常陸国一宮 鹿島神宮(かしまじんぐう)・茨城県鹿嶋市宮中
茨城県鹿嶋市宮中に鎮座する全国の鹿島神社の総本宮「鹿島神宮(かしまじんぐう)」です。
「常陸国一宮」として延喜式神名帳には名神大社として記載されおり、
正一位 勲一等の神階を奉叙しています。
また、延喜式において神宮の号 を受けているのは、「伊勢神宮」「香取神宮」「鹿島神宮」
の唯一3社のみとなります。
明治4年には官幣大社に列格、勅祭社に治定されました。
また古来より、利根川河口付近に鎮座し、国譲り神話にちなむ御祭神をお祀りしている、
鹿島神宮・香取神宮・息栖神社は「東国三社」と呼ばれております。
主祭神の「武甕槌大神(たけみかづちのかみ)」は、
香取神宮の御祭神「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」と共に
天から指し遣わされた武神として知られています。
創建は、初代 神武天皇元年(紀元前660年)と伝えられていますが、詳細は不明。
神代に「経津主命」・「武甕槌命」が芦原中津国を平定後、
その子孫が香取・鹿島の両地に拠を構えて香取神宮・鹿島神宮を其々創建したといいます。
古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏からは氏神の一社として崇敬、
その後も歴代の武家政権からは武神として崇敬されてきた古社です。
鹿島神宮 表参道
飲食店や土産物屋が軒を連ねる、鹿島神宮の表参道商店街。
大鳥居(二の鳥居)の手前、約200m左側には「寵神社(りゅうじんじゃ)」が鎮座します。
元は鹿島神宮内に祀られていた竜神を祀る八社を合祀した社で、
火伏の神として町の鎮守とされています。
寵神社(りゅうじんじゃ)
御祭神 高寵神、闇寵神という竜神
昔は鹿島神宮の水を守り、火を防ぐ神で、御手洗池に二社と楼門の前後に四社、参道の両側に二社の八竜神と伝えられていますが、参道の二社が合祀されてこの寵神社となり大町区の鎮守となりました。
例祭日 毎年十一月一日
御神徳
昔の消防ポンプを龍吐水(りゅうどすい)というように、龍神は火伏(ひぶせ)の神とあがめられ、谷間を守る神でもあり、家内安全、商売繁盛、また 子育て、子供の守り神と伝えられいます。
大鳥居(二の鳥居)
鹿島神宮の表参道商店街の先に大鳥居(二の鳥居)
現在の大鳥居は、東日本大震災により倒壊した御影石製の鳥居に替わり、
境内に自生する杉の巨木を用いて、同寸法とし、平成26年6月1日に再建されました。
また、倒壊前の大鳥居は、昭和43年に竣工された茨城県笠間市稲田産の御影石製で、
当時、国産の花崗岩の鳥居としては日本一を誇るものでした。
参道
手水舎
手水舎の前に本来あるはずの楼門は「廻廊保存修繕工事」のため、
目隠しがされ、見ることが出来ませんでした。
この鹿島神宮の楼門は豪壮で、鮮やかな朱色が美しい門で、
熊本の阿蘇神社・福岡の筥崎宮とともに、「日本三大楼門」の一つに数えら、
国の重要文化財に指定されています。
水戸光圀の父・水戸初代藩主 徳川頼房により寛永11年(1634)に奉納されたもので、
楼門の扁額は、東郷平八郎の直筆とされています。
楼門
楼門
日本三大楼門の一つに数えられる楼門は、高さ約13m、重要文化財に指定されています。寛永11年(1634)、水戸徳川初代藩主の頼房卿により奉納されました。『鹿嶋社楼門再興次第記』によれば、三代将軍家光公の病気平癒を頼房卿が大宮司則広に依頼し、家光公が快方に向かった為に奉納されたとあり、浅草の水戸藩下屋敷で130余人の大工が切組み、船筏で運んで組み立てました。昭和15年の大修理の際丹塗りとし、昭和40年代に檜皮葺の屋根を銅板葺にしました。 鹿島神宮H.Pより
授与所
楼門をくぐった先の左手に授与所、
