光明山遺跡・光明城




光明山遺跡・光明城

浜松観光コンベンションビューローH.P
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麓の道の駅 いっぷく処横川から

一時間ほどかけ光明山遺跡へ

光明山(こうみょうさん) 標高540.3mの記事

光明山遺跡

光明山遺跡(山頂広場)は、かつてそこにあった光明寺の大伽藍跡です。
山頂にあった光明寺の大伽藍は1931年(昭和六年)の大火により焼失し、
その後1935年(昭和十年)に寺は現在地の山東に移転しました。
光明山遺跡からの展望は抜群で、浜名湖をはじめ、太平洋まで広がる平野部と
蛇行する天竜川が見渡せます。
ベンチと無料の望遠鏡があります。
光明山遺跡および北西にかけた地域には、16世紀末には光明城がおかれており、
武田、徳川の争奪戦もありました。現在も土塁跡などが残っています。

望遠鏡は無料です。

確かに超絶景なのですが、8割山です。

在りし日の光明寺。

今は祠が残るのみです。

左側に見える一番高いとこまで上がりお昼にしました。

光明城

山城

享禄年間(1528年~1532年)に朝比奈時茂によって築かれ、
後に朝比奈太郎泰方が継いで在城したと云われるが定かではない。

元亀年間(1570年~1573年)には武田氏の属城として
朝比奈又太郎がいて犬居城主天野宮内右衛門景貫と戦った。

天正3年(1575年)6月徳川家康は本多忠勝・榊原康政に命じて光明城を攻略させ、
落城後は二俣城主大久保忠世に預けられ忠世の家臣が守備した。
天正10年(1582年)武田氏滅亡後に廃城になったと考えられている。

光明城は標高539.7mの光明山山頂から700m程南にあり、
「秋葉街道」を城内に取り込んで押さえる要衝に築かれている。

城が築かれる以前には山岳寺院があり、江戸時代には光明寺が再び山上に寺院を建立された。
現在「光明寺遺跡」として残る石垣はこの寺院のものであり、
城跡は中曲輪や堀切などわずかしか残っていない。

城主 今川氏,武田氏,徳川氏


堀切と中曲輪跡

五人塚
徳川の旗頭
本多作次郎・石川善内・渋谷三右門・菅沼源太郎・山本庄介
天正三年六月十日戦死


光明城 井戸跡


奥の院跡

奥の院跡にある鏡岩は巨大な一枚岩

圧倒的な存在感、ここに奥の院が置かれたのも解る気がする。

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