造建築です。
正面3間、側面2間の規模で、屋根は銅板葺です。
拝殿の奥にある本殿は 1919 年に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
拝殿の内部には、中央に武田信玄を主祭神とする神座が設けられています。
また、拝殿の左右には、武田信玄の二男である武田勝頼と、
武田氏の重臣である馬場信春の神座が設けられています。
菱和殿
商売繁昌・厄除け・必勝祈願・家内安全などのご祈願や七五三といった諸祈願等は、
本殿隣にある「菱和殿」に受付があります。
ご祈願は予約無しでも大丈夫との事ですので気軽に申し込みができます。
また、拝殿の右奥には「宝物殿」が建っています。
中には、重要文化財の三條家より寄進された「吉岡一文字」の太刀をはじめとして、
武田家に伝わる甲冑や武具、信玄公の軍扇などが多数展示されています。
宝物殿への入場料は、高校生以上が300円・小中学生が150円(団体割引あり)
※料金は変更になっている可能性がございます。
甲陽舞能殿
参道途中、左手にある甲陽武能殿。いわゆる神楽殿にあたる建物です。
現在でもこの甲陽舞能殿で、能楽や狂言などの芸能が行われています。
榎天神
御神木の下には学業成就、合格祈願のご利益を授けてくださるといわれている榎天神。
その奥にある御神木の根元には菅原道真公をお祀りする境内社「榎天神社」があります。
学業成就や合格祈願に御利益がある境内社です。
賽銭箱の下には参拝し、合格・成就された方が使っていた鉛筆を納める返納箱があります。
躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡 案内板
躑躅ヶ崎館(武田氏館)跡
この地は武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)の居館にして、躑躅ヶ崎の西方にあるところから後世この別称を用いたと伝えられる。屋形一帯の濠塁、縄張りはこのような構成でほぼ現存し往時を偲ぶに足る。居館中心地域については各説あるも一応この図の如き屋形配置が想像される。
武田氏館(現武田神社)が築かれたのは永正16年(1519)とされています。
躑躅ヶ崎の地にあったことから「躑躅(つつじ)ヶ崎の館」と呼ばれました。
三方を山に囲まれ、相川扇状地の開口部で、南に甲府盆地を一望する好立地にあります。
館の完成した翌年には、館の北東2キロに詰城である「要害城」が築かれました。
こちらは、境内から出て南東の正面にある居館の大手(表口)です。
居館正面の防御設備である「大手石塁」や「三日月堀」などが発掘調査で見つかっています。
史跡武田氏館跡大手門周辺ゾーン
武田氏館跡は、戦国大名武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の本拠として築かれた一辺が約200mの正方形をした居館であり、東に位置する躑躅ヶ崎と呼ばれる尾根の麓にあることから、一般には「躑躅ヶ崎館」の呼び名で親しまれている。
武田信虎によって永正16(1519)年に築かれた初期の館は、現在武田神社が鎮座する主郭のみであったと考えられ、堀や土塁の規模も現在の半分程度であったことが発掘調査で明らかになっている。館の規模が現在のようになったのは、武田領国を中部一帯に拡大した武田信玄の時代と考えられ、西曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪等が増設された。
ここ大手周辺ゾーンは、戦国時代の館の正面玄関に当たり、武田信玄を始め、多くの武将・文化人が通った道である。(南側の水路を渡る入口は、大正時代の武田神社創建時に参道として切り開かれた道である)
当地区の整備工事前に実施した発掘調査では、大手門一帯を囲むように儲けられた堀や土塁、出入口の石階段などが確認され、主郭に至る土橋の正面からは、大手石塁や厩とみられる建物跡が検出された。
同時に大手石塁の下層からは、武田氏時代の遺構である三日月堀と呼ばれる出入口を守る施設が新たに発見されると共に、家臣や職人の屋敷とみられる区画も確認されたことから、武田氏の時代には城下町が展開していたことが明らかになった。
当ゾーンにおいては、様々な議論の末、遺構として最上部に現存する土塁・石塁も、館の歴史的な変遷を知る上では重要な施設であると位置づけられたため、武田氏滅亡後に付設された曲輪内の構造をより明確にする方針で整備を行った。大手石塁
武田氏館の正門である大手門を守るために築かれた総石垣の構造物です。二箇所に階段が取り付けられていることから、上部には何らかの建造物が存在したと考えられます。石垣は自然石を横方向に配置することを意識して積み上げた野面積みと呼ばれる技法で積まれており、裏側には石垣の安定と排水を意図した無数の栗石が詰め込まれています。主に安山岩が使用されていますが、花崗岩まども混在することから、近隣で産出する石材から集められたと考えられます。石材には矢穴などの加工の痕跡はなく、自然石がそのまま使用されているのも特徴の一つです。
このような栗石有する石積みの技術は、戦国時代の甲斐には存在しなかったものであり、西日本から導入されたと考えられます。そのため、大手石塁は、武田氏滅亡後の甲斐を治めた徳川氏か豊臣氏配下の大名によって新たに築かれた可能性が高いと考えられます。発掘調査当初は、石垣東面以外の多くは後世の開発により失われていましたが、古絵図なども参考にして欠損箇所は積み足し、破損・劣化が著しい箇所は解体修理して往時の姿に復元しました。大手三日月堀