ここで御守・御札等の授与しています。(8:30~16:30まで)
また授与所の背後には社務所と祈祷殿が建ちます。
社務所
社務所・祈祷殿建物内に神殿を備えており、大勢の方に快適な環境で御祈祷をお受けいただけます。神職が普段仕事をする社務所もこの中です。 鹿島神宮H.Pより
祈祷殿
鹿島神宮の御朱印は祈祷殿内部にて拝受できます。
頂ける御朱印は(本宮・奥宮)の2種類あり、初穂料は各\500-です。
鹿島神宮では、式年大祭として「御船祭(みふねさい)」が12年に1度の午年に行われます。
御船祭は応神天皇の時代に祭典化されたと伝わる、神宮における最大の祭典です。
戦国時代には一時中絶したが、明治3年(1870年)に再興されました。
御船祭の由緒
常陸国風土記に「毎年七月に舟を造りて津宮に奉納する」とあるように、鹿島の神と船との関係は創建時代にまで遡ります。
東路の果てに位置する鹿島はその昔、外海の太平洋と西の内海の中で船団の航行によって栄えた古代東国文化の要衝でした。御船祭は、東海を扼する鹿島に鎮座して関東の開拓鎮撫に当たる鹿島の大神を奉ずる当時の人々の足跡を伝える祭であり、およそ1700年前の応神天皇の御代より伝わる鹿島神宮最大の祭典なのです。
12年に一度の午年に斎行されるのは、十二支が一巡すること、また午は方角では南、時刻では正午と陽性が最も盛んであることから来ています。この大祭にはあらゆる邪気と不景気を祓う一陽来復の願いが込められています。
御船祭のみどころ
御船祭はその壮麗さとその規模共に鹿島神宮最大の祭典であり、内海での御船祭としては最古最大の祭典ですが、その見どころは以下の通りです。
まずは9月1日午前10時、勅使をお迎えしての例祭が厳粛に斎行されます。そして午後4時半より提灯まちの神事があり、大きな青竹にたくさんの提灯をつけた大提灯が勇壮に練り歩き奉焼され、その後午後8時より神幸祭が斎行、御分霊を奉戴した御神輿が行宮へ渡御します。
9月2日午前8時、行宮御発輿祭の後、約2千名の供奉員による「鹿島立ち」の陸上大行列があり一路大船津へ。北浦沿岸の大船津には昨年竣工した水上鳥居としては国内最大級の一之鳥居がありますが、そこに設置された桟橋を通って御神輿が鳥居をくぐり御座船へと進む様は見どころの一つでしょう。これに先立ち大船津では様々な奉祝行事が行われ祭りを盛り上げます。御発船祭の後、御神輿を奉戴した竜頭で飾り付けた御座船は八十余隻の供奉船を従えて鰐川から浪逆浦を経て香取市加藤洲の斎杭まで進みます。その間の船団渡御は約2時間を要します。拝観は大船津より南へ伸びる堤防、新田、谷原、鰐川の両岸の堤防が良いでしょう。正午頃、香取神宮による御迎祭があり、対岸の潮来河岸では、奉迎者の前で奉祝行事が賑やかに行われます。御迎祭を終えると船団は一路帰途へつき、午後4時半に楼門前にて行宮御着輿祭が執り行われます。このように、9月2日はその全てが見どころと言えます。
9月3日午前10時には行宮祭を斎行、そして午後3時には御神輿を本宮に還御する還幸祭が行われ、12年に一度の大祭は終りを告げます。
この他、大祭を盛り上げるべく様々な奉祝行事が行われるほか、祭り期間中町内では山車が引き出され祭りを彩ります。
鹿島神宮の主祭神「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」が持っていたとされる神剣は
「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)・布都御魂剣」と呼ばれています。
韴霊剣は「神武天皇」に下された後、石上神宮に安置され、鹿島神宮には戻りませんでした。
そのため、作られた二代目が、現在鹿島神宮に伝わる韴霊剣であると伝わります。
韴霊剣(布都御魂剣)は、別称「平国剣(くにむけのつるぎ)」と呼ばれ、
