飛騨国一宮 飛騨一宮水無神社(みなしじんじゃ)・岐阜県高山市一之宮町




飛騨国一宮 飛騨一宮水無神社(みなしじんじゃ)・岐阜県高山市一之宮町

岐阜県高山市一之宮町に鎮座する「飛騨一宮 水無神社(みなしじんじゃ)」です。

主祭神の「御歳大神(御年大神・みとしのおおかみ)」と十四柱の相殿神を中心に、

飛騨一円の神々を奉祀しています。

御歳大神 は「水無神」と呼ばれ、15柱の御祭神は「水無大神(みなしのおおかみ)」と

総称されます。

古来より、「水無神」は、神通川(宮川)と飛騨川の分水嶺・水源である

位山(くらいやま)」に鎮座する水主神として水徳を仰がれ、

生命、特に農作物に実りをもたらす「作神(さくがみ)様」として信仰されてきました。

霊山 「位山(1529m)」には水主の神の磐座があり、御神体山として崇められ、

水無神社の奥宮があります。

神社創建の年代については不明ですが、平安初期の貞観9年(867年)に

神位を授かった記録があり、「延喜式」では小社に列格「飛騨国一宮」とされました。

鎌倉以降は神仏習合が進み釈迦像を安置し「水無大菩薩」を祀り、

鎌倉中期には隆盛であったが、以降の戦乱にて荒廃します。

初代高山藩主「金森長近」は慶長12年(1607)社殿の造営をはかり、

江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。

明治4年(1871)5月には、太政官布告によって国幣小社となります。

また、島崎藤村の父であった島崎正樹が

明治7年(1874)から明治10年(1877)までの3年間を宮司として在職していました。

飛騨一宮水無神社

H.P     https://minashijinjya.or.jp/

所在地    〒509-3505 岐阜県高山市一之宮町5323

電話番号   0577-53-2001

参拝時間   24時間

受付時間   (お守り・御朱印)8:30~16:30・(御祈祷)9:00~16:00

駐車場    約100台(無料)

高山市街から国道41号線を30分程下呂方向に南下、

国道を左折し宮川を渡った先が社頭となります。

鳥居の手前には一対の山犬(ニホンオオカミ)、2017(平成29年)5月に57年ぶりに開催された

式年大祭の際に有名な温泉旅館「水明館」による寄進です。

台座には水瓢箪紋の神紋がみられます。

飛騨一宮水無神社 由緒

古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)神位を授けられた記事にはじまる。中世鎌倉時代には社領は付近十八 ケ村に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。江戸時代に入って歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般の厚い信仰にささえられ、明治4年5月14日、太政官布告によって国幣小社に列せられ、昭和10年より国費をもって十年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成した。
昭和21年2月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。社名の水無は『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、鬼川原(覆ケ川原)の地名となっている。この宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称している。この霊山には一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(1159年)には飛州一宮神主から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。

神門

水無神社の参拝は拝殿手前の神門からとなります。

例祭など一年でも時限られた日のみ垣内参拝ができるそうです。

神門の両側には回廊が伸び正面の拝殿につながっています。

拝殿

飛騨一宮水無神社

御祭神

飛騨一宮水無神社(ひだいちのみや みなしじんじゃ)では、主祭神の御歳大神(御年大神、みとしのおおかみ)と十四柱の相殿神を中心に、飛騨一円の神々を奉祀しています。水無神(みなしのかみ)の名は平安時代中期に編纂された格式「延喜式(えんぎしき)」に記載され、飛騨国の一宮と称されて飛騨国中の宗祀として現在に至るまで篤い信仰を受けています。社名の水無は諸説あり「水主(川の水源をつかさどる神)」の意味であり、『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあります。
また、社前を流れる宮川の川床があがり、流れが伏流して水無川となることから、水無(みなし)川、水無瀬(みなせ)川原、鬼川原(覆ヶ川原)などの地名となりました。

