社山城跡(やしろやま)社山(130m)八幡神社・静岡県磐田市社山




社山城跡(やしろやま)社山(130m)八幡神社・静岡県磐田市社山

磐田市観光協会

磐田市社山にある社山(やしろやま)戦国時代の山城跡

山頂には八幡神社が鎮座、地名は神社に由来するものだと思います。

現在は社山城跡として整備されており、

山中には堀切や土塁などの遺構が良く残っています

社山 (やしろやま)

標高 130m 登山日 2019年2月18日
磐田原台地の北端にある中世の山城跡 山頂には八幡神社が鎮座
所在地 静岡県磐田市社山

難易度      オススメ  登山口(ナビ検索) 社山城跡
スタート(14:28)→小牧山(14:32)→ゴール(15:07) 所要時間 39分 高低差 69m 累積標高 102m / 100m 距離 2.2m
■磐田市社山にある社山(やしろやま)は戦国時代の山城跡で山頂には八幡神社が鎮座、地名は神社に由来。
■社山城は天竜川の東岸にある磐田原台地の北端に築かれている。現在は社山公園として整備されており、横堀や大堀切など見応えのある山城である。主郭は山頂西側にあり、南北に長い曲輪には八幡神社が鎮座する。
■室町時代後期、杜山城は当時遠江・駿河を所領していた今川氏の支配下に置かれていたが、今川義元が桶狭間にて落命すると城は三河より侵出した徳川氏のものとなる。元亀三年(1572)甲斐の武田信玄は上洛を目指し遠江に侵入、徳川氏と武田氏の間でこの社山城をめぐる争奪戦が繰り広げられたとされるが、天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると社山城の存在価値は薄れ、家康関東移封と時を前後して廃城になったという。
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社山城跡散策路

社山城跡(やしろやまあと)

磐田原台地の北に位置する標高136mの独立丘陵. 上に築かれた山城が社山城です。西を流れる天竜川によってけいせいされた段丘が自然の要害となり本曲輪はらの眺望は開け、西は浜松方面、北は二俣方面を一望できます。城跡の南側を抜ける街道は森を通り袋井・掛川へと続く重要街道であり、西側街道は二俣から国府所在地見付へと続いています。両街道を見下ろす社山城跡は交通の要衝を抑える地でした。

白の創築は記録が残らずはっきりとしりません。「宗長日記」によれば、文亀の頃(1501~03)に起こった遠江をめぐる斬波・今川両氏の抗争時、斬波義雄が城に立てももったが、今川氏によって二俣城に追われたとされています。元亀3年(1572)には、武田信玄が合代島へ陣をしいたことが知られ、社山城を含めた周辺一帯が二俣城攻めの拠点となりました。翌天正元年(1573)になると、武田勝頼が遠江に侵攻・社山を抜け袋井へ陣を張ったといわれています。同年、徳川家康が社山城に砦を構え、武田方となった二俣城に備えることになります。この年を最後に、社山城に関する記録は途絶えてしまいます。

茶畑沿いの広い路肩より

茶畑の風景

ここから山道へ

本曲輪北東下堅掘

横堀から続く一連の堀です。

東側斜面からの侵入を防ぐ堀です。

本曲輪北下横堀

北側の斜面を上ってくる敵兵に備えて造られました。

東側の堅堀に連なり、北側尾根筋を完全に遮断しています。

社山(130m)山頂の八幡神社

拝殿

本殿

社山城蘇鉄の由来

約六百年の昔、匂坂家四代六郎共長は今川家の命を受けて「社山城」を構築、その際城内に三本の蘇鉄を植えた。その後十一代六郎五郎長能の代に城主を交替、「匂坂城」を構築し、蘇鉄は匂坂城内に移した。元亀三年武田信玄により匂坂城は焼失、蘇鉄は宝暦年間に「増参寺」へ二株、「匂坂本家」へ一株が移植された。往時を想い故事を記念してその後裔を平成十七年二月吉日、里帰りさせたものである。

拝殿と蘇鉄

手水舎

本丸(一の曲輪)

白の中心となる曲輪で、総大将や重臣たちが入る場所になります。

南北に長い形をしています。

本曲輪と二の曲輪間の堀切

本曲輪と二の曲輪を遮断し、

お互いに独立して機能することをねらって造られた掘りです。

稲荷神社

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