名称「直刀・黒漆平文大刀拵 附 刀唐櫃」として国宝に指定されています。
祈祷殿に展示されていた「平成の大直刀」は、こうした神剣にあやかり、
鹿嶋の歴史に関連する古代の製鉄技術を再現して、市民の手によって集められた
砂鉄から作られました。
末社 御厨社・祖霊社
末社 御厨社では御祭神「御饌津神」をお祀りします。
その背後に見える祖霊社では、終戦後の昭和22年、成蹊学園内の社殿を移築したもので、
戦没者・祖霊をお祀りしています。
鹿島神宮 社殿
鹿島神宮 由緒
鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町
由緒
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」は、神代の昔に、天照大御神の御命令によって出雲の国に天降り、大国主命と話合って、日本の国を一つにまとめられた神様です。
その後、日本中を歩かれて最後に関東地方の開拓と鎮撫に当られました。そして、当時水陸交通の要所であった鹿島に鎮まられ、平和を守る神として仰がれるようになりました。
奈良、平安の昔は、国で二十年に一度ずつ社殿を建て替える造営遷宮を行っていましたし、奉幣使もひんぱんに派遣されましたが、中世には源頼朝など武将が特に尊信するようになり武神として仰がれました。
現在の社殿は、徳川二代将軍秀忠の奉納によるもので、奥宮社殿は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房がそれぞれ奉納したもので、いずれも重要文化財に指定されています。
例祭は毎年9月1日に献幣使が参同して行われますが、12年に一度の式年大祭(御船祭)と中間の6年目には天皇陛下の御使の勅使が派遣される勅使参向の大社として、全国の人々より崇敬されています。▲県文
「太刀 銘 景安」平安時代
景安は備前国の刀工で、この太刀は作風から見て古備前派に属し、優美な姿に加えて地・刃ともに極めて健全で、「景安」と切った二字名も古雅であります。
この太刀は水戸徳川初代頼房公の奉納されたものであります。▲県文「古瀬戸狛犬」
瀬戸竈が開かれて問もない古瀬戸に属し、髪は直毛、姿勢は直立に近く、全体に黒褐色の光沢のある飴粕をかけてあります。
本来この狛犬は鹿島神宮の摂社に奉安されておりました。▲県文「銅印」印文申田宅印
古来神印として重宝とされていたもので、社伝によりますと、光仁天皇の宝亀9年(778)朝廷より奉納、後に押手社に奉安されて、特に神職任符の際に押捺したと記されております。
▲県文「木造狛犬」
現在の社殿造営の折に、紀州(和歌山県)根来の平之内正信が残材を利用して作り奉納した一対の狛犬で、正信は江戸初期の名工として有名な建築家でありました。
▲国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵、附刀唐櫃
日本最古最大の直刀で、製作年代は今から約1300年前と推定されます。
常陸国風土記に、慶雲元年、国司等が鹿島神宮の神山の砂鉄で剣を作ったとあり、その剣であろうともいわれております。
古くは本殿内に納められていた神刀で、御祭神の神剣師霊剣の名も伝えられています。▲「雪村筆百馬図」
雪村が、当宮に百日間参籠し描いた絵で、一枚ごとに「奉進納鹿島大神宮」と書いてあります。
この百馬図は簡素な筆使いにより一層馬の動きを見事にとらえています。
重文「梅竹蒔絵鞍」(表紙)
源頼朝が建久2年(1191)に奉納した神馬に付けられていた鞍で、戦乱が起こらぬよう祈願を籠めて奉納したと「吾妻鏡」に見えております。▲県文「黒漆螺鈿蒔絵台」
