筑波山神社・茨城県つくば市筑波

「筑波山神社」は、古代より山岳信仰の対象とされてきた「筑波山」の山域を境内とします。
男体山の山頂に「筑波男大神(つくばおのおおかみ)=伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」を、
女体山の山頂に「筑波女大神(つくばめのおおかみ)=伊弉冉尊(いざなみのみこと)」を
祀る本殿が建てられており、 筑波山南面の中腹に拝殿がある。
筑波山がいつごろ創建されたかは不明ですが、
筑波山自体を御神体とする筑波山信仰に端を発し、信仰の山を祀ったものとされています。
平安時代にまとめられた、「延喜式神名帳」に記載のある式内社で、
筑波男大神は名神大社・筑波女大神は小社に列せられています。
江戸時代には、将軍家の祈願所として歴代将軍の厚い保護を受け、
神領は広大なものでありました。
第3代将軍家光から寄進された銘吉宗の太刀は、
国の重要文化財に指定され、社宝になっています。
つくば道
つくば道は「日本の道百選」にも選ばれている古道で、
徳川三代将軍・家光の時代に筑波山の参詣道として開かれた道です。
つくば市北条を起点とし、筑波山神社まで続いています。
大鳥居
参道にある朱塗りの大鳥居は1979(昭和54)年8月1日建立されました。
「筑波山(神社)」のシンボルともなっており、麓からも見える巨大さが特徴です。
「柱間15m、全高17m、笠木25m、柱径1.5m」
石鳥居と紫峰牛碑
「つくば道」終点の先、御神橋の手前にある「石鳥居」は、
1946(昭和21)年11月、奉納により建立されたものです。
鳥居の前には、2014(平成26)年12月建立された、
筑波山周辺で飼育されている国産黒毛和牛「紫峰牛」の碑があります。
なで牛の役割も持つといいます。
御神橋
御神橋
茨城県指定文化財。切妻造柿葺屋根付。間口1間、奥行4間。通常は渡れない。 春と秋の御座替祭(4月1日、11月1日)、年越祭(2月10・11日)のときのみ参拝者は渡ることが出来る。 江戸時代、1633(寛永10)年11月、3代将軍徳川家光公の寄進で造られ、1702(元禄15)年6月には、5代将軍徳川綱吉公によって改修されている。 安土桃山時代の様式をなす荘厳な造り。 なお、御神橋の手前右側に、旧筑波町(つくば市に合併して消滅した筑波町ではなく、その筑波町になる以前に存在した筑波町)の道路元標がある。
御神橋脇の手水舎
手水舎
筑波山神社拝殿前と御神橋の脇の2カ所にある。また、客殿前に手水(水盤のみ)がある。 上屋はいずれも近年に建て替えられたもの。 水盤は拝殿前が幅約180cm、奥行き約116cm、高さ約69cm。 御神橋脇が幅約227cm、奥行き約82cm、高さ約74cm。御神橋脇の水盤については1758(宝暦8)年3月の銘がある。
参道階段
山の斜面に造られているため、参道に階段が多いです。
御神橋と拝殿の間の参道は、急勾配の石の階段になっています。
御座替祭では、この階段を神輿を担いで駆け上がり、祭り最後の見せ場となります。
階段の先にある「随神門」には倭建命と豊木入日子命の2人の神様がいらっしゃいます。
随神門
随神門
つくば市指定文化財。間口5間2尺、奥行3間の八脚楼門。 1633(寛永10)年家光公によって寄進されたが、その後2度に渡って焼失、現在の門は1811(文化8)年の建立。 左側に倭健命(やまとたけるのみこと)、右側に豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の像が、参拝者ににらみをきかせる。
