お坊山(1421m) 米沢山(1357m) トクモリ(1412)・道の駅 甲斐大和より

山梨県分県登山ガイドの一座「お坊山」に登って来ました。
道の駅 「甲斐大和」の裏にある林道より、米沢山へ直登するバリエーションルートで登り、
大鹿峠を経て、一般ルートでの周回ルートです。
米沢山(よねざわやま)
| 標高 1357m | 登山日 2025年7月26日 |
| 小金沢連嶺と御坂山地をつなげている尾根上にある山 | |
| 所在地 山梨県大月市大和町初鹿野 | |
トクモリ(とくもり)
| 標高 1412m | 登山日 2025年7月26日 |
| お坊山手前のピーク | |
| 所在地 山梨県大月市大和町初鹿野 | |
お坊山(おぼうやま)
| 標高 西峰(1421m)・東峰((1421m) | 登山日 2025年7月26日 |
| 小金沢連嶺と御坂山地をつなげている尾根上にある山 | |
| 所在地 山梨県甲州市 | |
| 難易度 ★ オススメ ★ | 登山口(ナビ検索) 道の駅 甲斐大和 |
| 道の駅 甲斐大和(5:06)→米沢山(6:25)→トクモリ(6:46)→お坊山(6:55)→東峰(7:01)→大鹿峠(7:20)→田野氷川神社(7:52)→景徳院入口バス停(7:57)→道の駅 甲斐大和(8:14) 所要時間 3時間7分 累積標高 965m / 962m 距離 8.9km | |
| ■お坊山(1430m)は大菩薩嶺と御坂山地をつなげている尾根上にある山。笹子雁ヶ腹摺山とをつなぐ尾根は、新緑や紅葉の美しい広葉樹が続き、山頂からは、甲府盆地への展望がよい。山頂は西峰と東峰があり、東峰の山頂は広く休憩地に適している。 | |
道の駅 甲斐大和
道の駅 甲斐大和(かいやまと)所在地 〒409-1203 山梨県甲州市大和町初鹿野2248電話番号 0553-48-2571駐車場 大型:7台 普通車:58(身障者用2)台ホームページ http://kaiyamato.com/営業時間 9:00~18:00(水曜日定休)レストラン 11:00~16:00 木曜日定休 (祝日の場合は翌日)
市営林道 棚小屋線
道の駅 甲斐大和より、予報では晴れのはずが曇天。
道の駅の裏にある市営林道「棚小屋線」へ。
取付き
米沢山までの直登ルートを登ります。
標識「207号に至る」が取付き、どうやら巡視路を兼ねているようです。

特に鉄塔までは快適な道が続きます。

その後も道は明瞭ですが、所々急登でした。
米沢山(1357m)

笹子雁ヶ腹摺山まで歩こうとも思いましたが、
この天気なので諦めてお坊山を目指します。
トクモリ(1412m)
途中、変わった山名のピーク「トクモリ(1412m)」山頂標識はありません。
お坊山 西峰(1430m)
お坊山は双耳山で西峰の方が少し標高が高いです。
山頂標識にある標高は東峰のものかと思います。
晴れていれば北側に展望があります。
お坊山 東峰(1421m)
東峰は木々に囲まれ展望がありません。
こちらには新しい山頂標識が建っていました。

「大鹿峠(1131m)」から下山開始
田野 氷川神社
登山口には「田野 氷川神社」が建ちます。
さらに下ると、山梨県道218号「大菩薩初鹿野線」へ合流する手前に、
景徳院(田野寺)があります。
景徳院(田野寺)
田野一帯は武田家終焉の地とされています。
景徳院は徳川家康の命により建立された寺で、
境内には武田勝頼公親子が自刃した生害石やお墓等があります。
鳥居畑古戦場跡
同じく山梨県道218号沿線には「鳥居畑古戦場跡」があります。
旧甲州街道の宿場、駒飼口から攻め寄せる織田・徳川の軍勢に対し、
武田勝頼勢らが少数で迎撃したという激戦地です。 (甲州市指定史跡)

鳥居畑古戦場跡
時、天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼についた時、 岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信成が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り 防戦をする事に決め、付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等43人、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の 里に入った。其時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳友信は今こそ最後の御供を と田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞ふたのである。
その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしく疲れはてた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。明くれば 3月11日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た。 織田信長の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約4千である。勝頼公は己の命運のつきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き 新羅三郎以来武田家に相伝された小桜韋威鎧楯無の鎧を着せてカン甲の式を挙げた。(現在景徳院内に有り)
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳友信、土屋昌恒等100人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い 撃退する事数度以て勝頼公をして従容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に3枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人、北條 氏世子信勝公の生害せし処、現在景徳院内に有り。
山雲月を掩ふて夜色自ら惨たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。『鳥居畑古戦場』案内板より

甲州街道に合流
中央に登って来た尾根、途中で通った鉄塔も見えています。