御神徳

古来、水無神(みなしのかみ)は、神通川(宮川)と飛騨川の分水嶺、水源である位山に鎮座する水主神として水徳を仰がれ、生命、特に農作物に実りをもたらす「作神(さくがみ)様」として信仰されてきました。ゆえに農耕の祖神、養蚕・畜産の守護神、延命長寿(健康長寿)の守護神として御神威が高いとされています。
また、分水嶺に鎮座する水分神として子授け、安産、育成を、交通の要衝に鎮座する交通神として交通安全、旅行安全を、主祭神が年神であることから年始(正月、節分)には家内安全、商売繁盛、開運厄除を、毎年四月三日に行われる「生きびな祭」には女性幸福(良縁など)を願って、飛騨の内外から多くの参拝者が訪れています。

御由緒

創立鎮座の年代は神代にありと伝わりますが、古伝旧記が散逸して詳しい事は定かではありません。
歴史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事にはじまります。
元慶5年(881年)には従四位上に昇叙され神位も累進し、中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、神仏一体の両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無(みなし)大菩薩を称するようになりました。

文明年間(1469年~1486年)の頃には当社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村の3700余石に達して、後にその各ヶが武士化して一宮党として隆盛となりました。
また、この頃には室町幕府へたびたび神や御巻数の進上があったり、大永元年(1521年)出羽国に住む治部宥範が本願のもと、神主藤原氏部少輔政治は所々を勧進して水無神社を造営上葺し、高原城の江馬時経、三仏寺万春後室の妙泉、一宮少納言、渚南兵衛、久々野田中左衛門太郎の人達が資金を寄進されたり、国土の安穏を祈願されたりなどと朝野の篤い崇敬をうけていた事が伺えます。

天文~弘治年間(1532年~1558年)の頃には、社家の一宮右衛門大輔国綱が松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結び名を三木三沢と称し山下城主として、神職を家臣の森某に譲り武威を誇りましたが、天正13年(1585年)金森長近に滅ぼされ、これに伴い当社も衰徴しました。
高山藩主となった金森長近は在来からの一宮という神威を崇敬され、慶長12年(1607年)当社社殿の造営をはかり、宮、久々野の百姓を禁足して家並に手伝いを命じるなど厳しい規定を設け再興を進め、江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。

安永2年(1773年)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地となり、神職の山下和泉、森伊勢の両名が騒動に連座したと処罰され、山下、森両家に代わり安永7年(1778年)信州より梶原伊豆守家熊が招かれて、従来の両部神道を唯一神道に改めて阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去して社殿の大改修を行い、祝、社人、社司などと称した職名を宮司(大宮司)制に改め、安永8年(1778年)8月13日から15日までの3日間、飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行し神社の面目を一新しました。
これが現在まで続く「飛騨の大祭」の元であると云われています。

明治時代に入り明治元年(1868年)政府の発布した神仏判然令に基づき、神仏分離を進め社内にある仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去し、明治4年(1871年)5月14日国幣小社に列格し、明治5年(1872年)6月太政官布告をもって世襲神主である社家を廃し、山崎弓雄を当神社権宮司に、市村成章を祢宜に任じて以降、戦後の神社制度の改正まで歴代官選の宮司が任命され、島崎藤村の父であった島崎正樹が明治7年(1874年)11月13日から明治10年(1877年)12月8日までの3年間ほどを宮司として在職しています。

昭和3年(1928年)9月20日には当神社より古例によって御即位禮用御笏を献上、昭和7年(1932年)11月1日には当神社濁酒(どぶろく)を例祭に使用することが公認されました。

昭和12年(1937年)神衹院の国営工事として前社殿の大造営がはじまり、御内帑金の御下賜があり国費20万円、県費5千円、飛騨三郡市町村負担2万5千円宮村負担3万円が計上され、昭和14年(1939年)に第一期工事が完了して11月18日に正遷座祭が行われました。