もともと仁王門だったが、神社となったことで名称を変えた。また、門にあった仁王像は、つくば市内の東福寺に移されている。豊木入日子命
筑波山に縁の深い古代武人の一人で第10代崇神天皇の皇子。皇子は長くこの地を治めたと伝えられている。
倭健命
筑波山に縁の深い古代武人の一人で第12代景行天皇の皇子。3種の神器の一つ「あめのむらくもの剣」を持って東征に赴き筑波山に登拝した。 また、東征の帰路、倭健命が甲斐国酒折で「新治筑波(にいばりつくば)を過ぎて幾夜か寝つる」との問いかけに、 火守翁が「日々(かが)なべて夜には九夜日には十日を」と答えたのが連歌の始まりとされる。 この故事により、連歌道を筑波の道といい、連歌集に「莵玖波集」(つくばしゅう)などの名がつけられた。

随神門
寛永10年11月(1633)3代将軍家光公寄進
宝暦4年(1754)焼失 再建
明和4年(1767)再び焼失
文化8年(1811)再建 県内随一の規模往古は、これより神体山である筑波山を遥拝したといわれ、
今でも自然と社殿とが一つになり神ながらの荘厳さを感じせしめる
霊所である。
当神社の境内地はこれより山頂を含む
約370町歩(ha)に及ぶ。倭建命(やまとたけるのみこと)
筑波山に縁り深い古代武人の一人で
第12代景行天皇の皇子である。
天皇の40年伊勢神宮に詣でて倭姫命より託された
三種の神器の一つのあるのむらくもの剣を奉じて
東征に赴き筑波山に登拝し給う。豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)
筑波山に縁り深い古代武人の一人で
第10代崇神天皇の皇子である。
命がいくた或夜大和国みもろ山に登って東に向い
刀と槍を各8回振る様を夢見られ天皇は霊夢の謎を解き給いて
命を東国(木国)に遣わし給う。
命は長くこの地を治められ筑波の里で神去り給うたが
御遺徳を慕う山西の民により宇都宮ニ荒山神社に祀られ
下野君 上毛君の祖と仰がれた。

随身門をくぐると拝殿が見えてきます。
参道階段脇には「デジタルサイネージ付き案内板」があり、
筑波山神社や筑波山周辺の案内などを見ることが出来ます。
筑波山神社拝殿
筑波山神社御造営由来記
筑波山は、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神御降臨の霊山で、西峰に男大神、東峰に女大神を祀り、筑波山神社と崇め奉る。世々筑波国造が奉仕し
嵯峨天皇の弘仁十四年正月官社となり、延喜式明神大社に列す。
慶長の初め徳川家康は、当山を以て江戸城鎮護将軍家第一等の御祈願所と定め、寛永十年十一月三代将軍家光は山内の諸社堂伽藍を悉く寄進造営し輪奐その美を尽す。御神領千五百石。元治元年の筑波山義挙を経て、明治元年三月、新鬱分離の令により当山は神体山信仰の古例に復し、明治八年拝殿を造営す。
その後、昭和三年四月文部省古社寺保存課安間立雄技手の設計監理にて唐破風千鳥破風付銅板葺入母屋造りに改修し、昭和三十年五月男体山御本殿を改築す。
昭和五十一年五月二十四日・二十五日の両日
天王・皇后両陛下 当山に御幸啓遊ばされ、全山を挙げて御聖代を謳歌し奉る。越えて昭和五十四年五月御本殿造営奉賛会を結成して、六十五年の風雪に堪えた女体山御本殿を改築し、更に記念事業として九十五年前建築の社務所に代え、「人民集賀」と御神徳を称えた常陸風土記縁りの参集殿を建立して千手堂に三重塔を配した江戸時代の結構の再現、及び百年前に亜鉛板で仮葺きした随神門屋根の改修をはかり、氏子崇敬者からの浄財寄進により左の事業を行い、明治以来の宿願を達成す。
女体山御本殿 守礼授与所改築
神明造銅板葺 昭和五十五年五月竣工
参集殿 新築 昭和五十七年四月竣工