武田氏滅亡後に築かれた大手石塁と重複する位置から三日月堀と呼ばれる半月形の堀跡が確認されています。、三日月堀は、丸馬出と呼ばれる城館の出入口を守る施設の一部として築かれたもので、本来は内側に土塁を伴っていたと思われます。丸馬出は、武田氏が支配した長野県や静岡県、群馬県北西部などの城郭に数多く存在することから、武田氏が用いた築城技法の一つと考えられています。
図示した大手三日月堀の範囲は、北側を除き部分的な確認調査の成果をもとに全体規模を想定しています。南側については、大手石塁と重複しているために未調査となっていますが、三日月堀の埋め立て不十分であったため発生した地盤沈下による石垣の崩落が石塁東面で確認されています。よって、大手三日月堀の規模は、全長約30m、堀幅約4m、深さは確認された範囲で約2mでした。大手石塁の下層に埋もれていたこともあり、古絵図や文献にも記録されず、発掘調査以前はsの存在を確認することはできませんでした。発掘調査の結果、大手三日月堀は、武田氏から徳川氏・豊臣氏への領主交代によって人為的に埋め戻され、破却されたと考えられます。
国指定史跡武田氏館跡
別名躑躅ヶ崎館跡と呼ばれる史跡武田氏館跡は、永正16(1519)年に武田信虎によって築かれ、信玄・勝頼と武田三代の本拠地として使用されました。二町(200m)四方の規模を誇る主郭部は、武田氏の生活の場であると同時に領国を統治するための政庁であり、武田氏の勢力拡大に伴い、曲輪と呼ばれる堀と土塁で区画された附属施設が主郭部の周囲に増設されていきましt。天正9(1581)年に武田勝頼は新府城を築城し、本拠地を移転したため、武田氏館は一時機能を失います。
しかし、翌年武田氏が滅亡すると、織田氏・徳川氏・豊臣氏によって甲斐国の統治拠点として再整備され、その後甲府城が築城されるまで使用されていたと考えられます。館の正面玄関にあたる大手には惣堀と土塁で囲まれた曲輪が確認されています。整備前の発掘調査によって、武田氏滅亡後に築かれた石塁などとともに新たに造営された曲輪であることが明らかになりました。発掘された武田氏館大手
大手東側には惣堀と土塁で囲まれた曲輪の存在が確認されています。曲輪内の広場のうち上段部では、惣堀に架かる北側土橋の曲輪側から石階段が発見され、その下段に付設されている南側土橋では門礎石が確認されています。
土橋から館跡へ向かって進むと、武田氏館の正面玄関である大手土橋の前に武田氏滅亡後に築かれた石塁が存在しています。石塁直下には三日月堀など武田氏時代の生活面が確認されているため、現在大手東側でみられる施設は、武田氏滅亡後に甲斐を支配した新たな領主によって大きく造り直されたと考えられます。
武田氏館跡は戦国大名武田氏の本拠地であるとともに、その後の勢力による甲斐国統治としての側面もあります。その意味で戦国の動乱期から天下統一へ向かう歴史全体の動きを知る上で貴重な史跡です。大手石塁と三日月堀
武田氏館の正面玄関にあたる大手正面には、館の出入口である虎口を守るために築かれた石塁が存在します。石塁は石積みの技法などから武田氏滅亡後に築かれたものと考えられます。
また、石塁の直下からは新たに三日月堀が発見されました。三日月堀は、丸馬出と呼ばれる館の出入口を守る施設の一部であり、内側に土塁を伴っている場合が多いようです。丸馬出は武田氏領国内で積極的に用いた施設と考えられています。山梨県内では新府城に続き2例目となりました。
このように武田氏時代の遺構とその後の勢力によって築かれた遺構が重なり合って発見されています。
惣堀北側虎口
武田氏館の正面玄関にあたる大手東側一帯には惣堀と土塁で囲まれた曲輪が形成されたことが明らかとなっています。惣堀には整備前から古道である鍛冶古路に面して南北2箇所の土橋が架けられていました。土橋は、貞享3(1686)年の古府中村絵図(武田神社蔵)に描かれているので、江戸時代前記にはすでに存在していたようです。
発掘調査以前は、鍛冶小路側から土橋をわたると通路は途絶えていましたが、調査を進めると、石を配した階段が発見されました。石階段は全体を粘度混じりの礫石で覆われた状態で発見されているので、自然堆積によって埋まったものではなく、曲輪の機能が停止した段階で人為的に封じ込まれたと考えられます。
約400年の時を経て姿を現した戦国時代のこの階段は、南北両端が後世の開発等により破壊されていますが、大手東側に築かれた曲輪の虎口と考えられ、その規模は全長約2.2m、幅約6.2mを計ります。虎口の門につきましては、水路などによる後世の開削が著しく、礎石など門の存在を裏付ける痕跡を確認することはできませんでしたが、比較的良好な状態で残されていた階段下の広場では確認されませんでした。門は階段上に存在した可能性が高いと考えられます。整備事業では戦国時代の石階段は保護するために埋設し、その上に同じような形で復元しています。土橋・虎口石階段
惣堀には古道である鍛冶小路から入る2箇所の虎口(出入口)が確認されている。大手石塁の北段では、土橋を渡った場所から石階段が発掘されたため、遺構に基づき修理・復元を行った。一方、南段では、発掘調査で細い土橋が確認され、やや狭い虎口であったことが確認された。