愛宕神社(愛宕山城)・静岡市葵区沓谷




愛宕神社(愛宕山城)・静岡市葵区沓谷

静岡市葵区沓谷、

谷津山の北東の峰(通称 愛宕山)に鎮座する愛宕神社

創建は、天正13年(1585年)徳川家康が駿府城の鬼門除けとして

京都の愛宕神社を勧請したといわれています。

当時、京都の愛宕神社は別当寺である「朝日山 白雲寺」支配下にあり、

修験道も盛んであったため、勧請されたのは「愛宕山大権現」で、

その本地仏とされた馬に乗った勝軍地蔵菩薩であったといいます。

室町時代には今川氏が愛宕山城を築き、現在の鎮座地は本曲輪に位置します。

谷津山自然公園

かつて谷津山は統一された名前がなく、

峰によって清水山、柚木山、正木山、愛宕山と呼ばれていましたが、

明治以降南麓の「柚木谷津村」の谷津の文字をあてて

『谷津山』と名付けられたと言われています。

愛宕山城

愛宕山城は、静岡県静岡市葵区沓谷城山に所在する日本の城跡。長沼塁、茶臼山砦ともいう。駿河今川氏の山城の一つ。

静岡市街の平野部に独立し、国道1号に並行するように細長く伸びる丘陵「谷津山」東端部で、標高90メートルの通称・愛宕山に造られた山城である。旗本の阿部正信が1843年(天保14年)に記した地誌『駿国雑誌』には「長沼塁」、静岡浅間神社神主で郷土史家だった新宮高平が1861年(文久元年)に記した地誌『駿河志料』には「茶臼山砦」として紹介されている

1504年(永正元年)に今川氏親が築いたとされる。当城、および静岡駅南側の八幡山にあった八幡城(八幡山城)、市街地北西部の賤機山にあった賤機山城の3城は、今川氏の本拠地である今川館(駿府城)と駿府の町を囲むように存在し、当城は北東側から侵攻してくる敵を防ぐ重要な位置にあった。

しかし1568年(永禄11年)に始まった武田信玄による駿河侵攻では、今川氏真が駿府から掛川方面へ逃亡した直後に武田氏方に占拠され、東方から今川氏を救援せんと向かってくる後北条氏の軍に対する防衛線として活用された。廃城時期は不明。

現在は「沓谷愛宕神社」境内となっているが、神社本殿(山頂)を本曲輪とし、その北側の一段低い平場を二の曲輪として、周囲の尾根筋に複数の腰曲輪を展開し、土塁や空堀などを設けている。駿河今川氏時代の遺構を残す城跡となっている。また谷津山自然公園としてハイキングコースが整備されており、愛宕山付近は「愛宕砦の森」と呼ばれる。なお北西山麓の竜雲寺には、駿河侵攻の9ヶ月前に死去した寿桂尼の墓所(静岡市指定史跡)がある。Wikipedia

手水舎

愛宕山城

愛宕山城は今川氏時代の駿府の町々を北方より侵略する敵に備えるような位置にあって、その外周の有渡山と西奈郷の山々の間を通して、北方に江尻の町及び今川氏時代の主要港「江尻港」を城山の頂から望むことができる。

また西に目を転ずれば、今川氏歴代の居館であった府中館の詰城である賤機山城と相対している。当城の城名は伝わらず、ただ「駿国雑志」所収「城塁記事」に長沼塁と記され、また「駿河志料」には茶臼山砦といい、「愛宕神社、東の尾上なり」と記されている。

永禄11(1568)年12月、今川氏真は庵原郡の興津河原において甲斐の武田信玄に敗れ、駿府を捨てて遠州掛川に敗退の後、武田氏は愛宕山城を陣所とし、北方の敵、小田原北条氏の侵攻を警備した。

愛宕山城は、静岡市内における城址のうち、特に遺構を現在まで完全に残す点で丸子城に次ぎ、また県内における数少ない今川氏築城の遺構を伝える城でもある。

愛宕神社

祭神

火之迦具土神(ひのかぐつち)・木花開耶姫(このはなさくや)

由緒

愛宕山は神います霊山として信仰された所で古文書(駿河志蓼料・駿国雑誌)等によれば大和朝廷東征の折皇子等のゆかりもある。古墳時代には数基の古墳の存在が地形上推測され境内から へぎ石(竪穴式石室用材)の出土が伝えられている。今川・武田・徳川時代駿府を守る山城として賤機山城・持船山城と共にその任に当たり当時の土塁・空堀が現存する。
創祀
天正二年(一五七一)徳川家康が山城国(京都)より駿府の鬼門除けとして馬に乗った勝軍地蔵を勧請し愛宕山大権現と祀り「辰年・巳年」生まれの人々の守護神として信仰されている。
神賑
二月二十四日(近い日曜日)例大祭には早朝より花火(煙火)を打上げ参道に露店が並び参拝者には社務所で甘酒が振舞われ福引きの楽しみもある採点には男子小学生がお供物係を勤め女子小学生が浦安の舞を奉納する皆初めてであり心の中に一生の思い出として残るであろう。
浦安の舞 昭和天皇御製
天地の神にぞいのる朝なぎの 海のごとくに波たたぬ世を

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