秩父神社(ちちぶじんじゃ)知知夫国一宮・埼玉県秩父市




秩父神社(ちちぶじんじゃ)知知夫国一宮・埼玉県秩父市

秩父神社H.P

秩父地方の総鎮守、秩父神社(ちちぶじんじゃ)

埼玉県秩父市、秩父鉄道秩父本線「秩父駅」のすぐ西側に鎮座

三峯神社宝登山神社とともに秩父三社の一社に数えられます。

毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」としてユネスコ無形文化遺産のほか

国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に

日本三大曳山祭のひとつに数えられています。


鳥居


御由緒

秩父神社

当社は、市の中央柞の森に鎮座し、秩父地方の総社であり、
延喜式神名帳にものっている、二千有余年の歴史をもつ関 東屈指の古社であります。
人皇十代、崇神天皇の御代、知知夫彦命が、
その祖神八意思兼命を奉祀したのに始まるといわれております。

一、 御祭神

八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)
政治、学問、工業、開運の祖神。

知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)
郷土開拓の神。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
宇宙創造神、俗に北斗七星の神として妙見様といわれる。

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)

一、 御祭礼

二月 節分祭(古式による鬼やらい行事が行われる)

四月四日 御田植祭

七月二十日 夏祭り(川瀬祭り)
悪疫払いの行事、神輿を荒川にもみ込み、屋台笠鉾を曳きまわされる。

十二月三日 秩父夜祭り(冬季例大祭)
日本三大曳山祭の一つで、国指定重要民俗資料 秩父祭屋台、
笠鉾六基が、県指定無形文 化財の秩父屋台ばやしのリズムに乗って
街中 を夜を徹して曳かれる。

御由緒

当社のご創建は平安初期の典籍「先代旧事紀-国造本紀-」 によれば、
人皇第十代の崇神天皇の時代に、八意思兼命を祖と する知知夫彦命が、
知知夫国の初代国造に任命され大神を祀っ たことに始まるとされており、
武蔵国成立以前より栄えた知知 夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶二年(八七八年)には神階正四位下に昇叙され、
延長五 年(九二七年)に編纂された「延喜式」にも掲載されるなど、
関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。
また、中世 以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し
長く「秩父妙見宮」として隆盛を極めましたが、
明治の神仏分 離令により秩父神社の旧社名に復しました。
現在の権現造りのご社殿は、天正二十年(一五九二年)に
徳 川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることから、
埼玉県の有形文化財に指定されています。
また、毎年十二月三日に行われる例大祭は「秩父夜祭り」とし て
国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭り、飛騨 高山祭りと共に
日本三大曳山祭りに数えられ全国に知られてい ます。
古くこのお祭りは妙見祭とも呼ばれ、妙見様の星祭りとして 親しまれてきました。
妙見様のご利益は、国土守護、除災招福、 貧窮を救い、
一切の諸願を満たしてくれる天女のような神様で あり、
庶民の様々な願いを叶えてくれるご神徳があるとされています。


手水舎


神門


平成殿 社務所


知知夫国総鎮守 秩父神社 境内案内図


本殿

秩父神社

当社は、武甲山(1304m)の北に位置し、
武甲山を遥拝する聖地であったという。

当社の創祀は、崇神天皇の御代。
当地の国造に任命された、八意思兼命十世孫である知知夫彦命が、
祖神を祀ったことにはじまるとされている。
これは、「先代旧事本紀」の「国造本紀」によるもの。
その後、允恭天皇の御代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が
知知夫彦を合わせ祀ったという。

祭神は、八意思兼命と知知夫彦命。
ただし、異説が幾つか存在する。
祭神に関しては、大きく五説あり、
思兼命、知知夫彦命、思兼命の御子・天下春命、大己貴命、秩父大神。

明治以前は、秩父妙見宮、大宮妙見宮と称していた神社だが、
その経緯は、嘉禎元年(1235)九月、社殿に落雷があり、
その再建時に、妙見菩薩を合祀したという。
その後、妙見信仰のため、本来の秩父神社の名が後退したが、
明治の神仏分離によって、古名に戻し、現在に至る。
祭神の天之御中主神は、その妙見を意味する神。
秩父における妙見信仰の始まりは、
初代秩父氏である、平将常が奉じたものらしい。