昭和20年(1945年)8月15日敗戦により御造営途中で国家管理を離れましたが、戦後の困難を克服し昭和24年(1949年)にほぼ完成にいたりました。

昭和21年(1946年)2月の官制廃止後は、宗教法人の飛驒一宮水無神社(みなしじんじゃ)として神社本庁に所属して現在に及びます。

水無神社H.Pより

飛騨一宮水無神社略誌

一、 御祭神
水無神 御歳大神を主神として
相殿 大己貴命、神武天皇、応神天皇外十一柱
末社 延喜式内外十八社及び国内二十四郷の産土神
一宮稲荷、白川社(御母衣ダム水没の白川郷より奉遷)
一、 御由緒
神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、また水分の神と崇め農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり。
歴代朝廷の崇敬厚く、御即位、改元等の都度霊山位山の一位材を以って御用の笏を献上する。
明治維新、国幣小社に列し、旧来より飛騨一宮として国中の総社(総座)なり。本殿以下二十余棟建築凡七百坪は昭和十年起工、国費を以って改築せらる。
飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社、縁社二十余社を有する。
一、 祭祀
例祭 5月2日神幸祭、当社醸造の公認濁酒授与、神代踊、其の他奉納
節分祭 2月節分の日、追儺神事
生ひな祭 4月3日、日本唯一の生びな行列の供奉は圧巻
夏越祭 6月30日、大祓式、茅輪潜に神事
除夜、元旦祭、年越詣
一、 特殊神事
(一) 神代踊、当社にのみ現存する独特の神事にして毎年五月の例祭及試楽祭に神社前と御旅山で行はれ無形文化財として指定せらる。
(二) 闘鶏楽、飛騨国中の神社にて特殊神事として行はれているも往古当社より伝授されたるものなり、神代踊と共に氏子達百五六十人が揃いの衣裳を着け、円陣をつくり踊る古風幽雅な神事なり。
一宮神楽、雅楽に類するもので国中各神社へ伝授する。
(三) 一宮獅子、例祭、試楽祭のみ奉仕する。

手水舎・社務所

白川神社

白川神社

霊峰白山(二七〇二メートル)飛騨側の山麓にひらけた集落、大野郡白川村は合掌造りの里として世界遺産に登録されていますが、その白川村大字長瀬(通称 秋町)と同福島の両集落は昭和三二年(一九五七年)、御母衣電源開発がはじまり、ダム湖底に沈むことになり、氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨国一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建しました。

一宮稲荷

一宮稲荷

稲荷社   宇迦之御魂神
「飛州三沢記」に「一宮水明神往古より七宮なり」とあり、その一宮に稲荷社が見えている。
その後御本社へ合祀されてあったが、昭和24年4月2日境内稲荷坂に新たに社殿を造営して遷宮した。
一宮氏子で稲荷講を結成奉祀、更に平成6年11月5日に新社殿を改築造営した。

絵馬殿(拝殿)

境内左手にある絵馬殿は水無神社の元拝殿で、

慶長12年(1607)に初代高山城主の金森長近により造営されました。

安永7年(1778)に農民一揆「大原騒動」が起こり、

両部神道から唯一神道に改められた際に多くの仏教建築が破壊されましたが、

この社殿のみ取壊しを免れたそうです。現在は絵馬殿として移築されています。

絵馬殿(拝殿)の由来

一、慶長12年(1607)
飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営
(当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、安永7年(1778)
百姓一揆が安永2年に起り大原騒動と称し、当神社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた
一、明治3年(1870)
高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた。その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分たちの大切な拝殿として保管した。
一、明治12年(1879)
氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した。
一、昭和29年(1954)
十年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した。
一、昭和53年(1978)
宮村重要文化財指定、屋根銅板葺替(従来柿葺)
昭和54年1月 飛騨一宮水無神社
宮村教育委員会

飛騨一宮水無神社 御朱印

  • このエントリーをはてなブックマークに追加