上面に横六個縦五個計三十個の孔を有し、鉄鉾を立てて使用したもので、鹿島大神が出雲の伊那佐の小浜で大国主命と国譲りの談判の際、剣を抜いて波に逆しまに立て、その前に踞座された神話を具現して作られたと思われます。
鹿島神宮略年表
神武天皇元年 社殿を造立す。(社例伝記)
崇神天皇御代 神示により天皇は中臣神聞勝命に命じて大刀、鉾、鉄の弓、鉄の箭許呂、枚鉄、練鉄、馬、鞍、八咫鏡、五色の?を神の宮に納め奉らしめた。
(常陸国風土記)倭武天皇御代(景行朝か) 大神中臣狭山命に宜り給うにより新たに舟三隻を造り献る」(常陸国風土記)
神功皇后御代 韓征伐に鹿島の大神が守護し給いしことにより報賽として皇后御腹帯を奉納。これより安産の信仰起る。(鹿島長暦)
天智天皇御代 造営に初めて使人を派遣これより修理絶えず年別の七月舟を造る。
(常陸国風士記)大化5年 中臣鎌子、中臣部兎子等総領高向の大夫に請いて下総及那珂国を割きて神の郡を置く。(常陸国風土記)
大宝元年詔して神宮及仮殿を造る又造営の年期を定めて二十年とす(当神嘗式年御造営のはじめ)(鹿島長暦)
慶雲元年 常陸国司彩女朝臣トえて鍛冶佐備大麻呂等を率いて鹿島に来り神山の砂鉄を採りて剣を造る(現国宝「画刀」の製作年代と同時代である)(常陸国風土記)
神護最雲2年 御分霊を奈良に奉遷し春日杜を造立す。(帝王編年記〕
延長5年 鹿島神宮、名神大社、祈年祭に官幣案上の奉幣、月次祭、新嘗祭に預る。(延喜武)
建久2年 源頼朝神馬同鞍。(古文書)
仁治2年 当神宮炎上、但し本殿奥御殿は焼かず。自朝廷より春日、大原野、吉田の三社(当神宮御分社)に奉幣して鹿島社炎焼を謝す。(百練抄〕
慶長10年 御造営、徳川家康関ヶ原の戦勝報賽に奉納(現奥宮社殿是なり)(古文書)
元和5年 御造営、徳川二代将軍秀忠奉納により現在の本殿、石の間、幣殿、拝殿等造営成る。同時に僅か14年前奉納の本殿を引き奥宮社殿とす(古文書)
寛永11年 楼門廻廊忌垣百三十間造営。水戸藩主徳川頼房奉納。(古文書)
明治4年 官幣大社に列せられる。
明治43年 御本殿大修理。
大正12年 拝殿大修理。
昭和4年 今上天皇陛下行幸。
昭和29 年式年大祭勅使参向。奥宮社殿大修理。
昭和41年 常陸宮同妃両殿下御参拝。
9月1日勅使参向式年大祭。
同御船祭
昭和44年 皇太子殿下御参拝
昭和45年 本殿以四棟塗替工亭完成。
昭利49年 天皇皇后両陛下行幸啓。
拝殿
鹿島神宮
一、御祭神 武甕槌大神
一、鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町宮中
水郷筑波国定公園の一中心地をなす鹿島台地は怒濤逆巻く鹿島灘を東に配し、西に水煙茫々とひろがる北浦・霞が浦を望むことができる。 この台地の中央に数千年の歳月を重ねて大神は鎮まられる。
一、御事歴
神代の昔、天照大御神の命を受けた武甕槌大神は香取の経津主大神と共に皇孫の国たるべき日本の開国と建設とに挺身された。
とりわけ東国における神功はきわめて大きく関東開拓の礎は遠く大神にさかのぼる。
神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られたが、大神の神剣「師霊剣」により救われた。
この神恩に深く感謝された天皇は御自らの御即位の年、大神を鹿島に勅祭された。皇紀元年、即ち西歴紀元前660年の頃といわれる。一、御社殿
当神宮の御社殿はその昔伊勢の神宮のように二十年毎に造営が行われた。現在の本宮は元和5年(1619)徳川二代将軍秀忠公により再建。奥宮は慶長10年(1605)初代家康公により本宮として奉納されたものを後の元和の大規模な造営の際に引き移したものである。
一、文化財
国宝
「直刀」日本最古最大め直刀で師霊剣の名を伝える。茨城県では唯一の国宝である。
重要文化財
本殿、石の間、幣殿、拝殿、奥宮社殿、楼門、仮殿、梅竹蒔絵鞍、
