伝堀川城跡(堀川城の戦い)おんな城主 直虎 ゆかりの地




伝堀川城跡(堀川城の戦い)

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浜松・浜名湖観光情報サイト 伝堀川城跡
http://hamamatsu-daisuki.net/search/area/are-north/st094.html

気賀関所から西へ数分歩いた所に「伝堀川城跡」がある。

いままでも何度か通ったことがある道でしたが、

全然気がつきませんでした。

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駐車場などは無いですが、

路肩に数台は停めることが出来るスペースがあります。

道路沿いの湿地帯にあります。

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伝堀川城跡

永禄11年(1568)、徳川家康は、遠江侵攻にあたって、井伊家の被官であった
井伊谷三人衆、近藤康用(やすもち)、菅沼忠久(ただひさ)、
鈴木重時(しげとき)らを調略し、彼らの本領を安堵しました。
これにより、家康は井伊谷から刑部城(おさがべじょう)、引間城へと軍を進め、
遠江に前線を得ました。
しかし今川配下に土豪と農民たちは堀川城に立て篭って抵抗しました。
翌、永禄12年(1569)徳川家康の遠江侵攻にも、もっとも強く抵抗した城跡です。
当時の浜名湖の湖岸にあって、水辺の守りを固めた砦だったとおもわれます。
形や場所ははっきりしません。
ここで家康は篭城兵を「撫で斬り」とし、敗残兵を探し出して
気賀の獄門畷にさらし首にしています。
城兵は全滅となりましたが、一部の兵が対岸の堀江城に渡り、落城の情報を伝え、
堀江城は家康との和睦を選択します。
同じ今川家に仕えた遠江の諸将には、それぞれにとって大きな選択の年となりました。
なお、井伊谷三人衆は家康の命で後に井伊直政につきますが、
やがてそれぞれ独立していきました。
平成28年3月 北区まちづくり推進課

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堀川城の戦い

永禄三年(一五六〇)、今川義元が織田信長に敗れ、
今川氏真が家督を継いだころから、今川家の支配していた遠江は動揺します。
今川家の弱体化を見越した甲斐の武田信玄、尾張の織田信長、
さらには今川氏に反旗をひるがえして信長と同盟をした三河の徳川家康らが、
駿河・遠江への進出をねらって動き出しました。
信長・家康同盟の本拠、尾張・三河に近く、
また北遠を通じて信玄の領地であった信濃にも近い浜名湖北岸の地域は、
湖北をめぐる街道(後の姫街道)や水上交通の要衝として、
双方から重要視されました。
この地の武将や住民たちは、これまで通り今川家につくか、
信玄あるいは信長・家康につくか選択を迫られていきました。
永禄十一年(一五六八)十二月、井伊谷周辺を味方に付けた
家康が遠江へ侵攻します。
気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しました。
駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引き、
武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の動きも活発でした。
こうした状況に中、家康は堀川城に兵の目を避けて、
いったん三河に戻っています。
体制を立て直して再度遠江へ侵攻した家康は、堀川城を徹底的に攻め、
たてこもった城兵や住民を全滅させ、
落城の後も敗残兵を探し出して処罰しています。
さらに捕虜に首を獄門畷にさらしたと伝わります。
家康の生涯における戦の中でも、もっとも残酷な戦場となりました。
浜松市教育委員会

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今はこの辺と伝わった場所に石碑が立つのみ。

でもこの辺で血腥い戦が行われたことは間違いない。

アクセス

JR浜松駅バス「気賀・三ヶ日行き」50分「気賀駅前」下車、徒歩10分
天竜浜名湖鉄道「気賀駅」から徒歩10分

電話番号 053-523-1114(北区役所まちづくり推進課)
郵便番号 431‐1305
所在地 浜松市北区細江町気賀541‐3
営業時間 随時
その他 車:浜松西ICから20分 三ヶ日IC国道362号線経由20分

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城跡や古戦場を巡るとどうしても切なくなってしまします。

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