荒川の源流にある秩父地方は、

江戸時代には重要な水源の地とされていました。

そのため、1592年に徳川家康が江戸の町の水源でもある

秩父を守る目的で現在の社殿の建立を命じました。

何度か修復が行われ、1966年に台風の影響で損傷し復元を行ったものが現在の社殿です。

鮮やかな色の彫刻が施された権現造、埼玉県の重要文化財に指定されています。

日光東照宮や出雲大社なども手がけた江戸時代初期の伝説的な彫刻職人

左甚五郎(ひだりじんごろう)の作品が多くあります。


本殿右側


本殿 右

社殿の右奥にあるのが、左甚五郎作とされる「つなぎの龍」

秩父神社の鬼門である東北を守護するために作られたとされています。

「つなぎの龍」-左甚五郎作-

その昔、秩父札所十五番小林寺近くに「天ヶ池」 という池がありました。
その池に住みついた龍があ ばれた際には、
必ずこの彫刻の下に水溜りができていたことから、
この彫り物の龍が鎖でつなぎ止めた ところ、
その後、龍は現れなくなったという不思議 な伝説が伝わっています。
ご本殿東側の鎖でつながれた青い龍の彫刻こそ、
この伝説に語られた「つなぎの龍」の姿なのです。
昔から日本人は、家や地域の四方を青龍、朱雀、 百虎、玄武という神使が
守っていると信じてきまし た。この彫刻も、当社の東北(表鬼門)を守護する
青龍の姿を、名工左甚五郎が社殿彫刻に施したもの なのです。


本殿 裏

「北辰の梟」について

ご本殿北側中央に彫刻された梟は、「北辰 の梟」といって、
菱川師宣描く有名な浮世絵 の「見返り美人」よろしく、体は正面のご本 殿に向き、
頭は正反対の真北を向いて昼夜を 問わずご祭神をお守りしています。
当社のご祭神である妙見様は、北極星を中 心とした北辰北斗の星の信仰で、
この梟の見 ている方角に妙見様が出現することからも、
ご祭神を特に縁りの深い瑞鳥であると言える でしょう。
洋の東西を問わず、梟は智恵のシンボルと 考えられており、
当社のご祭神 八意思兼命 が智恵の神として崇敬の篤いことと重ねて、
思慮深い神使として社殿北面に施されたものと 思われます。


社殿 左側


本殿 左

「お元気三猿」について

三猿といえば日光東照宮が有名ですが、
同 じ徳川家縁りの御社であるにも拘わらず、
当社の三猿は日光とまったく違った表情をして います。
日光が古来の庚申信仰にちなんで「見ざる ・言わざる・聞かざる」なのに対し。
当社の 三猿は「よく見・よく聞いて・よく話そう」 ということで、
現代の情報化社会にふさわし く俗に”お元気三猿”として皆様に親しまれ ています。
当社のご祭神である妙見様は、神仏の中心 にあって、
人間の元気な命を司る神様として永く信仰されてきたことから、
特に不老長寿 のご利益があると言われています。

拝殿の正面左手には、『子育ての虎』が彫刻され、

これも左甚五郎作と云われている。

「子宝 子育ての虎」左甚五郎作

未だ群雄割拠の戦国時代、当社は甲斐の武 田信玄公の手により、
永禄十二年(一五六九 年)に焼失の後、
徳川家康公のお力により現 在のご社殿が再建されました。
家康公は、寅の年 寅の日 寅の刻生まれ ということで、
虎にまつわる物語が少なくあ りません。
それにちなんでか、当社の拝殿前 は四面にわたってすべて虎の彫り物が施され ています。
特に拝殿正面左より二つめの、子虎とたわ むれる親虎の彫刻は、
名工左甚五郎が家康公 の威厳とご祭神を守護する神使として
彫刻したものと伝えられています。
当時の狩野派で は、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法とされていたことから、
母虎があえて 豹として描かれているので特徴的です。


天神地祇社

本殿後方には、天神地祇社と称し、

全国の一の宮やそれに準ずる大社が祀られている。

ここに詣でると、全国一の宮を遥拝したことになるそうです。

天神地祇社について

平安時代から中世にかけて、朝廷の「 二十二社」奉幣制度と共に、
全国の各国 毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになりました。
かつ て秩父地方は、知知夫国として独立した存在でありましたが、
その当時には既に 武蔵国に属しており、現在の東京都府中 市に鎮座致します
大国魂神社(別称 六 所宮)が武蔵国の総社とされ、
その第四 ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。
古くから当神社の境内社の一つとされ て参りましたこの天神地祇社は、
全国の 一ノ宮(計七十五座)をお祀りしていま す。
これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は
全国的にも珍しいものと思います。
何故、このような形でお祀りされたの かは定かではありませんが、
一説による と当社のご祭神である八意思兼命が 多くの神々の意見を纏められ、
折々のご聖断を下される神様として古典神話の中 で活躍されていることから、
たくさんの 一ノ宮の神様がお祀りされたとも云われ ています。
ともあれ、これも秩父の歴史 風土に深く根差した
独自の信仰の表れであると云えるかもしれません。
この天神地祇社それぞれのご神前にお 参りすることによって、
合せて全国の一 ノ宮を遥拝することになりますので、ご 案内申上げます。

