佐和山城(さわやまじょう)・滋賀県彦根市




佐和山城(さわやまじょう)・滋賀県彦根市

Wikipedia / 佐和山城
https://ja.wikipedia.org/wiki/佐和山城

近江国(現 滋賀県彦根市)の佐和山城(さわやまじょう)へ

鈴鹿山脈と琵琶湖に挟まれた自然の地形は畿内と東国を結ぶ要衝として

戦国時代より軍事的 政治的にも重要な拠点でした。

佐和山城は標高は232m 比高は134mの山城で、

織田家の重臣 丹羽長秀や豊臣秀吉の五奉行 石田三成

関ヶ原の戦いのあとには、徳川家康の重臣 井伊家が城主となり

のちの彦根城へと引き継がれます。

佐和山城跡

佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏佐々木定綱(ささきさだつな)
の6男時綱(ときつな)が、佐和山の麓に館(やかた)を構えたのが始まりと伝える。
その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。
佐和山城は、両勢力の境目の城として攻防が繰り返された。
やがて湖北では、京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、
湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されることになる。

信長、秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視された。
信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀(にわながひで)を配し、
安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維持した。
秀吉の代も、堀秀政(ほりひでまさ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)、
そして五奉行筆頭の石田三成(いしだみつなり)の入城と、
佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。
この間、佐和山城はしだいに整備され、山上に本丸以下、
二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、
2重に巡らされた堀の内外には侍屋敷・町屋そして足軽屋敷などの城下町が形成された。

佐和山城への登山口は現在所有する 彦根 龍潭寺の境内より

ご好意により無料での入山が許可されています。

龍潭寺裏の登山口より

分岐(龍潭寺越え)より

左は大洞弁財天・右へ行くと佐和山城跡へ

塩硝櫓跡

土で盛られた城壁の役割を果たす土塁が

良好な形で残っています

謎の土坑

曲輪の北西端部に位置する土坑、用途は不明

周辺には瓦片が散乱していたそうです。

西の丸(塩櫓)

西の丸は本丸の北西に広がる3段の曲輪で、この曲輪はその最北端に位置します。
眼下には「かもう坂道り往還」(通称 龍潭寺越え)を見下し、
その立地より搦め手から敵の侵入を防ぐ役割を担っていたと考えられます。
この曲輪の北面と西面には土塁が廻り、水の手に向かって縦土塁が築かれていますが、
これらは一連で城外への防御ラインと考えられます。
現在、この曲輪にはたくさんの瓦片が散乱しており北西端部には大きな土坑があります。
城が機能していた当時、この曲輪には何らかの瓦葺の建物が存在していたと考えられますが、
今後進められる佐和山城跡の調査で少しずつ詳細が明らかになると思います。

西の丸跡

西の丸は、本丸の北西に位置し「かもう坂通り(通称 龍潭寺越え)」
の切通しから本丸へ至る途中に築かれた丸である。
彦根藩主井伊家に伝来した3枚の佐和山城絵図を見ると、
西の丸には3段の曲輪が描かれ、いすれも上段に「煙硝櫓」、
下段に「塩櫓」と記されている。
ただ現在は下段を「焰硝櫓」と通称しており名称の混乱が見られる。
また、絵図には描かれていないが、北西に伸びる尾根にも2段の曲輪が明瞭に確認できる。
西の丸跡は3ヶ月にわたる測量調査により、曲輪以外にも土塁や竪堀など
数多くの遺構を確認することができた。

佐和山城の本丸へ

井伊直政が山頂部を14mも削ったと伝わります。

本丸跡

佐和山城の山頂、標高232,9mの位置に本丸が設けられていた。
現在も山頂は平坦であるが、かつて本丸に存在したであろう天守台や
枡形などの遺構をほとんど確認することができない。
本丸は、大規模な「破城」があったと考えられる。
かつて、天守台は一丈五尺(約4.5m)あり、その上に5重天守閣が聳えていたと伝える。
また、井伊家に伝来した「佐和山城絵図」では、本丸の南東に月見櫓、
北に金蔵などの施設も存在したようである。
本丸への出入口施設である枡形は、
本丸の南西あたりにわずかな痕跡を認めることができるが、
登城坂にどのようにつながるのか明瞭ではない。

佐和山城跡から彦根城を望む

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