県指定文化財
銅印、鐃、灯籠、景安太刀、木製狛犬四躯、陶製狛犬三躯、黒漆螺鈿蒔絵台、軍扇一、摂末社
奥宮、息栖神社、沼尾神社、坂戸神社、高房社、三笠社、跡宮の七摂社とほかに十五の末社が境内外にある。
一、年中行事
1月1日 元旦祭
1月7日 白馬祭
3月9日 祭頭祭(防人の出立と帰還の往時をしのぶ鹿島立ちの神事)
5月1日 御田植祭
9月1日 例大祭
9月1日 神幸祭
~2日 行宮祭・還幸祭(有名な提灯祭の後神輿が行宮に出御、町内は山車でにぎわう)
12月20日 宮贄祭
この他、中・小祭を加えれば年間七十数回もの祭事があり、12年に一度の午年の9月2日には壮麗な御船祭がある。一、境内案内
大鳥居茨城県特産みかげ石製、高さは10m。
御神木 根廻り12m、高さ43mの巨大杉。実に1200年余の樹令を数える。
御手洗池 古来みそぎの斎場として著名である。
神域の水を集めて湧出する一昼夜の量は432キロリットル。狭霧のかかる朝夕などは幽玄境そのものである。
御神璽
「申田宅印」
御神璽「申田宅印」は、鋳銅製径4cm、高4.5cm、光仁天皇宝亀9年の奉納。当神宮の神職任符にも捺印される。県指定文化財。
樹叢
当樹林は照葉樹林の北限、サルオガセ、フウランなどの南限をなし六百余種の植物が繁茂する。その学術的価値は高く、県の天然記念物指定。
楼門
寛永11年(1634)水戸初代藩主徳川頼房公の寄進。
この楼門の秀麗な造りは阿蘇、筥崎と並んで日本三大楼門に数えられる。
要石
その昔、大神が天降りし御座石とも地震を起す大稔の頭を押えるとも又ここを中心に西北に扇形を為す要の地とするなど、古来幾多の伝説を秘める。
同様な伝説が御手洗池、三笠山の藤の花、海の音、根上り松、松の箸、末無川を加えて鹿島の七不思議と呼ばれる。
雪村百馬図
室町水墨画の最後を飾る一彗星、雪村周継が当神宮に百日間参籠して奉納した百馬図の一つ。一枚毎に奉進納鹿島大神宮の文字がみえる。
鹿島神宮
鎮座地 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
電話番号 0299-82-1209
参拝時間 24時間参拝可能
神符守札授与所・御祈祷受付(8時30分~16時30時)
駐車場
第一駐車場60台(有料、1月1日~3日は閉鎖)
第二駐車場55台(鹿島神宮より徒歩5分、土日祝・繁忙期は有料)
鹿嶋市宮中地区駐車場 約150台(鹿島神宮より徒歩3分、土日祝は有料)
アクセス
【電車】JR鹿島神宮駅より徒歩7分・【車】東関東道潮来ICより15分
鹿島神宮の社殿は、「拝殿」「石の間」「幣殿」「本殿」が繋がっている権現造で、
二代将軍 徳川秀忠により元和5年(1619)に奉納されました。
社殿は参道の正面ではなく、右手に横を向く形で配置されています。
これは、北方の「蝦夷」に対する防衛拠点として位置づけられた神社のため
「社殿を北向き」にしたといわれています。
ただし、本殿内の神坐は東向きなのだといいます。
本殿・石の間・幣殿・拝殿本殿・石の間・幣殿・拝殿の4棟からなる社殿は、元和5年(1619)、徳川2代将軍の秀忠公が寄進したもので、重要文化財に指定されています。
本殿は参道から見て一番奥にある三間社流造の建物で、御祭神の武甕槌大神をお祀りしています。
拝殿は手前に見える建物で、正式参拝や結婚式の際にお上がりいただくことができます。 鹿島神宮H.Pより
御祭神 武甕槌大神
創 祀
神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。
御神徳
