長篠城跡(ながしのじょうあと) 愛知県新城市




長篠城跡(ながしのじょうあと) 愛知県新城市

長篠城 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/長篠城

愛知県新城市、日本100名城にも選出されている

長篠城跡(ながしのじょうあと)へ

長篠駅から少し歩いた所に門跡

駐車場と売店がある前辺りが二の丸跡


観光ガイド


長篠戦図


長篠城址史跡保存館

長篠城址史跡保存館の記事もご覧ください。

長篠城址史跡保存館 愛知県新城市の記事

長篠・設楽原一帯の地名

天正3(1575)年5月1日、
甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を率いて長篠城を取り囲んだ。
奥平貞昌を城主に、わずか5百人の兵が長篠城に籠城した。
城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、落城寸前となってしまった。
この時、城主の命を受けた鳥居強右衛門と鈴木金七は川伝いに城を抜け出し、
家康のいる岡崎城へ援軍の要請に向った。
家康と信長に会い、城内の様子を伝えた強右衛門は、
「援軍来たる」の返事を持って一足先に城へと向った。
かんぽう山で合図の「ノロシ」をあげた強右衛門は、城中へ戻る途中、
有海の篠場野で武田軍にとらえられた。
強右衛門は、武田方から「”援軍は来ない”と言えば助ける」と言われ、
城中が見渡せる場所へ連れてこられた。
城兵を前にして強右衛門は「援軍は来る」と大声で叫んだ。
勝頼は「勇気の士」としてその行動をたたえたが、武田の将兵によって、
この地で磔となった。
この強右衛門の行動がきっかけとなり戦いの舞台は、
長篠から設楽原へと移っていった。


長篠城縄張概図


歴代長篠城主

さすが、日本100名城だけあって観光客が多いです。

ちなみに戦後、長篠城は廃城となり

新たな城が築城され、のちに新城市と名付けられたようです。

掘り周りの土居が残る。


林高英 頌徳碑

城藪稲荷様移転のお知らせ

お稲荷様が近くの大通寺の境内に移転、

国道151号線を挟んだ向かいにあります。

掘り跡はかなりしっかり残っています。

本丸址、主郭は豊川側以外の三方向を土塁と堀が囲む

矢沢川が流れ込む本丸と弾正曲輪との間は深い谷で、まさに天然の要塞。

鳶ヶ巣山(とびがすやま)

向い側山並みの左手 高所、武田軍の陣地跡

寒狭川(かんさがわ)*豊川

別名・滝川・岩代川

鳥居強右衞門(とりいすねうえもん)

磔死(たくし)の碑 対岸の平地にあります。

磔に散る烈士 鳥居強右衛門

5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。
城中の食料はあと4、5日分だけ。
その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として
長篠城を抜けてた。
梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること4km。
15日朝、かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。
(長篠~岡崎は50km)
岡崎には援軍の織田信長も到着していた。
家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。
使命を果たして休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。
16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙3発。
そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕えられた。
武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて
長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけが残っていた)
しかし「援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ」とさけんだので、
対岸の篠場野の地で磔にされた。
強右衛門その時36才。
18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。

度合(どあい)

左手宇連川と右手寒狭川の合流点。

長篠城址の南篠。向かいの橋は牛淵橋

武田軍の五砦

対岸.武田軍五つの砦

鳶が巣方面の戦い。(武田軍約2270人)

字連川の向こう岸の山には、武田兵庫頭信実(信玄の弟)以下各武将が陣をしいた。

5月20日、本隊は設楽原へ進出したが、この部隊は長篠城の押えとしてここに残った。

5月21日(太陽暦7月9日)夜明け、東三河の武士(約3千人)を率いた

酒井忠次(吉田城主、豊橋市)はこの砦を急襲した。

信実以下激しく戦ったが多数が討死して追い落とされた。

同時刻、武田軍本隊も設楽原の織田.徳川軍の陣地に突入していった。

三輪川(みわがわ)

宇連川(うれがわ) 別名・大野川

野牛郭趾(やぎゅうくるわあと)

殿井(とのいど) 線路の向かい側


要害の長篠城

要衝(重要な拠点)、要害(攻撃が難しい場所)であった。

看板の裏手に見える堀と土居は天正三年に築かれたもので、

右手に門と土橋があり、更に土居(=土塁)と堀が伸びていたが

江戸期に壊されたという。

堀の土を掻き上げて土塁とし、堀には水を引いていた。

堀も土居も直線的ではなく、何度も折れ曲がっている。

矢沢(やざわ)

勝頼公本陣跡の王寺より流れ込んでいる。
向い側が弾正郭

不忍の滝

本流の豊川(寒狭川)に落ち込む滝が少しずつ交代してできた滝で、
侵食された深い谷は、長篠城西側の天然の掘りの役目をしています。
このあたりは、1kmほど北を通る大断層・中央構造線の活動によって
岩(三波川変成帯の緑色片岩や黒色片岩)がくだかれて弱くなり
深い谷ができやすくなっています。

資料館前から掘りの様子

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