左から、
埴山大神・ 田村大神・ 石上大神・ 軻遇突智大神
若狭比古大神・ 大物忌大神・ 罔象女大神・ 句句津馳大神
津島大神・ 真墨田大神・ 金山大神・ 木船大神
天手長大神・ 和多津美大神・ 杵築大神・ 枚聞大神・ 丹生大神
南方大神・ 安房大神・ 中山大神・ 安任大神・ 箱崎八幡大神
砥鹿大神・ 都々古和気大神・ 白山比咩大神・ 籠大神・ 西寒多大神
伊射波大神・ 寒川大神・ 香取大神・ 倭文大神・ 鹿児島大神
松尾大神・ 都佐大神・ 春日大神・ 粟鹿大神・ 伊和大神
中央に天神地祇社
加茂大神・ 大鳥大神・ 鹿嶋大神・ 出雲大神・ 吉備津大神
三輪大神・ 都波岐大神・ 二荒大神・ 玉前大神・ 渡津大神
宇佐八幡大神・ 都濃大神・ 玉祖大神・ 水無大神・ 宇倍大神
高良大神・ 高瀬大神・ 住吉大神・ 建部大神・ 由良姫大神
浅間大神・ 大麻比古大神・ 枚岡大神・ 貫前大神・ 龍田大神
氣多大神・ 熊野大神・ 敢国大神・ 氷川大神
弥彦大神・ 厳島大神・ 阿蘇大神・ 氣比大神
廣瀬大神・ 三島大神・ 物部大神・ 事麻智大神


儀式殿


皇大神宮 内宮


豊受大神宮 外宮


神饌所

秩父宮妃御手植銀杏~乳銀杏~

秩父宮勢津子妃殿下がお手植えになられた銀杏は、
女性のふくよかな乳房のような形に育ったことから
「乳銀杏」と呼ばれて親しまれています。
銀杏は室町時代に中国から渡来し、
社寺木や庭木として多く植えられるようになりました。
「乳銀杏」の幹の太い枝の付け根付近から垂れ下がっている部分には
多量の澱粉が蓄積されています。


日御碕神社

日御碕神社

御祭神は須佐乃男神、悪疫退散の神さまです。
例祭日は7月20日であり、秩父神社の川瀬祭に合せて斎行されます。
宵宮である7月19日の午後7時より執り行われる
特殊神事「天王柱立て」の際には、常闇の中、
当社の御祭神である須佐乃男神が平成殿前に設けられた天王柱に奉安され、
8台の屋台・笠鉾の奉迎を受けます。


諏訪神社

諏訪神社

御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀賣神(やさかどめのかみ)、
風水守護・旅行安全の神さまです。例祭日は9月27日。
御本社は長野県の諏訪湖周辺に鎮座する諏訪大社です。


柞稲荷神社

柞稲荷神社

御祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)、商売繁盛の神さまです。
例祭日は3月第2日曜日。
願掛けの小型鳥居の奉納を随時、受け付けています。


白虎門


禍津日社・天満天神社

禍津日社

御祭神は禍津日神(まがつひのかみ)、災禍を直す神さまです。

天満天神社

御祭神は菅原道真公、学業成就の神さまです。例祭日は毎年1月第3日曜日。


東照宮

東照宮

御祭神は徳川家康公、子孫繁栄の神さまです。
御本社は日光東照宮、秩父神社の現在の御本殿を奉納されたことなど、
当社とは特別な関係にあります。


大銀杏

大銀杏

当社では、昔から「銀杏の葉」を神社の社紋として用いています。
この大銀杏は樹齢約400年とも言われ当社の御神木となっています。
昭和41年9月に襲来した台風によって幹が中ほどから折れ、
社殿に甚大な被害をもたらしました。
現在でも幹の中ほどに当時の名残が残っています。


神降石・柞の森禊川

柞の森禊川(ならのみそぎがわ)

風(かぜ)そよぐ 楢(なら)の小川(おがわ)の
夕暮れ(ゆうぐれ)は禊(みそぎ)ぞ夏(なつ)の 標(しるし)なりけり。
鎌倉初期の歌人 藤原家隆が詠んだ歌で、京都・下鴨神社の境内を流れる
「楢(なら)の小川」の夏の風物を詠んだ『小倉百人一首』にも収録の名歌です。
古来の社叢を「柞の杜(ははそのもり)」と称するのに因んで、
この御手洗(みたらし)川を「ならのみそぎがわ」と名づけました。


授与所


御朱印

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