○屋根唐破風付銅板葺入母屋造り
随神門屋根銅板葺替 昭和五十九年八月竣工
明年 筑波研究学園都市に於いて開催される世紀の祭典科学万博つくば’85を迎えるに当り、御造営の由来を録して広大無辺なる神明の加護を深く感謝し、天下泰平国家安全、万民弥栄を精祈するものである。
昭和五十九年九月吉日
筑波山神社御本殿御造営奉賛会境内由緒書より

筑波山神社について
古代より山岳信仰の対象とされてきた筑波山を境内(標高270m以上約370ha)とし、 男体山頂に筑波男大神=つくばおのおおかみ(伊弉諾尊=イザナギノミコト)を、 女体山頂に筑波女大神=つくばめのおおかみ(伊弉冉尊=イザナミノミコト)を祀る本殿が建てられ、 筑波山南面の中腹に拝殿がある。 筑波山がいつごろ創建されたかは不明だが「天地開闢(てんちかいびゃく)」以来、自然とあがめられるようになったとする。 いわゆる、境内地自体(筑波山自体)を御神体とする筑波山信仰に端を発し、信仰の山を祀ったものとされる。 もともと筑波男大神、筑波女大神として祀られていたが、その後大和朝廷の力が及ぶに至り、日本神話と融合し祭神が伝えられたと考えられる。
782(延暦元)年に法相宗の学僧・徳一(とくいつ)が、筑波山知足院中禅寺を開く。筑波山の御威光を借りて仏教を広めようと考えたと見られる。 それ以降、明治の廃仏毀釈まで、筑波山神社のなかに仏教寺院がある神仏習合の形で、神と仏をともに祀った時代が長く続いた。
筑波山神社の現在の拝殿の場所には、中禅寺の本堂(大御堂)が、その脇には三重塔、現在の随神門は仁王門と呼ばれ、その近くには鐘楼もあった。 このほか、薬師堂、経堂、聖徳太子堂などを持つ、大伽藍だった。多くは江戸時代、徳川家の庇護の下、建立されたもの。
筑波山神社が現在の形になったのは明治以降。本堂が取り壊され、その跡に拝殿が建てられたほか、三重塔はじめ多くの仏教施設が壊され、仏教色が一掃された。 なお、鐘楼はつくば市内の慶龍寺に移され今でも見ることが出来る。同じく仁王像もつくば市内の東福寺に移されている。 このほか、多くの仏具もゆかりの寺院に移され難を逃れた。
御利益は、祭神の二神が結婚して神々を産み、国を造っていったという神話から、縁結び、夫婦和合、家内安全、子授け、子育てなどにご神徳がある。 また、国を造ったという事から、社運隆昌、職場安全、工事安全、五穀豊作、商売繁盛などにもご神徳があるという。 このほか、導きの神としても信仰されている。これは、筑波山が平野のなかにあり遠くから望むことが出来るため、古来より、道しるべとなってきた。 さらに、鹿島灘で操業する漁師さんたちも筑波山を目印にしていたという。このため、交通安全、旅行安全などに御利益があるとされる。
平安時代にまとめられた、延喜式神名帳に記載のある式内社で、筑波男大神は名神大社、筑波女大神は小社に列せられている。 明治時代の近代社格制度では県社。現在は、神社本庁の別表神社。
毎年の初詣には3が日で20万人以上の参拝者が訪れる茨城県内でも人気の神社。

江戸城鎮護の霊山
徳川家康は、江戸城に入城の際、東北にそびえる筑波山を江戸城鎮護の霊山とし、知足院中禅寺を再興して将軍家の御祈願所とした。 現在の筑波山神社拝殿の場所に本殿があった。当時は神仏混合で祀られることが多く、筑波山も筑波山神社と中禅寺は、明確に区分されていなかったようである。
なお、これは他の場所でも同じで、栃木県・日光の2社1寺も、江戸時代以前は神社、霊廟等含めて日光山と呼ばれ、現在のように分離されたのは明治時代になってからである。