神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。またNE霊剣の偉徳により武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により農漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。
境内案内と鹿島七不思議
境内案内
奥宮(おくのみや)
ここより300メートル
本宮御祭神の荒魂(あらみたま)を奉祀する。 社殿は慶長10年(西曆1605)に徳川家康公奉納の旧本殿を元和5年に引遷したもので明治34年国宝指定 現重要文化財。
要石(かなめいし)
ここより450メートル
奥宮の後方150メートルのところにある石で 別名を山の宮、御座石(みましいし)といい幾多の神秘的な伝説がある。特に地震を起す大鯰を押えているという説話により当地方は大地震にも被害が少ないという
御手洗(みたらし)
ここより500メートル
奥宮の前の坂を下ったところにある潔斎の 池で古くはこの池のあたりが参道の起点で あった。池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられる。
鹿園(ろくえん)
ここよリ120メートル
御祭神の神使として親しまれている神鹿が 30数頭柵の中に飼育されている。
樹叢(じゅそう)
鹿島神宮境内約70ヘクタール(70町歩)に繁茂する植物は一千種の多種にわたり 特に南限北限の植物が同生して植物学上貴重なため県の天然記念物の指定を受けている。
鹿島七不思議
要石(カナメ石)
奥宮の南、300mほどの所、玉垣をめぐらした中にある。地上約15cmほど現われ、径三十センチほどの石で「この石は大地の底まで通っており、いくら掘っても掘りきれない」と言われている。古来「御座石(ミマシノ石)」と呼ばれ、何の石か分らず「山の宮」と言われて崇められて来たが、恐らくは古代の社の礎石ではなかったろうか。
御手洗池(ミタラシ池)
奥宮前の坂を下りきった所にあり「この池は大人が入っても、子供が入っても、水は乳の辺までしかない」と言われている。
大昔は、神宮の森の北側は入江になっていて北浦(大昔の鹿島流海〕に続き、舟で詣でた人々は此処で上陸し、手を洗い身を清めてから神宮へ参拝したので、この名が付けられたが、古来神職の潔斎する池である。末無川(スエナシ川)
神宮の東三キロの地点、高天原の東北に清水が湧き、池をつくり、その水が東の海岸に小川となって流れている。しかし「この川の水の流れる末は、いつの間にか見えなくなってしまう」と言う。
藤の花
三笠山(境内)の藤の花を言い「藤の花が多く咲く年は豊作、少ない年は凶作である」と伝えられている。
鹿島神宮年表の正徳3年(1713)の記に「今年御神前の藤花一枝も開かず、五穀不熟」と書かれている。海鳴りの音
神宮の東は太平洋である。この海波が磯にくだける音、「海鳴りが上の方(北)に聞える夜は、翌日は晴、下の方(南)に聞えれば翌日は雨」と言われているが、この海鳴りは冬の朝と夜に殊によく聞えるし、この自然の天気予報はよく的中する。
根上り松
神宮の境内、特に高天原の砂地に生える松は「幾度切っても、また芽が出てきて枯れることがない」と云われている。
松の箸(ハシ)
「鹿島の松で作った箸は松ヤニが出ない」と言われている。
これらの言い伝えは鹿島の地に古くから語られていて、ひっきょう鹿島神宮の御神徳や霊験をたたえ崇めたところから出たものであろうが、これに科学的な解釈をつけることは不要のことであり、我々現代人は、おおらかに古代の人々の素朴な伝承を、ほほえましく受けとっていてよろしかろうと思う。
鹿島神宮の樹叢は、茨城県指定の天然記念物です。広大な森には杉のみならずシイ・タブ・モミの巨樹が生い茂り、その種類は600種以上にも及びます。生育南限と北限の植物が混ざっているのも大きな特徴です。 鹿島神宮H.Pより