徳川家康が筑波山神領500石を寄進したほか、2代将軍・秀忠、そして3代将軍・家光が、春日神社、日枝神社などを造営寄進。 徳川家の威信を示すような大規模な伽藍となった。 5代将軍・綱吉は知足院を護持院に、そして1000石を加増した。また、江戸時代の筑波山神領は、伊勢、日光の両神領とともに、国役金免除されるなど、筑波山がいかに大切にされていたかが分かる。
しかし明治時代に入ると、廃仏毀釈によって、筑波山では護持院が廃止された。 護持院はその後再興され、筑波山神社拝殿の隣、筑波山大御堂となっている。
参集殿
「参集殿」は1982(昭和57)年4月に完成した筑波山神社の中でも比較的新しい建物です。
拝殿脇にあり、御朱印やお守りの販売、祈祷の受付窓口などがあります。
さらに参集殿の西隣には客殿が建ちます。
客殿
御神水
筑波山神社の参拝者へのお清めの水は、御神水として、境内から湧き出る水が使われている
水源は、十一面観音を安置する神窟で、小さな鳥居もある。
日枝神社春日神社拝殿
日枝神社春日神社拝殿
日枝神社、春日神社両本殿の前にあるのが両社共有の拝殿。入母屋造で両本殿と同じく1633(寛永10)年、3代将軍徳川家光公の寄進による。 茨城県指定文化財。拝殿内には常陸七福神の恵比寿神が祀られている。
左 春日神社本殿 右 日枝神社本殿
春日神社
筑波山神社拝殿の向かって右側にある。手前に春日神社、日枝神社共有の拝殿、その奥に春日神社本殿と日枝神社本殿が並んである。 向かって左にあるのが春日神社。 本殿は三間社流造、1633(寛永10)年、3代将軍徳川家光公の寄進で造られた。茨城県指定文化財。 祭神は、武甕槌神(たけいかずちのかみ)、経津主神(ふつぬしかみ)、天兒屋根神(あめのこやねのかみ)。日枝神社
日枝神社本殿は春日神社本殿と同じ構造の三間社流造。春日神社本殿と同じく1633(寛永10)年、3代将軍徳川家光公の寄進で造られた。 茨城県指定文化財。本殿の蛙股に三猿が彫られている(下記参照)。 祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)。 知足院中禅寺を開基した僧・徳一は、藤原仲麻呂=恵美押勝=の子と伝えられ、その鎮守社として藤原氏に縁の深い春日、日枝の両神社を勧請したという。 なお、両社は社殿が朱色に塗られていることから赤宮とも呼ばれる。

日枝神社・春日神社・拝殿
寛永10年11月(1633)3代将軍家光公寄進
延暦の初、奈良興福寺の高僧徳一大士(恵美押勝の子)
諾冊二尊を拝し筑波山知足院中禅寺を開基し、
その鎮守社として藤原氏に縁の深い両社を勧請したと伝わる。厳島神社
寛永10年11月(1633)3代将軍家光公寄進
琵琶湖の竹生島より御分霊を祀る。
幕股の巳、虹梁の猪、脇障子の翁と媼など
壮麗な彫り物がちりばめられ、池を含めて社殿全体をみると、
水に浮かんだ島の上に鎮座していることがわかる。
八幡神社
筑波山神社拝殿の東、登山道、白雲橋近く愛宕神社脇にある。
愛宕山神社
筑波山神社拝殿の東、登山道、白雲橋近くにある。火防の神様。
楠木正勝の墓
筑波山神社拝殿東、登山道・白雲橋近くにある「六角石造宝幢」は楠木正勝の墓とされます。
正勝は、楠木正成の孫で、南朝の忠臣。虚無僧の祖ともいわれます。
正勝は、白雲橋近くにあった古通寺(普化宗)に来ていたといわれる。
古通寺は、1938(昭和13)年の千手沢の山津波で流されてしまいました。
筑波山神社男体山本殿
筑波山の西峯、男体山頂(871m)に鎮座する「筑波山神社 男体山御本殿」
御祭神 筑波男大神(伊弉諾尊)
筑波山神社女体山本殿
筑波山の東峯、女体山頂(877m)に鎮座する「筑波山神社 女体山御本殿」
御祭神 筑波女大神(伊弉冊尊)