奥参道
拝殿前から奥宮に向かって300m程伸びる参道は「奥参道」と呼ばれています。
鹿島神宮の森は、約70万㎡の広さがあり、800種を超える植物が繁茂し、
照葉樹林の北限としても重要として県の天然記念物に指定されています。
5月1日には奥参道にて流鏑馬神事が執り行われます。
熱田社
末社 熱田社
御祭神 素盞嗚尊・稲田姫命
須賀社と同じく素盞嗚尊をお祀りしています。明治以前は七夕社といっていました。 鹿島神宮H.Pより
さざれ石
奥参道を進んだ先の左側にさざれ石、
その隣には「鹿園(ろくえん)」があります。
鹿は鹿島神宮の御祭神である「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」のお使い
であると言われています。
これは国譲り神話で、天照大神のご命令を武甕槌大神に伝えに来られたのが、
鹿の神霊とされている「天迦久神(あめのかくのかみ)」であったことによります。
そのため鹿は「神鹿(しんろく)」として、数十頭柵の中で飼育されています。
神園
鹿園(ろくえん)
国譲り神話において、鹿の神である天迦久神が、天照大御神の命を武甕槌大神に伝える重要な役割を担ったことから、現在でも鹿が神の使いとして大切にされています。また、奈良に春日大社を創建する際も、鹿島の神様の御分霊を鹿の背中に乗せてお遷ししたと伝わり、その道中には江戸川区「鹿骨」など鹿に関する地名が今も残っています。
神鹿(しんろく)について
古くから鹿は鹿島神宮の御祭神・武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)のお使いであると言われています。これは国譲り神話で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)のご命令を武甕槌大神に伝えに来られたのが、鹿の神霊とされている天迦久神(あめのかくのかみ)であったことによります。
神護景雲二年(西暦768年)、藤原氏が氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建するにあたり、御分霊を神鹿の背に乗せ奈良へと進みました。
その足跡は、東京都江戸川区の鹿骨(ししぼね)鹿島神社を始めとして、東海道を三重県の名張(なばり)まで言い伝えが残されており、この伝承から奈良の神鹿の起源は鹿島に求めることができます。
鹿島の神鹿は長い間大切に保護されており、 一時絶えた時期もありましたが、昭和32年、奈良と神田神社から神鹿を迎え現在の鹿園が開園されました。
膝折るやかしこまり鳴く鹿の声 曾良(そら)
河合曾良は松尾芭蕉の門人で、鹿島神宮を訪れた際にこの句を詠みました
鹿島神宮 奥宮
奥宮
御祭神 武甕槌大神荒魂
現在の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきたものです。 鹿島神宮H.Pより
奥参道の突き当りに、鹿島神宮 摂社奥宮 御本殿があります。
元は徳川家康公が関ケ原の戦いに勝利した戦勝のお礼として
慶長10年(1605)に鹿島神宮 本宮として徳川家康公が奉納したものです。
14年後の元和の造営の際に、2代将軍 徳川秀忠が現在のご本殿を奉納されるにあたり、
今の奥宮の位置に曳いてきたものが現在の奥宮となります。
奥宮の祭神は、武甕槌大神の荒魂をお祀りします。
三間社流造向拝一間檜皮葺で、国の重要文化財に指定されています。
奥宮
祭神 武甕槌大神荒魂
社殿 慶長十年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当り現在地に引移して奥宮社殿となった 重要文化財 (境内案内版より)
鹿島神宮 御朱印
鹿島神宮 奥宮 御朱印